2225日後 (full ver.)

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【プロローグ】  いやな音がした。機械が肉を抉る鈍い音。甲高いブレーキ音が耳をつんざき、上半身が大きく前にかしいだ。シートベルトが胸に食い込み、鋭い痛みを感じた。反動で後頭部がシートヘッドで弾み、体が左右に揺れて、助手席のガラスに側頭部を強打した。視界が揺れ、衝突の衝撃で頭の奥に痺れるような痛みがはしった。  車が停止しても、すぐには動けなかった。数時間前まで参加していた卒業式の集まりで大量に摂取したアルコールのせいではない。酔いは完全にさめていた。  午後から降りはじめた雨は大降りになっていて、よけいに視界を悪くしていた。大粒の雨がフロントガラスを叩き、罅割れたガラスのわずかな隙間からじわりと車内に滲み出していた。  頭も体も本来の機能を失ってしまったかのように硬直して、指先さえ動かせなかった。ただ呆然と割れたフロントガラスを見つめていた。一瞬の後、体から先に機能を取りもどした。全身がこまかく震える。唇が乾く。 「おい……」  かろうじて、言葉を発した。掠れて、裏返っていた。自分の声だとは思えなかった。 「今のって……」  震えが大きくなっていく。視界に靄がかかったかのようだった。罅の入ったフロントガラスに向かって叫んだ。 「なんだよ、今のは!」 「大きな声出すな」  運転席の暖がいった。暖の声も知らない人間のもののように聞こえた。ステアリングを両腕で抱え込むように上半身をもたせかけている。背中を大きく上下させ、息を整えようとしているかのように見える。 「ふざけんな! どうなってんだよ! なんだよ、これ!」  おれは完全にパニックに陥っていた。シートベルトをはずそうとしたが、手が震えてうまくいかない。苛立ちながらもどうにか体を自由にし、ドアを開けて車外に飛び出た。勢いがつきすぎて、前のめりに転げた。ジーンズの膝がアスファルトを擦ったが、痛みは感じなかった。豪雨に打たれて全身ずぶ濡れになったが、気にする余裕はなかった。 「俊介!」  暖の声が遠くに聞こえるようだった。おれは後ずさりながら周囲を見回した。 「やめろ。外に出るな」 「うるせえよ!」  足を縺れさせながら車の前に回り込んだ。車体の前面が大きくへこみ、擦り傷も確認できた。踵から頭まで冷たいものが這い上がってくるような感覚。  ゆっくりと顔を傾けた。車からすこし離れた後方に、“それ”はあった。  無意識に後ずさった。荒い息を感じて振り返ると、いつの間にか車を降りた暖がおれの背後に立っていた。おなじ方向に視線を向けている。ヘッドライトに照らされた顔は青白かった。 「犬……じゃないよな」  馬鹿げた発言だった。離れていてもわかる。犬の大きさではないしましてや鹿や猪でもない。都心から離れた田舎道とはいえ、山奥ではない。大型の動物が道路を歩いているはずがなかった。それでも、いわずにはいられなかった。  暖は黙っておれを追い越し、“それ”に近づいた。おれは足の裏を杭で打ち込まれたかのように一歩も動けず、暖の動きを目で追った。  暖は“それ”をしばらく見下ろしてから、膝を曲げてしゃがみこんだ。 「生きてんのか……?」  おれは震える声でいった。 「生きてんのかって聞いてんだよ!」  暖は無言で立ち上がり、ゆっくり戻ってきた。端正な顔が歪んでいた。その表情で、おれはすべてを悟った。 「いやだ……」  暖を凝視しながら、おれは首を振った。はじめはゆっくりと、すこしずつ大きくなり、濡れた犬のように大きく上半身を左右に捻った。 「やだやだやだ。嘘だろ。死んでんのかよ!」 「俊介」 「もっかい確認しろよ!」 「俊介!」 「そうだ、救急車……救急車呼ばないと……」  スマホを取り出そうとジャケットのポケットに手を突っ込んだ。その手を暖につかまれた。すさまじい力だった。 「聞けよ、俊介」 「なんだよ、離せよ!」 「いいから、おれの話聞けって!」 「話してる場合かよ! おれらひと轢いたんだぞ!」  口にしたとたん、現実が襲いかかってきた。家で待つ母親、明朝会う約束をしている彼女、地元の同級生たち、取得したばかりの運転免許、進学が決まったばかりの大学、将来……  現実感は絶望に変化した。膝が震えて立っているのが難しくなっていた。よろけるおれの両腕を暖が強くつかみ揺さぶった。 「しっかりしろ、俊介。今からいうことよく聞けよ。いいか?」  おれの返事を待たずに、暖はいった。 「起きたことはしかたない。1時間前に時間をもどせるなら、おれだってそうしたいよ。でもできない。だから今すべきことをしよう」 「おまえ、なにいってんの……?」  おれほどパニックになってはいなかったが、暖もさっきまでは取り乱した様子だった。しかし、今は冷静さを取りもどしているように見えた。顔は依然として青白かったが、目はしっかりとしていた。この状況で落ち着いて話そうとする神経とその視線の鋭さに、おれは形容しがたいおそろしさを感じた。 「しかたないってなんだよ。状況わかってんのかよ。とんでもないことしたんだぞ」 「わかってる」 「じゃあ救急車呼ばないと。あと警察も……」 「警察は呼ばない。救急車も」 「はあ?」 「おまえこそ、状況がわかってない。いいか。ひとつには、救急車を呼んでも無駄だ。もう遅い。警察はもっと駄目だ。ありえない」  暖がなにをいっているのか、まったく理解できなかった。そんな顔をしていたのだろう。暖は幼い子どもにいい聞かせるように単語ごとに切ってゆっくり力を込めて話した。 「なあ、俊介。おれは犯罪者になりたくない。おまえもだろ。親御さんのこと考えろ。おまえんち、お母さんとふたり家族だっていってたよな。おまえが逮捕されたら、お母さんはどうなる?」 「ちょっと待てよ!」  たまらずに叫んだ。暖の手を振り払った。 「運転してたのおまえだろ! おれは関係ない!」 「そんなの通用すると思うか。おまえは酔っ払ってるし、前科だってあるんだろ」 「前科たってただの窃盗だろ! そんなの……」 「警察に信用される人間か、おまえが?」  信じられない言葉だった。目の前にいる人間が他人に思えて、おれは立ち竦んだ。 「悪い。ごめん。おれはただ、おまえに落ち着いてほしいだけなんだ」 「……落ち着いて、どうしろっていうんだよ」  おれはどうにか興奮を抑え、胸を上下させて必死に呼吸をしながら暖をにらんだ。暖とはちがい、簡単に冷静になれるとは思えなかった。 「頼みがある」  おれの目をしっかりと見て、暖はいった。 「あいつを埋めるのを手伝ってほしい」  その言葉はあまりに衝撃的で、おれは愕然とした。間抜けにも口を開いたまま突っ立っているおれに、暖は畳みかけるようにいった。 「あいつを見ろ。服装からいってどう見てもホームレスだろ。いなくなったって、探す人間がいるわけない。だいじょうぶだよ」 「なにがだいじょうぶだよ!」  思わず声を荒らげた。とんでもないことだ。おそろしく、おぞましい。育ちがよく、物腰やわらかく、だれにでも親切な暖の口から出る言葉とは思えなかった。 「おまえ、自分がなにいってんのかわかってんの? おれは絶対嫌だからな!」 「おまえも共犯者になるんだぞ」 「交通事故の共犯とは全然ちがうだろ、そんな……人間を埋めるなんて……」 「人間じゃない。死体だ。もう死んでる」 「だからちゃんと確かめろって!」 「もう確かめた。なんならおまえも確認しろよ」  冗談ではない。死体に近づくなどごめんだった。 「生き埋めにするわけじゃない。葬式だって死体を土に埋めるだろ。埋葬とおなじだよ」  おなじのはずがない。おれはパニック状態の頭を必死で回転させようとした。うまくいきそうになかった。 「それでも嫌だ。絶対できない」  おれは絞り出すようにしていった。 「俊介」 「ごめん。本当に申し訳ないと思うけど、できないんだよ。おれには無理……」 「頼むよ、俊介」  暖が再びおれの腕をつかむ。今度は懇願だった。切実な頼み。暖は必死になっておれに頭を下げた。 「なあ、お願いだから、助けてくれよ。おれの家のことも知ってるだろ」  暖の声。はじめて聞く色だった。  暖とは去年の夏頃に地元のクラブで知り合った。