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エマは俺の彼女。だった。
残念ながら過去形だ。
付き合ったのは冬の終わりで、振られたのは夏になる前。バイト先で出会った彼女に俺は一目惚れした。
エマは知る人ぞ知るマイナーな映画を好み、地味なスリーピースバンドの曲に涙し、小劇団の公演や無名作家のギャラリー展にも足繁く通うような女の子だった。
対する俺はそういったものに疎い。
エマは自分の趣味を深く愛していた。というか、これ以上素晴らしいものはないと思っていたんじゃないかという気がする。だから当然のようにその世界に俺を招きいれた。
「高木くん、Spotify使ってる?おすすめの曲、リストにまとめたから共有しようよ」とか、「いま横浜でアートイベントをやっているの。行こう、絶対楽しいよ」とか。
彼女の感性に選び抜かれたそれらに、どこまでも凡庸な俺は馴染めなかった。でも俺自身はそれで良かったのだ。
「ねぇねぇ高木くん。これ見て」と上目遣いで笑いかけるエマは倒れそうにかわいく、肩を寄せあって小さなスマホを覗きこむだけで俺は幸せだった。
「おじゃましまーす」
棒立ちの俺の脇をしっぽがすり抜ける。
パレス高橋は1DKのアパートで、玄関を入るとすぐにダイニングキッチン、その奥にある掃き出し窓の先にしっぽが住んでいたという庭がある。
そのまま庭に行くのだろうか。
そう思うそばから、「寒いね」としっぽはダイニングの椅子に腰掛ける。
二対の椅子の奥側、赤いストライプの座布団が敷かれた椅子のほう。その位置も、座面に浅く座る姿勢も、いよいよエマを彷彿とさせる。
「ごはん、何にする?」
「え?」
「冷蔵庫、どうせ何もないんでしょぉ?作るなら買い物いくよ。それともどっか食べ行く?」
作る?作るって何を?
「スパイスたっぷりのスープカレー」
エマの得意料理だ。困惑する俺に、しっぽがふふ、と笑った。
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