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夏の終わりなんて本当に来るのだろうかと思う程の暑さが通り過ぎ、クリスマスと正月を過ぎてもピヨマルは戻って来なかった。
深夜、デスクチェアに座り一回転させた私はもう一度画面を見た。オンラインゲームの中は至って平和だ。変化がなさ過ぎて、“夏ってもう終わったよね?”とか考えてしまう。クリスマス討伐どころかそれ以降のイベントにもピヨマルは姿を現さなかった。ヒヨコを付けているアバターを見かけては期待して、落胆したのは一回や二回ではない。オンラインゲームのみでの付き合いなのだから急に居なくなってもおかしくないし、このゲームに飽きただけかも知れない。そう納得しようとしても、同じ学年の生徒の訃報とピヨマルの事が結び付いて離れなかった。このままピヨマルがログインしなければ、大袈裟に言うと私が交流して来た友人ピヨマルは死ぬという事だ。友人だと思いながら、オンラインゲームのチャット以外での連絡先も知らず、浅い付き合いを続ける事が丁度いいと消極的な考えを私は持っていた。チャットの話を盛り上げたり、ちょっとした話題を投げ掛けてくれるのはいつもピヨマルからだった。
――あんたの事ずっとキライだったからもう話し掛けないで。
突然、その言葉が頭の中に蘇って来た。小学五年生の時、友人だと思っていた女の子から言われた言葉だ。一方的に言われただけで当時の私は“自分は他人から嫌われるような人間なんだ”と思い込んで心の作りを根本から変えてしまったように思う。私も彼女も地元の同じ中学校に通ったが、キライと言われて以降は同じクラスになる事もなく姿を見ても視線も言葉も交わさず、沈黙よりも存在感の無いものを感じながら四年間を過ごした。
深夜は悪い想像が捗る。
「寝よ」と私は呟いてオンラインゲームからログアウトした。どんなに考えたところでピヨマルがログインしてくれない限り行方は絶対に分からないのだから。パソコンを閉じようとしたが、ある事を思い出して私はブラウザで“アベンジャーvsリベンジャー2”と検索をかけた。ピヨマルはヒヨコと黄色ものが好きという事以外ではこの映画を楽しみにしていると話していた。封切りは四月下旬で、ネット記事には出演者が怪我をして撮影が一時中断する事態もあったが公開に漕ぎつけたというような事が書かれていた。普段なら友人を誘って映画館に行くが、私はもうその瞬間には一人で行く事に決めていた。
*
黄色の上着を着たのは春だからだ。青空が広がり過ごしやすい土曜日の午後一時に私は電車に乗った。海が見えて来る手前の駅で降りて映画館まで少し歩く。その道のりに桜はなかったが、家族連れや友人グループの多さで行楽日和だなと思った。一人で行動しているのは自分だけではないだろうか、と錯覚する程だ。
「悪ィ」と声が聞こえた後、路地から二人組の男が出て来て私とすれ違った。何となく路地に視線を向けるとそこには地面に座り込む女性の後ろ姿があった。傍にはトートバッグが落ちて中身が飛び出ているのに、女性はその態勢のまま動こうとしない。大通りよりは遙かに少ない人通りではあるが、すれ違う人達はその女性の事を訝し気に見るだけだった。怪我をしている風には見えないという事なのだろうけれど、女性が散らばる荷物すら拾おうとしないのはどうしてなのだろう。何故、誰も声を掛けないのか。
――女性のトートバッグにはヒヨコのキーホルダーが付いていた。
「荷物拾いましょうか?」
私が声を掛けると、その女性は「あ……」と漸く現実を認識したというような声を出した。そして顔を上げ、「あっ」と女性と私の声が重なった。女性は――小学五年生の時に私にキライと言ったその人だった。一年会っていなかったが顔を見間違える訳がない。相手も私に気付いているのだろう、そそくさと荷物を拾い始めた。私は彼女が立ち上がるまで何もしなかった。手伝う気が削がれたというのもあるが、散らばった荷物にノートがあり、表紙に黒いペンで大きく“死ね”と書かれているのが見えたからだ。
「何で座り込んでたの」
彼女は塾か何かの行き帰りだろう。私は世間話をするつもりはなかったが、後味の悪い思いをしたくなくて理由を尋ねた。
「……人と、ぶつかって」
彼女が怯えたように言う。座り込んでいた事とノートの事から、彼女もまた誰かの所為で心の作りを変えてしまったのだろうと私は思った。友人だと思っていた小学生時代の彼女の印象ははきはきと喋る強気な女の子だった。
「怪我してないなら良かった。じゃあ」
「……待って!」
話を切り上げようとすると縋るような声に呼び止められた。私は無言で、恐らく嫌悪を隠し切れていない視線で彼女を見た。
「あの……あの時、キライって言ってごめん」
彼女は消え入りそうな声音で、俯きながら言う。
「また友達に……その……」
「仲直りはしないよ」
彼女はさっと顔を上げて、まるで被害者のように瞳を潤ませた。
「予定があるからもう行っていい?」
ネット予約した映画館の席の方が今は優先順位が高い。そもそも彼女だと知っていたら、トートバッグにヒヨコのキーホルダーが付いていなかったら声を掛けていなかった。
「――さっきのノート見えたでしょ!? 私がこんな……!」
彼女が声を張るとかつての面影を感じた。
「私相手みたいに強気でいけばいいんじゃない」
「……無理」
「何で」
彼女は唇を噛み締めて沈黙を挟んだ後に、
「こわいから」と言った。もしかしたら、彼女の心はまだ変化の途中なのかも知れない。変化の行きつく先が良くない場所だという事を私は分かっていた。
「イジメられる為に猫被ってる訳じゃないんでしょ」
怒ったのか泣きたいのか、彼女は顔を赤くした。
「……メモとペンある?」と私が訊ねると彼女は睨むような目付きをした後、表紙に“死ね”と書かれたあのノートとボールペンを取り出した。彼女がこんな事をされる理由も、それに彼女が耐え続けているという事実も私には不思議に思えた。
私はオンラインゲームのタイトルと自分のIDを書いてノートとボールペンを彼女に返した。
「ゲーム仲間としてなら、そこのチャットで話してもいいよ」
彼女はよく分かっていない顔で私とノートを交互に見た。
「じゃあね」と私が立ち去ろうとしても今度は呼び止められなかった。彼女は見捨てられたとでも思ったのかも知れないが、私としては秘密基地を教えてあげたのも同然だった。彼女にも、別世界への扉の鍵を持つ権利はあるはずだ。それを使うかは私が決める事ではない。
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