田舎町にある唯一のクラブで、暖はVIP席の常連だった。高校生の入店は禁じられていたが、暖の親が地元の有力者で、特別扱いを受けていた。店の前で不良仲間とどうにか入れないか相談していたところ、声を掛けられた。  家が近所だったことを除けば、共通点はまるでなかった。暖の家は地元でも知られた政治家の一家で、父親は県議会議員、祖父は衆院議員だった。一方、おれはシングルマザーの家庭に生まれ、母ひとり子ひとり。物心ついた頃には父親はすでにいなかった。職場の同僚と不倫した末に家を出て行ったらしい。以来、母親はアルコールに溺れた。働いているところを見たことはなかった。生活保護と、おれが居酒屋でバイトをして手に入れるわずかな給料だけでどうにか生活している。  暖が気まぐれを起こさなければ、一生出会うことはなかっただろう。暖と一緒にいれば、クラブ以外にも入れる店やできる体験が増えた。遊ぶ金の心配をする必要もなかった。おれは暖にくっついて歩くようになった。  家庭環境がちがっても、おれたちは不思議とうまが合い、よくふたりで遊んだ。進学校に通う暖の授業が終わるのを待って、頻繁に会っていた。それぞれの学校にも友人はいたが、互いにもっとも近い存在だったことは間違いない。  知り合ってすこしして、暖が東京の大学に合格し、おれもランクはかなり下だが地元の大学に受かった。都内のマンションに生活の拠点を移す暖と地元に残るおれ。高校を卒業すれば、これまでのように会うことはすくなくなる。卒業式の今日が最後のはずだった。 「俊介、頼むよ」  おれの腕をつかむ暖の手に力がこもった。 「おまえのことはおれが一生面倒見る。就職先も、親御さんのことも全部。なにも心配しなくていい。だから頼む。助けてくれ」  暖の声はほとんど叫び声になっていた。そんなふうになりふり構わず必死になっている暖を見るのははじめてだった。考えてみれば、おれたちは互いのことをほとんど知らない。遊び仲間として、それぞれの家庭環境や学校でのたわいない話をしてはいたが、深い部分について知り合うことはなかった。 「おまえはなにもしなくていい。ただ見てるだけでいいから。な?」  暖に兄弟はいない。おれとおなじひとりっこだ。本人が望むと望まざるとに関わらず、政治家への道を進むのだろう。無免許でもなければ酒を飲んだわけでもないが、ひとを轢き殺したのだ。過失とはいえ、ただでは済まない。約束されたはずの暖の将来が消え、道が閉ざされる。 「……わかった」  暖の視線から逃げるようにおれは頷いた。ほかになにもいえなかった。暖が運転免許を取得した記念と高校卒業の記念にドライブへ行こうと誘ったのはおれだ。運転していなかったとはいえ、おれにも責任の一端はある。 「ありがとう」  暖がおれの手を握りしめる。おれはされるがままだった。これからどうなるのか、考える力は残っていなかった。  暖がトランクを開け、“それ”を運び込んだ。おれは暖に命じられるままに手伝った。両腕で足を抱え、トランクのなかに放り込んだ。  移動させるとき、フードを被った顔が一瞬目に入った。血だらけではっきりと判別できなかったが、50代くらいの男だった。顔を見れば一生忘れられなくなりそうで、あえて顔を背けて作業に集中しようとした。  人通りのすくない道とはいえ、だれにも見られなかったのは奇跡だった。暖が車を運転し、その場を離れた。  雨はまだ降り続いていた。おれは助手席で微動だにしなかった。体の震えは止まるどころか烈しくなっていた。 「これ」  暖が後部座席からタオルを取り上げた。渡されたタオルで顔を拭いた。事故の衝撃でぶつけたらしく、こめかみに血がついていた。痛みは感じない。寒さもなにも感じなかった。 「だいじょうぶか」  答えなかった。暖は前を向いて運転していたが、左手を伸ばしておれの肩をつかんだ。 「心配するな。うまくいくから」  おそろしいほどに冷静な暖の横顔を見て、おれはいいようのない寒気を感じた。おれの知らない男がそこにいた。故意ではなかったとはいえ、ひとを殺してしまったのだ。これほど冷静でいられるのは異常ではないか。学生時代から積み上げてきた信頼や友情がフロントガラスの罅のようにすこしずつ崩れ、車内に侵入する雨水のように黒いものが広がっていくようだった。 「この辺でいいか」  林道をさらに進み、人気のない森にさしかかったところで、暖は車を停めた。素早く周囲を確認し、だれもいないのを確かめてから外に出た。  トラックを開ける音と雨音が混ざり合う。おれはゆっくりと車を降りた。  ガードレールの脇に停めた車。エンジンはかかったままで、ワイパーが左右にせわしなく動いている。おれは車体のへこみと傷を見つめた。ヘッドライトに照らされ、猛烈な雨に打たれながら立ち尽くしていた。 「俊介?」  トランクを覗き込んでいた暖が顔を上げ、おれのほうに歩いてきた。 「どうした?」  呆然と立っているだけのおれを見て、訝しげに眉を顰める。 「あとはおれがやるから、車にいろよ。濡れるぞ」  おれの肩を軽く叩いて、暖は作業に戻った。トランクの向こうに暖の姿が消えると、おれはいった。 「暖」  かろうじて出た声は雨音にかき消され、暖に届かなかった。もう一度、叫ぶようにいった。 「暖!」 「え?」  トランクの陰から暖が首を伸ばす。暗くて表情はよく見えない。構わずに、いった。 「ごめん。おれやっぱ無理だ」 「俊介……」 「今ならまだ間に合う。警察行こう。おれも一緒に行くから」  暖は黙っている。おれは懇願するようにいった。 「こんなの絶対間違ってるって。おれたちまだ18なんだぜ。これから何十年も人生続くんだから。何回でもやり直せる。だから、なあ、警察行って正直に話そう。わざとやったわけじゃないんだから、そんなに重い罪にはらないって」  暖はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。 「……わかった」 「ほんとか?」  おれはほっとして息をついた。暖の主張は理解できるが、だからといって、やはり同意はできない。犯してしまった罪をなかったことにはできないのだ。逃げ延びることができたとしても、心のなかに闇が残るだろう。十年、二十年たってもその闇は消えない。一生を罪悪感とともに生きるのはごめんだった。 「ほんとに自首するんだな?」 「うん。俊介のいうとおりだと思う。やったことの責任は取らないと」  暖の顔は微笑んでいるように見えた。おれもようやくすこし笑えた。そうだ。だれにでも過ちはある。大事なのはどう償って今後の人生を送るかだ。 「よかった。じゃ早く行こう」  暖は完全に納得していないかもしれない。おれと暖では抱える事情がまるでちがうのだ。それでも、いつかはこの判断が正しかったと思えるだろう。そうしなくてはならない。おれは暖に背を向け、車に乗るため助手席に回ろうとした。  サイドミラーに映った暖の姿。その瞬間に気づくべきだった。暖の陰がゆっくりと背後に近づき、おれは無意識に振り返った。そして暖の目を見た。感情のない目だった。  おれは口を開いた。なにをいおうとしたのかは自分でもわからない。  暖が大きく上半身を捻った。なにか棒のようなものを手に持っている。それがなんなのか、確認するよりも先に、側頭部に強烈な衝撃を感じた。  なにが起きたのかわからなかった。気づくと、濡れたアスファルトに頬を擦りつけていた。雨と混じって薄い朱色の水になった血がダムのようにあふれ、目を開くことができなかった。それでも必死で視界を確保しようと瞼を震わせた。  靴音とともに、2本の足が近づいてくる。顔を上げようとしたが、体が動かない。 「暖……」 「ごめんな、俊介」  暖の声が頭上に降ってきた。感情を失った声だった。  後頭部にもう一度衝撃が加わり、おれの意識は消えた。 【12日後】  夢を見た。まだ幼い頃、母親に手を引かれて歩いている。母はいつになく楽しげで、ふだんは滅多にしない化粧をして、花柄のワンピースを着ている。大切なひとに会ってほしいとおれに告げ、輝くような笑顔で息子を抱え上げた。 「さあ、俊介。このひとよ」  母に促され、視線を移す。母が指さした先に男が立っていた。黒いジャンパーを羽織り、フードを深く被っている。  男がおれを抱き上げようとするかのように両腕を突き出してくる。その拍子にフードの下の顔があらわになった。男の顔は血だらけで、皮膚がめくれ、頬骨が突き出していた。目を見開き、恨みがましい眼差しでおれをにらんできた。  悲鳴。自分のものだった。飛び起きると、異質な金属音が耳に入った。右足首に嵌まった金属製の拘束具がおれの動きに合わせてじゃらと不快な音を立てていた。太い鎖で壁につながっている。 「起きたか」  いつの間にか暖がこちらを見ていた。おれの前に屈み込み、首を傾けてこちらを見ている。  反射的に飛び起きた。つかみかかろうとしたが、拘束具が邪魔をした。壁にしっかり固定された拘束具がおれの動きを止め、おれはつんのめって転倒した。 「だいじょうぶか」 「うるせえ!」  床に這いつくばったまま、おれは暖を見上げた。 「てめえ、冗談じゃねえぞ。いい加減ここから出せ」 「あきらめろよ。いつまでわめいてんだ」  暖は落ち着き払っていた。ゆったりとした動きで立ち上がり、ブルゾンのポケットから煙草を取り出した。 「暖、おまえ、わかってんのか。これ誘拐だぞ。誘拐プラス監禁。立派な犯罪。交通事故なんかとは比べもんになんないくらいの犯罪!」 「わかってるよ。おれは法学部に進学するんだぞ。法律に関してはおまえより詳しい」  暖はマッチを擦って煙草に火をつけた。慣れた手つきだった。暖がおれの前で煙草を吸うのははじめてだった。  6畳程度の小さな部屋。壁と床に固定されたテーブルと椅子だけが唯一の家具だった。厚みのあるマットレス。トイレとシャワーも壁と床に固定されており、隔てるものはなにもなかった。  あの事故の夜からずっとおれはここにいる。目が覚めたら足首に拘束具を嵌められており、携帯電話を含めた所持品は消えていた。 「くそっ、ふざけんな」  おれは足首の拘束具をはずそうと両手でつかみ力を込めたが、大型の手錠のように鍵穴がついており、解錠はおろか、力ずくで破壊することもできなさそうだった。おれは叫び声を上げて立ち上がった。自暴自棄になって手足をめちゃくちゃに振り回し、拳で壁を殴った。大声で助けを求めることでだれかに声が届くとはもう思えなかった。ここに連れてこられた日から何度も試したが、窓のない部屋で外の世界の音や匂いを感じることはいっさいなかった。  しばらく叫び、暴れて、精神的にも肉体的にも限界を迎え、おれは倒れ込んだ。床に手をつき、息を荒らげる。 「気は済んだ?」 「済むわけねえだろ……」  よろけながらも立ち上がり、暖をにらんだ。足を進める。暖は安全圏をしっかり確保していた。鎖の長さを熟知したうえで、おれが手を伸ばしても触れることのできないギリギリの距離に立ち、おれを嘲笑っている。 「暖。てめえマジで殺してやるからな」 「どうやって? そこから動けないのに?」 「すぐ警察がくるぞ。おれの親が通報してるに決まって……」 「知ってるよ」  暖は平然といった。 「お母さんとは今日も話した」 「おふくろと……?」 「かなり酔ってたみたいだったけど、明日、警察に相談するってさ。俊介のこと、すごく心配してる。しょっちゅう朝帰りするし、なにもいわずに出掛けることも多かったけど、1週間以上帰ってこないなんてことはなかったって」 「てめえ、おふくろになにかしやがったら……」 「しないよ。おれはサイコパスじゃない」 「だれが信じるかよ、そんな……」  母親の顔を思い浮かべ、眼球の奥が熱くなった。たったひとりの肉親に心配をかけている事実に、自己嫌悪で泣き出したくなった。そして、友人を殴り、拉致監禁するような異常な男が母親と会っている事実。不安と怒りで体が震えた。かろうじて、暖をにらみ続けていた。 「余裕こいてられんのも今のうちだぞ。警察がきたら、おまえを訴えて、一生ムショに入れてやるからな」 「どうかな。失踪届が出されたところで、そう簡単には見つけられないと思う」  まるで他人ごとのように滑らかな口調で暖はいった。狭い部屋をゆっくり横断しながら、緩く結んだ拳で壁を軽く叩く。 「ここはおれんちが持っている別宅のひとつの地下で、管理会社が1年に何回か様子を見にくる以外はだれも寄りつかない。地下シェルターがあることを知っているのは家族だけだし、鍵を持っているのはおれだけ」 「なんでおまえがそんな……」 「高校生のおれが鍵を持たされているのが意外? そうだよな。でもまあそれは今はいいや。とにかく、ここはおれと父親だけが知っている秘密の場所。警察にも見つけられない」  全身が冷えていく。暖の言葉が耳をすり抜けて背後の壁に吸い込まれていくようだった。 「わかったか、俊介。抵抗しても無駄なんだよ」  膝から力が抜け、おれはその場にへたり込んだ。頭蓋骨が揺さぶられているようで、視界がぼやけた。 「おまえのせいだぞ。おまえがよけいなこというから」  暖の声が降り注ぐ。もう顔を上げる気力が残っていなかった。床を見つめたまま、いった。 「ここまでするかよ……ここまで……」 「おまえだっておれの人生を台無しにしようとしただろ」 「おれはただ……」 「おれを告発しようとした。警察に突き出そうとした」 「だからってここまですることないだろ!」  叫んだ。これ以上耐えられず、涙がこぼれ、床に滴った。 「おれの人生はどうなるんだよ。たしかにおまえみたいなエリートじゃない。政治家にもならないしだれの役にも立たないかもしれない。けど、おれにだって親がいて、彼女もいる。大学に行って、就職して、結婚して家族をつくって……そういう未来を奪うってのかよ……」 「俊介」  涙を抑えられないおれの前で膝を折り、暖は静かにいった。 「本当にごめん。心の底から申し訳ないと思ってる」 「だったら……」 「でも外には出さない。絶対に。あきらめてくれ」  おれは叫んだ。だれにも届かないと知っていても、叫ばずにはいられなかった。床に額を擦りつけて、叫び続けた。  暖が立ち上がる気配がした。ドアが開き、そしてゆっくりと閉じた。 【48日後】  靴音。規則正しく響く。階段を降り、ドアが開く。 「起きてたのか」  スーツ姿の段が眉を上げる。手には紙袋。テーブルの上に置き、開いた右手でネクタイを緩める。  テーブルの上には昨日用意された食事の袋が手つかずのまま放置されている。一瞥して、おれのほうを見た。 「また食べなかったな」  袋の中身を確認して、ため息をつく。 「期間限定メニューだったのに」  おれは答えなかった。壁の隅に左半身を圧しつけ、両腕で膝を抱えていた。  暖が近づく気配がして、床を這うように移動した。金属音。右の足首に嵌められた金具が床と擦れて甲高い音を立てた。  部屋の反対側に逃げようとするおれを暖の手がつかまえる。左腕をつかまれ、抵抗しようとしたが、体に力が入らない。 「痩せたな。何日食べてない?」  もう片方の腕もつかみ、おれの両手を纏め上げて、ペットの健康状態を確認するかのように暖がおれの全身に視線を這わせる。ぞっとした。すこしでも視線を避けようと身を捩る。 「暴れんな。包帯替えるだけだから」  暖はおれの体を押さえ込み、スーツのポケットから新しい包帯のパックを取り出した。必死で体を動かすと、両腕の拘束が解け、おれは残った力を振り絞って拳を振り上げた。暖は顔の前で難なく防いだが、手にしていた包帯のパックは吹き飛んだ。 「わかったよ」  暖は嘆息し、おれから離れた。床に散らばった包帯を集め、テーブルの上に置く。 「ここに置いとくから、自分でやれ」  頭の傷はかなり回復していて、痛みはほとんどなくなっていた。だからといって、気が晴れるわけではなかった。  暖が所有する地下シェルターに監禁されてから1か月以上。6畳程度の小さな部屋には、スマホやパソコンはもちろん、テレビや新聞もない。あの死体がどうなったのか、事故がどう処理されたのか、知るすべはなかった。暖に尋ねてもなにも答えない。 「昨日、お母さんの様子を見に行ったよ。かなり参ってるみたいだった」 「母親に近づくんじゃねえ」 「遠くから見てただけだよ。話しかけたりしない」  母はどうしているだろうか。おれが消えて、バイトの給料が入らなくなり、生活保護で支給されるわずかな金額だけではとても生活できないはずだ。ひとり息子が突然いなくなって、精神的なダメージも測り知れない。酒の量が増えているのではないかと思った。無事とはいえないがせめて生きている事実だけでも伝えたいと思った。 合格した大学のオリエンテーションには行けなかった。母が入学の手続きを済ませているだろうか。  あの事故の直前まで、未来には希望があると信じていた。ばら色とはいかないまでも、人並みに大学生活を謳歌して、友人をつくり、アルバイトをして、楽しい日々を過ごすのだと思い込んでいた。決して恵まれた環境ではなかったが、大学を卒業し、安定した職に就いて、母親を養うつもりだった。すべて無になってしまった。  おれは完全に気力を失っていた。食事が喉を通らなくなり、シャワーも浴びず着替えもしないため、体は饐えた匂いを放っていた。爪や髭も伸びて汚れていた。電動シェーバーが与えられていたが一度もつかっていなかった。 「ほかにほしいものあるか?」  手をつけていない料理の袋を覗き込みながら暖が尋ねる。 「……家に帰りたい」 「だめだ。ほかのにしろ」 「電話……」 「それもだめ」 「体調が悪いんだよ。病院に……」 「俊介」  うずくまっているおれの前にしゃがみこむと、暖は憐れみの眼差しでおれを見下ろした。 「病院には行かせない」 「死んだらどうすんだよ……」 「そうなったらしかたない」 「クソ野郎……」 「勝手に騒いでろ。どんなことがあってもおまえはここを出られない」 「いつまで……」 「一生。死ぬまで」  抑揚を欠いた口調。なんの感情も読み取れない。 「頼むよ、暖。もう警察行くなんていわないから」  唇を震わせながらいった。乾燥した唇が擦れてかすかな痛みを感じた。壁を向き、膝を抱えて縮こまった体勢で、おれは懇願した。 「おまえのことはだれにもいわない。あの事故のことも、ここのことも全部なかったことにする」  水もわずかしか口にしていなかったから、しゃべるだけで喉の奥が痛んだ。おれは老人のように喉を上下させ、呻くように続けた。 「おれとおまえは昔からの友達ってわけじゃない。たまたま知り合っただけ。だからだれにも詮索されない。おれはおまえを知らないし、おまえもおれとは一度も会ったことない。これからも会うことはない。それでいいだろ。おまえの邪魔はしないし、おまえのことは全部忘れるから」  暖はなにもいわない。おれは重い頭を動かして暖を見ようとした。 「暖……」 「メシを食えよ、俊介」 機械が震える音がして、暖がデニムのポケットからスマホを取り出した。暖は立ち上がり、ディスプレイを確認し、親指をつかって素早く操作する。メールかLINEの返信文を作成しているらしい。室内を歩き回りながらタップしている。おれは無意識にその動きを目で追った。スマホから視線を逸らせなくなっていた。 「なに」 おれの視線に気づき、暖が顔を上げた。おれは逡巡したが、意を決していった。 「連絡はしないから、インスタを見せてほしい」 「インスタ?」  暖は訝しげに眉を寄せたが、すぐに納得したように大きく頷いた。 「ああ、彼女か。紗弓ちゃんだっけ」  おれは答えなかった。答える必要はなかった。暖はすべてを知っている。これまでに話していないこともすべて。おれを監禁したときに、おれのことを調べ上げたのだろう。父親を早くに亡くし、親戚付き合いがすくないこと。友人や恋人のこと。 「彼女のこと、気になるんだな。心配してるかどうか」 「心配してるに決まってんだろ」 「どうかな。案外、もう他の相手見つけてたりして」  スマホを操作しながら、暖はどこか楽しげだった。おれは反駁しかけたが、暖がもう片方のポケットからべつのスマホを抜き出したのを見て言葉を飲み込んだ。  特徴的なキャラクターがデザインされたケース。間違いなくおれのスマホだった。 「アカウント名、おぼえてる? わけないか。おまえのアカウントのフォロワー探したほうが早いな」  暖は独白のようにいって、おれの前にもどり、スマホをかざした。 「パスワード、教えて」 「……」 「教えないと探せないよ」 「もういい」  スマホのなかには親や友達の連絡先だけではなくSNSのアカウントや写真、動画とあらゆる情報が入っている。その気になれば解読されるかもしれないが、教えたくはなかった。 「冗談だよ。おれのアカウントから探してやる」  おれのスマホをしまって、暖は再び自分の機器を操作する。からかわれたのだ。悔しさに唇を噛んだ。  暖はおれのアカウントをフォローしている。知り合ったその日に教えた。田舎町では珍しいセレブの暖とはちがい、おれのフォロワーはごくわずかだ。数分と待たないうちに、紗弓のアカウントを見つけ出した。 「鍵アカみたいだな。フォローしてみようか」 「やめろ!」  暖が母親と連絡を取り合っているのは知っていたが、彼女まで会わせたくはなかった。だからこそ今日まで彼女の名は口にしなかったのだ。会いたいという気持ちが高まり、自制がきかなかった。 「冗談だって。おまえがパス教えないのが悪いんだろ」  暖は苦笑いしながらスマホをおれの目前にかざした。反射的に手を伸ばしたが、届かなかった。 「おっと、見るだけ。プロフィールしか見られないけどね。ほら」  フォローされているアカウントしか閲覧できない設定になっているため、確認できるのは短いプロフィール文とプロフィール画像だけだった。画像の顔写真は紗弓が去年友達とUSJに出掛けたときに撮ったもので、画像加工アプリで処理されてはいるが、たしかに紗弓だった。1カ月ぶりに見る紗弓の顔。おれは懐かしさで泣きそうだった。目の前に彼女がいるかのように、画面を見つめ続けた。 「……はい、終わり」  暖がスマホをひっくり返し、立ち上がる。おれは無様にもその動きを視線で追ってしまった。もう一度彼女の顔が見たいと願ったが、叶わなかった。 「来週からすこし忙しくなる」  なにごともなかったかのように、暖がしゃべりはじめる。ポケットではなく持ってきたバッグのなかに2台のスマホを放り込んだ。 「明後日から1週間東京に行くんだ。大学の準備で。マンションも契約しないといけないし」 「東京に住むのかよ……」 「大学が向こうだからな。……ああ、心配すんなよ。2、3日に1回はこっちにくるから。でないとおまえ餓死するだろ」  東京までは車で3時間はかかる。しかし、冗談だとは思えなかった。 「エアコンは自動設定にしておくし、水と食料は欠かさないようにしておくよ。ちょっと寂しいかもしれないけど我慢しろよな」  だれが寂しいものか。おれは文句をいう気にもなれず唇を歪めた。気づくと、暖が呆けた表情でこちらを見ていた。 「……なんだよ」 「おまえ……今、笑った?」 「はあ? 笑ってねえよ!」  咄嗟に否定した。笑ったつもりはなかった。暖を怒らせるのは面倒だと思ったが、暖はとくに機嫌を悪くするでもなく、手で顎のあたりを撫でている。 「そうだよな。久しぶりに見たから驚いた」 「だから笑ってねえって」  笑える状況ではない。おれは半ば呆れて壁を向いた。暖の気まぐれにはついていけない。 「じゃ、明後日までに1週間ぶんの食いもん持ってくるから。今日と明日のぶんはここに置いとく」  気を取り直すように早口にまくしたてて、暖は荷物をまとめドアに向かった。 「ちゃんと食えよ。それから、シャワーも浴びろ。匂うぞ」  生きているか死んでいるかもわからない状態で、体臭に気を遣う余裕などない。おれは無言で壁に向かって寝転がった。  目を瞑るとさっき見た紗弓の笑顔が瞼の裏に甦った。  紗弓とは中学3年のときに出会った。遊び友達の紹介で、ひとつ年下だった。すぐに交際に発展し、もう4年付き合っている。はじめてできた彼女だった。相手がどうかは聞いたことがないが、すくなくともおれはずっと一緒にいたいと望んでいた。  こんなことになって、きっと死ぬほど心配しているだろう。おれは心のなかで詫びた。そして彼女に会いたいと強く願った。向こうもきっとおなじ気持ちでいると信じて。  おれはゆっくりと上半身を起こした。テーブルの上に紙袋が2つ並んでいた。なかにはリゾットとパスタが入った箱。木製のスプーンをつかみ、リゾットを口にはこんだ。暖に従うのではなく、生きるためだ。どんな状況でも希望を捨てたくない。そう思った。 【57日後】  夢を見た。内容は朧だったが、紗弓がいた。おれの存在に気づいていないかのように、だれかと話している。男だ。顔はよく見えない。紗弓はその男と笑顔で会話していた。ネイルアートの施された指先が男のシャツの裾をつまんでいる。  叫びそうになったところで目が覚めた。最悪の気分。下着が濡れていた。  監禁されてから約2か月、セックスどころか自慰すらほとんどしていなかった。人体というのは不思議なものだ。生命が脅かされている環境にあってなお、生理現象を抑えることができない。むしろ、危機的状況にあるからこそ、本能が子孫を残そうと脳に刺激を与えているのかもしれない。  下着を脱ぎ、ゴミ袋の奥に押し込んだ。下着も含めた衣類はすべて暖が用意していた。部屋の隅に投げ捨てておけば、勝手に持っていかれる。だれが洗濯しているのか、清潔な着替えがまた提供される。  はじめのうちは、取りにきたところを襲うつもりで、マットレスの周囲に服や生ゴミを放置していた。しかしすぐにやめた。悪臭に耐えられなくなったからだ。換気システムはあるようだが、窓のない地下室は匂いが籠もりやすい。  下着を収めたゴミ袋に鼻を近づける。男の独特の匂いがする。おそらく気づかれるだろう。暖がこの日はやってこないことを願うしかなかった。  テレビもスマホもない小さな部屋に閉じ込められて、最初のうちは気が狂うのではないかと思った。時間の感覚や曜日の感覚がなくなっていくのを感じ、壁に細い線を刻むようになった。あの事故から57日目がたっていた。  4月になり、暖は東京の大学に進学していた。予告していたように、2日に1度はやってきて、洗濯や掃除を済ませ、小型のクーラーボックスに水と食料を入れていく。東京のどこに住んでいるのかは知らないが、自家用車で通っているのだろう。正確な時間はわからないが、あきらかに深夜の時間帯にくることもあった。  そしてそれは、暖の隠蔽工作が成功していることを示していた。暖はうまく死体を隠し、見つからずにいるのだろう。そうでなければ、こうして足繁く通うことも、大学に進学することもできるはずがない。 【73日後】  その日、暖は機嫌がよかった。ハンバーガーとフライドチキンを手にやってきた。東京では名の知れた有名店らしい。最近オープンしたそうで、おれは名前さえ知らなかった。 「もしおまえが捕まったら……」 「捕まらないよ」  部屋の反対側で床に座ってフライドチキンを囓りながら暖がいう。おれの前にもチキンの箱が置いてあったが、手をつける気にならなかった。 「もしもの話だよ。おまえが逮捕されたら、ここに食べものを持ってくる奴はいなくなるんだよな?」 「なに、心配?」 「いや。そうなったらそうなったでもういいかなとも思うけど……」 「なんで? 死にたいってこと?」  指先についた脂を紙ナプキンで拭いながら、暖がこちらを向く。 「最近すこし食べるようになってきたと思ったら」 「おれに死んでほしいのはおまえだろ」  フライドチキンの衣が乾いていくところを眺めながら、おれは無感動にいう。 「おれが?」 「おれが死んだら秘密が漏れる心配はなくなる」 「確かにね」 「殺す勇気がないだけだろ。腰抜けだからな、おまえは」 「いってくれんじゃん」  暖が笑う。おれは笑わなかった。 「おれはべつに死んでもいい。なんかもう生きててもしょうがないって気になってきたしな。ただ……母親のことが気になるのと、それと……」  言葉を切ったが、暖は見逃さなかった。 「彼女にも会いたいし?」  おれは答えなかった。暖もとくに反応を求めていないようだった。芝居じみたしぐさで手を叩き、立ち上がる。 「思い出した。おれ、紗弓ちゃんにインスタフォローされちゃった」 「は……?」  おれは唖然としたがすぐに身を乗り出していった。 「おまえ、ふざけんなよ。フォローすんなっつっただろが!」 「してないよ。いいね押しただけ。そしたら向こうからフォローしてくれた」  ハンバーガーとフライドチキンの包みを片付けながら、暖は淡々と話す。おれは呼吸が乱れていくのを感じていた。 「暖、おまえ、紗弓になにかしようとか考えてないよな?」 「まさか。全然興味ないよ、あんな女」  暖は呆れたように笑って煙草に火をつけた。おれを見つめて、首を窄める。 「怒んなよ。冗談だろ」 「怒ってない」  おれは深呼吸して暖をにらんだ。 「とにかく、あいつに連絡するようなことは絶対すんな。わかったな?」 「おまえがおれに命令すんの?」  言葉に詰まった。マットレスの上で拳を握りしめた。 「命令じゃない。頼んでる」  声が震えた。感情を抑え込み、いった。 「あいつのことはほっとけ。近づくな」 「そんなに好きなの?」  暖の声は笑っていなかった。唇だけは穏やかな稜線を描いてはいたが、目の奥にある感情を読み取ることはできなかった。 「なんでおまえに答えなきゃなんねえの」 「いいじゃん。答えてくれたら、彼女には近づかないって約束してもいいよ」  おれは躊躇したが、やがて観念した。 「好きだよ。好きじゃなかったら3年も付き合わない」 「どれくらい?」 「どれくらいって……」 「結婚したいくらい?」 「そう……だな。向こうはわからないけど、おれはしたいと思ってる」 「あ、そう」  自分で聞いておいて、関心なさげに暖はいう。 「わかったよ」  暖は肩を竦めてまだ長い煙草をコーラの缶に押し込んだ。火が水分に消される音とともに煙が立ち上る。無性に煙草が吸いたくなった。しかし、これ以上暖に頼みごとをするくらいなら我慢したほうがずっとよかった。 「そんな顔すんなよ。連絡しないって約束するから」  暖はため息をつき、スマホを取り出した。素早く操作し、おれの目前にかざす。  最新型のスマホの画面には紗弓のインスタグラムが映し出されていた。今度はプロフィールだけでなくすべての投稿を見られるようになっている。 「見せてやろっか」  暖はおれに見やすいようにスマホの角度を変え、最新の投稿から1件ごとに画像をタップして中身が見られるように表示させていく。  あの事故の日から、紗弓の投稿数は減っていた。しかし、まったくないというわけではなかった。「彼氏と連絡がつかない」、「彼氏に無視されてムカつく」。そんな文面が数件アップロードされ、その後は再びカフェのメニューやバイト先の話題、女友達とのプリクラ画像などのいわゆる平常運転にもどっていた。ここ数日はおれの話はまったく出てきていなかった。過去の投稿からもおれと一緒に写った写真が削除されていた。 「鍵つきのアカウントってさ、むしろ公開されているアカウントよりも生々しいこと多いよね」  おれの動揺に気づかないはずはないが、暖は平静そのものといった様子で機械的にスマホを操作する。 「これが裏アカにもなると、よけいにリアルな人間が見れちゃうんだろうな」 「うるせえんだよ。ちょっと黙ってろ」 「なんだよ。せっかく見せてやってんのに」  暖は子どものように唇を尖らせ、スマホをポケットにもどした。 「おい……」 「なに? もっと見たいならお願いしてみる?」  舌打ちした。暖は愉快そうに肩を揺らして笑った。 「さて、そろそろ東京に帰るかな。久しぶりに俊介とメシも食えたし」 「おれは食ってない」 「え? ああ、ほんとだ」  おれの前に残ったままの食事を見下ろして、暖は息をついた。 「食えよ。並ばないと買えないんだぞ」  ハンバーガーを買うために並んだのだろうか。ふと考え、すぐに打ち消した。暖がそんな無駄なことをするとは思えない。だれかに買わせたのだろう。父親の部下か大学の連中に。  クラブで遊んでいたときも、暖の周りにはおなじような小金持ちのボンボンや取り巻きがくっついていた。あの連中は暖の正体を知っているのだろうか。爽やかな見た目の裏に隠された悪魔のような顔を。 「明後日またくるけど、なにかほしいもんある?」  帰り支度を整えながら、暖がいう。 「あ、そうだ。オカズになるようなもの、なにか持ってこようか」 「食いもんなんか……」 「そうじゃなくて、AVとかさ。つらいんじゃないの、いろいろ」  顔がかっと熱くなった。やはり気づかれていた。 「恥ずかしがることないだろ。みんなにあることなんだから。べつに特別なことじゃ……」 「うるせえ!」  羞恥のあまりにおれは声を上げた。ハンバーガーとフライドチキンの箱を暖に投げつけた。 「もう黙れよ! なにもいらないから帰れ!」 「わかったわかった。あーあ、もったいない」  床に散乱した食べものを拾い集め、ゴミ袋に入れてから、暖はドアを開けた。暖の体ごしに薄暗い廊下が見える。もし鎖がなければ、ドアに突進して暖を押しのけ、あの廊下をまっすぐに駆け抜けて脱出する。途方もない妄想。それこそ無駄な考えだった。 「じゃあな。おやすみ」  重く軋みながらドアが閉じた。 【94日後】  暖が日用品や食料品以外のものを持ってきた。はじめてのことだった。 「なんだよそれ」  おれはマットレスの上に仰向けになったまま、家電量販店のロゴが入った箱を開封する暖を横目に見た。 「テレビかパソコンでも買ってきたのかよ」 「惜しい。これはね、タブレット。回線がないからテレビもネットも見られない」  A4程度の小型液晶タブレットをテーブルに設置する。 「じゃあなんのために持ってきたんだよ」 「おまえのためだよ。この前いったろ。オカズを持ってくるって」  羞恥心が甦り、頬が熱くなる。 「いらねえっつったろ」 「遠慮すんなって」  暖は楽しげで、口笛でも吹きかねない様子だった。よほどいいことがあったのだろう。おれには関係ないが。 「えーっと、おれのスマホとブリュートゥースでつないで……これでいいか」  暖が手元でスマホを操作すると、真っ黒だった液晶タブレットに映像が映し出された。  おれは飛び起きた。全身から汗が噴き出した。 「おまえ……」  画面に映っていたのは紗弓だった。天地がずれ、額より下しかフレームに収まっていなかったが、確かだった、自分の彼女を見間違えるはずがない。 「なんだよ、これ! 約束しただろ!」 「連絡しないって約束だろ。彼女からDMで誘われただけ。おれから近づいたわけじゃない」 「屁理屈いってんじゃねえぞ!」  殴りかかろうとしたが、相変わらず暖は絶妙な距離を保っていて、拳が空を切るだけだった。テーブルの端、壁にぴったり据え付けられた画面にも手が届かない。 「黙って見てろよ。おまえのために彼女の動画を撮ってきたんだぞ」  おれは目を背けた。しかし、画面から紗弓の笑い声が聞こえてくると、視線を向けずにはいられなくなった。  スマホのカメラを胸ポケットにでも仕込んでいるのか、画面は揺れ、乱れがちだった。それでも、紗弓の顔はよく見えた。色が白く、二重瞼の美人。ふだんより化粧が濃く、年上に見えた。 「暖さんって……あ、暖さんって呼んでもいいですか? 法学部なんですよね? ストレートで合格するなんてすごい。めっちゃ頭いいんですね」  紗弓の声は弾んでいた。暖とふたりで向かい合って話しているらしい。場所はカフェかレストランか……白い丸テーブルと細いグラスが映っている。グラスにはカットされたフルーツが浮かんでいる。カクテルのようだった。紗弓はほんのりと頬を赤らめている。周囲にひとの姿はない。 「紗弓ちゃんも東京の学校志望なんでしょ?」  画面のなかで暖が話す。おれは眉を顰めた。紗弓は県内の専門学校に進学すると聞いていたからだ。 「そうなんです。美容系の専門学校に行きたくて、今いろいろ調べてるとこなんですけど」  紗弓の声は高く、甘かった。おれに対するものとはちがう。付き合いはじめた当初のような、軽い羽根を思わせる声だった。 「今度オープンキャンパス行ってみようと思ってるんですけど、案内してもらえませんか。東京慣れてなくて、ひとりじゃ怖いんで」 「んー、おれはべつにいいけど、彼氏が怒るんじゃない?」 「だいじょうぶです。彼氏、今いないんで」  心臓が跳ね上がった。脈が速くなり、胃液がせり上がってくる。これは嘘だ。おれを動揺させるために暖が用意した紛いものだ。 「そうなの? インスタには彼氏いるって書いてた気したけど」 「前はいたんですけど別れちゃったんですよね」 「紗弓ちゃんが振ったの?」 「んー、なんか急に連絡取れなくなっちゃって。LINEも電話も無視されてるし、もう3か月くらいたつし、自然消滅ってことでいいかなって。いいですよね?」 「おれに聞かれてもなあ」  画面のなかの暖もふだんより饒舌だった。ふたりはまるで付き合いたてのカップルのように振る舞っていた。吐き気がこみ上げてきた。 「けどさ、その彼氏……元彼か。ふだんからあんま連絡しないひととかじゃないの?」 「全然。むしろ、けっこうまめなほうでした」  さっきからずっと紗弓はおれのことを過去形で話している。 「だったら、そんなに長いこと音信不通なのっておかしくない? 心配じゃないの?」 「べつに……もともとそんな深い付き合いじゃなかったし、高校卒業したら別れるつもりだったんで」  アイスティーに浮かんだ氷をストローの先で弄びながら、紗弓がいう。 「向こうもおんなじだったんじゃないですか。どこ行ったか知らないけど、連絡もしないってことは、その程度の気持ちだったってことですよね」  わずかに伸びた語尾。意識的にかそれとも無意識か、紗弓は相手に結論を委ねるような話し方をする癖がある。庇護欲をそそられた。守ってやらなければと男に感じさせるのがうまかった。 「どっちにしても、連絡もしないなんてありえないし。別れるにしても、男らしくはっきりいってほしかったですよ。もう忘れましたけど」  拗ねたように唇を尖らせ、紗弓は向かい合った暖を見つめた。 「暖さんも彼女いないんですよね?」 「いないよ」 「えー、かっこいいのに」  紗弓がテーブルに身を乗り出し、カメラに顔が近づく。その表情から、おれは思わず目をそらした。 「もういい」 「なにが?」 「だからもういいって! 消せよ!」  裏切られたとは思わなかった。なにもいわないまま姿を消して、3カ月もの間連絡ひとつしなかった。裏切られたと考えているのは向こうのほうだろう。まさか変態に監禁されているとは想像さえできないはずだ。紗弓のせいじゃない。そう思おうとした。それでも、胸が痛い。心臓が裂けてばらばらになりそうだった。おれはディスプレイから逃げるようにマットレスに寝転がり、壁を向いて背中を丸めた。 「おれもう寝るから。それ持って帰れ」 「なにいってんの。まだはじまってないよ」  暖の声は笑っていた。おれは振り返った。いつの間にか画面が切り替わっていた。POV映画のようにカメラが揺れる。どこかの建物の廊下。両側にドアが並んでいる。そのうちひとつの前で動きが止まった。 「おい……」  冗談だと思いたかった。自分が見ているものが信じられなかった。 ドアが開き、画面が部屋のなかの様子を映し出す。あきらかにホテルの部屋だった。安いラブホテルではなく、見るからに高級そうなホテルのスイートルーム。紗弓のはしゃぐ声が聞こえる。 「なんでだよ……」  おれは呆然と画面を見つめ、いった。 「なんでこんなことすんだよ……」 「いったろ。オカズを提供するって」  暖の表情は穏やかだった。いつもどおりの爽やかな微笑をたたえておれを見つめている。おれの反応を観察している。 「ふざけんな!」 「見ないのか? 今からいいとこだぞ」  画面のなかでは紗弓がシャワーを浴びるためにバスルームに入ったところだった。映像が大きく揺れ、やがて固定された。テーブルかなにかに置いたようで、室内がすべて画面に入るようになっている。  暖の顔が画面に大映しになった。画角を確認しているらしい。手で左右にずらしながら位置を調整し、満足できる状態になると、にっこり笑った。おそろしい笑顔で、画面に向かって指を指してみせた。  もうひとりの暖は椅子に腰掛け、だらしなくへたりこむおれを見下ろしている。 「あいつには興味ないっていってただろ……」  情けない声。暖は嘲笑った。 「好みじゃないけど、誘われたんだもん。見てただろ、彼女からおれを誘ってきた。おれは乗っただけ」  画面のなかで、暖は口笛を吹きながらジャケットを脱いでいる。直視できなかった。おれは両手で耳を塞ぎ、防衛する小動物のように体を丸めた。 「おい。なにしてる。ちゃんと見ろって」  暖が立ち上がり、近づいてくる。 「おまえのためにわざわざ苦労して撮ってきた作品だぞ。ほら……」  暖の手が肩に触れる。おれは咆哮しながら勢いよく頭を振って起き上がった。覗き込むようにおれの体の上になっていた暖の顔面におれの後頭部が直撃した。暖が怯む。体を引こうとする。させなかった。身を低くして暖の両脚に突っ込み、抱え込むようにして引き倒した。 「ぶっ殺してやる!」  唾液を飛ばしながら叫んだ。暖に馬乗りになって、拳を振り下ろす。固めた拳が暖の顔をとらえ、鼻血が噴き出た。すぐに2発目を狙って上体を起こしたが、次はなかった。暖がおれの体を撥ねのけるように上体を起こし、おれはバランスを崩してよろめいた。体勢を整える前に、暖が拳を繰り出してきた。きつい一発をこめかみに食らい、視界が揺れた。足首の鎖ががしゃがしゃと烈しい音を立てた。  無理な姿勢だったが、防御の代わりに拳を握った。暖が素早く折り曲げた腕で防御したため、おれのストレートは暖の顔をとらえることはできなかった。代わりにもう一発顔面の中心に拳を受けた。頭蓋骨が振動するような衝撃。一瞬、意識が飛びそうになった。 おれが動きを止めた数秒の間に、暖は完全に優位な体勢になっていた。体を反転させ、おれを俯せにして、背後から腕を回す。太い腕が首に回り、筋肉が気管を圧迫する。おれの喉から空気が漏れる音がした。身を捩って逃げようとしたが、いつの間にか暖の右脚がおれの両脚に巻きついていて身動きができない。暖は全体重をかけ、左腕でおれの腕を捻り、首に回した腕に力を込めた。あきらかに慣れた動作だった。格闘技の心得があるのかもしれない。とても歯が立たなかった。首に回された腕を解こうと手で掻き毟り、渾身の力でもがいたが、びくともしない。草食動物のようにただ体を震わせることしかできなかった。 意識が奪われる。限界を感じたとたん、首を絞めていた腕が緩められた。急激に入り込んできた酸素を処理できず、おれは咳き込んだ。 「寝ようとしてんじゃねえぞ」  暖もさすがに息を荒くしていた。密着した体が熱い。 「……くそっ、離せよ!」 「離さない。ちゃんと見るんだよ、ほら」  暖は腕と脚でおれを拘束したまま、体の角度を変えておれの顔が液晶ディスプレイに向くようにした。画面上のドラマは佳境に入っていた。シャワーを終えた紗弓が猫のようにベッドに乗り、暖ににじり寄っていく。  顔を背けると、暖に顎をつかまれた。指先が頬の肉に食い込んで痛みを感じるほど強くつかまれ、無理矢理画面を見せられる。  ディスプレイの向こう側で、暖と紗弓が抱き合っていた。舌を絡ませる音まではっきり聞こえた。 「どうよ。見えるか?」  耳の裏で暖が囁く。荒い息が首元に絡み、不快さに肌が粟立った。思わずぎゅっと目を瞑った。 「目閉じてんじゃねえよ。よく見ろって。結婚したい女がおれとやってるとこ」  腕を捻られ、声を上げた。痛みに目を開けてしまう。 紗弓は盗撮されていることに気づく様子もなく、自分から服を脱ぎはじめた。暖の体に馬乗りになって、腰をくねらせながらもったいぶったしぐさで下着を取り去る。 「いい体だよな。やりたくなってきただろ?」 「ふざけんな……」 「素直になれよ。何回も抱いた体だろ。懐かしいんじゃないの?」  紗弓が上半身を折り曲げる。細い指が暖のシャツをたくし上げる。紗弓は暖のベルトをはずした。股間に顔を埋める。おれのときは何度も頼んで不承不承してくれた行為を自ら積極的に行っている。  まるで拷問だった。おれは低く呻きながらどうにか拘束を解こうと暴れたが、体勢を変えることはできなかった。3カ月の間ろくに運動もせず、わずかな食事を摂取するだけで筋肉の衰えたおれと、あきらかに格闘技の経験がある暖とでは勝負にならなかった。  画面の向こうでは、暖と紗弓が全裸で絡み合っている。惨めだった。これほど自分のことを小さく弱く薄汚く感じたことはなかった。 「俊介?」  おれの首に顎を圧しつけながら、暖が背後から囁く。 「泣いてんのか?」  答えられなかった。嗚咽が漏れた。強く目を閉じると、瞼に押し出された涙が溢れた。暖に気づかれたくはなかったが、止められなかった。涙はおれのこめかみをつたって暖の肘を濡らした。 「おいおい、なにも泣くことないだろ。あんな女にまだこだわってんのかよ」 「うるせえ……」  紗弓が憎いわけでも、奪われたことが悔しいわけでも、まして大切な女を失ったことが悲しいわけでもない。ただ、惨めだった。男として、人間としての尊厳が音を立てて崩れていくような感覚だった。  ホテルのベッドでは暖が紗弓の上にのしかかっていた。烈しく動く背中と臀部がはっきり見える。紗弓は暖の腰に両脚を絡ませ、派手な声を上げて体を弾ませている。 「サイコ野郎……殺してやる……」 「殺す? おれを?」  暖が笑う。喉が鳴る音と胸の筋肉が上下する動きが密着した体を通して伝わってくる。 「やってみろよ、ほらほら」  必死で体をばたつかせるおれを嘲笑うかのように、暖は拘束の力を緩めたり強めたりして弄ぶ。体をのたうたせるおれと、画面の向こうで快感に身を跳ねさせる紗弓の姿が重なった。暖に組み敷かれ、紗弓は髪の毛を振り乱している。すさまじい声。完全に我を忘れているようだった。おれとしているときにそんなふうになったことは一度もなかった。おれは紗弓以外の女を知らない。ベッドの上で女があのような姿になってしまうとは想像したこともなかった。体が冷え、また熱を持った。おれは唇を噛み、紗弓の痴態を見つめるしかなかった。 「静かだな。なんかいえよ」  左腕を強く捻られ、おれは反射的に体を折り曲げた。臀部に違和感をおぼえた。 「おまえ……」  暖の性器は固く屹立し、おれの臀部の肉を押し上げていた。こめかみを掠める息が熱い。間違いない。暖はこの状況下で興奮していた。紗弓との行為を思い返しているのか、それとも暴力による熱狂か。いずれにしても、不気味だった。 「本物の変態かよ……」 「おまえだろ」 「なんでおれが……」  暖が低く笑った。絡んでいた脚がおれの膝を擦り、爪先が股の裏を擽る。痛みとは異なる刺激に、おれはびくっと体を震わせた。 「勃ってる」 「はあ? そんなわけ……」 「見せてみろよ」 「ふざけんな!」 「いいじゃん。見せろって」  暖の左手がおれの下半身に伸びる。 「やめろよ!」  わずかに自由になった左腕を振った。肘が暖の脇腹に食い込み、暖の拘束が緩む。その隙に逃げようとしたが、甘かった。髪をつかまれ、頭を壁に叩きつけられた。強烈な衝撃。視界が白くなり、体の支えを失って倒れた。朦朧としているおれを暖が仰向けにした。脱ぎ捨てられたおれのシャツをつかって、両腕を纏め縛り上げる。頭を打った影響でほとんど昏倒しかけていたおれに抵抗する力はなかった。 「暴れんなっつってんのに、まったく……」  暖もさすがに息を荒くしていた。自分のTシャツの裾を引っ張って汗を拭う。荒い呼吸に合わせて腹筋が上下していた。 「勃ってるかどうか確認させれば済む話だろ。それを馬鹿みたいに騒いで……」  ため息をついて、おれの膝に跨がった。穿いていたトレーニングパンツを下着ごと一気に下ろす。 「ほら、やっぱ勃ってんじゃん」  暖はうれしそうに笑う。母親にプレゼントを渡す子どものようにはしゃいだ笑顔だった。  恐ろしいことに、顔面から出血し、脳震盪を起こしかけている状態でも、おれの下半身は反応していた。男とはなんと情けなく惨めなのだろう。また目の奥が熱くなった。表情を歪めるおれを、暖が瞬きもせずに見つめていた。おれはその視線を遮るように拘束された両手を顔の前に持ち上げた。 「なんだよ。泣くなって」  暖の笑い声が紗弓の喘ぎ声と重なる。耳を塞ぎたかった。紗弓の声が烈しくなった。ベッドが軋む音。紗弓が絶叫した。耳を塞ぐことはできなかった。 「……もういいだろ。満足したなら帰れよ」 「これはどうすんだよ」  暖がおれの陰茎をつかむ。半勃ちの陰茎を指先で弄びながら、喉の奥で笑う。 「そのままか?」 「おまえがこれはずして出て行ったら自分でする」 「はずす?」  暖はおれの両肘を持ち上げた。腕の間からおれの顔を覗き込んでくる。 「はずすわけないだろ」 「……いいから、早く鍵出せよ」  脚に繋がった鎖をじゃらじゃらいわせる。たまらなく不快な音だが、暖にとっては愉快に聞こえるようだ。 「持ち歩いてると思うか? 馬鹿か、おまえ」  唇の端を歪め、暖は笑った。口調は静かだったが、顔は紅潮し、おれの反撃で追った傷から滲んだ血が汗と混じって額にこびりついていた。なによりもおそろしいのは眼だった。狂気を孕んだ眼差しはここにきてから何度も見ていたが、それとはちがう粘ついた嫌な視線だった。おれは全身が冷たくなるほどの恐怖をおぼえた。  暖の手がおれの股の内側を撫でる。触れられた部分から全身にかけて鳥肌がはしった。 「やめろって……」 「なにを?」 「それだよ」 「手伝ってやろうとしてんじゃん」 「いらねえよ」 「遠慮すんなって」  暖がおれの股間に手を伸ばす。両脚が固定され、逃げられなかった。血の散った掌に握りこまれて、おれはびくっと体を震わせた。  嫌悪と羞恥、恐怖で萎縮しかけていたおれのものを暖は執拗に刺激した。掌に唾液を吐き、烈しく上下に擦る。  こんな状況で、こんな変態の手で、反応できるわけがないと思った。そうあってほしかった。しかし、おれの体はいとも簡単におれの希望を打ち砕いた。他人はおろか自分の手さえつかっていないまま数か月を過ごしていた。頂点はあっという間だった。  遠くに紗弓の声が聞こえる。第2ラウンドがはじまったらしい。 「ほら、俊介。見ろよ」  両肘を擦りつけるようにして顔を隠していたおれの腕を暖がつかむ。力づくで引っ張り、横を向かせた。視線の先に液晶ディスプレイ。紗弓は体勢を変え、暖に背中を向けて跨がっていた。カメラのほうに顔を向けているが、相変わらず撮られていることには気づいていない。  紗弓の姿に気を取られ、暖がファスナーを下ろして自身を取り出そうとする動きに気づくのが遅れた。下腹部に擦りつけられ、はっとした。 「てめえ、なにやってんだよ!」  おれの腹の上で脈打つものを凝視しながら怒鳴った。暴れようとするおれの上半身を押さえ、暖が体重をかけてくる。重みで呼吸がくるしくなり、おれは酸素を求めて喘いだ。 「おまえだけすっきりするのはずるいだろ」  耳元に暖の熱い息が絡む。全身が震えた。 「ふざけんな……どけよ!」 「おとなしくしろって。いい子だから」  暖は左手でおれの腕をつかみ、右手で自分のものを擦った。おれが出した白濁が腹の上に飛んで、その表面を暖の先端が前後し、ぬめって音を立てる。耳元を掠める息がどんどん熱を孕んでいく。 「やめろよ……」  強く目を瞑った。あまりにもひどい現実。彼女の性行為を見ながら友達の陰茎を擦りつけられている。 「……やべ。いきそう」  小さく呟いて、暖は素早く上半身を起こした。おれの胸に跨り、顔の真上で烈しく自身を擦った。  低い息とともに、顔に生ぬるい感触。目を開けると、暖がおれを見下ろしていた。肩で息をしている。顔が紅潮して、汗が浮いている。  強烈な匂いにおれは噎せた。顔を背けると、白い液体が頬を滑り落ちてマットに跳ねた。額から胸元にかけて、大量に飛び散っていた。精液まみれになりながら、おれはマットの上に嘔吐した。胃液が逆流して喉を焼いた。 「だいじょうぶか」  暖は平然としていた。おれの体を降りて、テーブルの上の水を飲む。手早くファスナーを上げ、乱れたシャツを伸ばして身なりを整えながら、煙草をくわえた。 「飲むか?」  暖が投げたミネラルウォーターのペットボトルがマットの上に転がる。おれは円柱のボトルが床に落ちて回転していくのをぼんやりと眺めていた。 「おまえ……最悪だな」 「いまさら?」  暖が喉の奥で笑う。おれは縛られたままマットレスに横になって動けなかった。撒き散らされた精液が冷えてさらに不快だった。 「こんなことして楽しいのかよ」  怒鳴る力も失って、おれは小さく掠れた声でいった。 「楽しむつもりはないよ」  煙を吐き出しながら暖が答えた。 「じゃなんのためだよ。おれを黙らせたいなら閉じ込めておくだけでじゅうぶんだろ。こんなことする必要あるのかよ?」  暖は黙っていた。いつもの乾いた視線をおれに向けている。 「そんなにおれが嫌いかよ……」 「嫌い?」  独白のような言葉を耳ざとくとらえて、暖が眉を上げる。 「嫌いじゃない」 「嘘つけ。死ぬほど嫌いじゃなかったらこんなことしないだろ」 「ほんとだよ。むしろ、こんなことになって申し訳ないと思ってる」  話す気にもなれない。暖がなにを考えているのか、まったく理解できなかった。  不快なBGMがいつの間にか消えていた。液晶ディスプレイに目を向けると、行為が終わったようで、紗弓が暖にすり寄っていた。口元が動いているように見えるが、なにを話しているかまではわからない。 「終わったと思うだろ。このあと2回もした」  暖が呆れたように笑う。 「おまえがいなくても問題なさそうでよかったな」 「……そうだな」  楽しげに笑う紗弓を画面ごしに見ながら、おれはいった。 「心配してた。おれのことでつらい思いしてんじゃないかって。だからよかったよ」  昨日までは、ほとぼりが冷めたら解放されるはずだというかすかな希望を持っていた。しかし、今ははっきりわかっていた。暖は嘘をついていない。おれが死ぬまでここに監禁し続けるつもりだ。希望などない。紗弓がおれを待っていたとしても無駄だ。それよりも吹っ切って他の相手を見つけるほうが彼女のためになる。  半分以上が強がりだった。しかし、そう考えるより他になかった。暖がおれを見ている。視線は感じたが、どんな表情をしているのか確認はしなかった。すでにどうでもよくなっていた。おれは苦痛から逃げるように意識を手放した。 【97日後】 「すごい匂いだな」  入ってくるなり、暖は露骨に顔をしかめた。鼻を蠢かせ、室内を見渡す。 「元気すぎだろ」  揶揄するように笑う。おれは無言で床に横たわっていた。下半身を露出させ、足首にスラックスと下着が纏わりついている。身動きするのも億劫だった。 「止めろ……」  かろうじてそれだけをいった。室内に紗弓の喘ぎ声が響き渡っていたい。自動的に連続再生するように設定された液晶ディスプレイが、もう何日も紗弓と暖のセックスを垂れ流し続けていた。 「いいの? 気に入ってたみたいなのに」 「いいからもう止めてくれ」  これ以上耐えられなかった。部屋の反対側で目を閉じ、耳を塞いでいたが、完全にシャットアウトすることはできず、おれはひたすら紗弓の声を聞かされ続けた。  不快なはずなのに、監禁されて刺激が与えられていない体は勝手に反応した。何度も絶頂を迎え、また漲らせる。その繰り返しだった。  暖がディスプレイの停止ボタンを押すと、ようやく静けさがもどった。ここに連れられた当初はあまりの静けさに発狂しそうだった。今は沈黙に安堵していた。  暖はリモコンを操作して換気扇を強めた。換気翼が回転する機械音が静かな室内に響く。 「人間を監禁してだれとも会話させずに食事だけ与え続け、毎日決まった時間にAVを見せると、おなじ時間に自慰をはじめるようになるらしい。言葉も忘れて狂ったようにあれを擦り続けるんだとさ」  童話でも語るかのような口調で暖は話す。 「おれを狂わせたいのか?」 「べつにそういう意味じゃない」 「じゃなんだよ」  仰向けになった。肩甲骨が床に擦れる。マットレスは湿気を帯びて不快だった。なにもかもが不快だった。 「おまえ、おれを殺したいんじゃねえの?」  掌を床について重い体を持ち上げ、おれは暖を見た。暖は椅子にかけて足を組んでいる。膝の上で両手の指を組み、穏やかな表情でおれを見下ろしている。 「なんでそう思う?」 「おれが死んだら秘密が漏れる心配をしなくて済むだろ」 「たしかにそうだけど、殺人は犯さない」 「もうひとり殺してるだろ」 「殺してない」 「だって……」 「あれは殺人じゃない」  ため息。あの日起きたことは事件ではなくあくまでも事故なのだと主張するつもりだろうが、議論してもしかたがない。 「わかったよ。自分では手を下さないってことだな。だったら、おれを自殺に追い込む気かよ?」 「まあ、そうなったらなったで、助かるのは確実だよな」  つまり、食事や衣服を供給することで、生命を維持する権利は与える。そのうえで死を選ぶ自由も選択肢のひとつとして提示するわけだ。その場合、あくまでもおれ自身が選んだ結果であり、たとえそうなったとしても暖に責任はないといいたいのだ。身動きを制限し、社会とのつながりを断つことによって、生殺与奪の権を握っているというのに。 「おまえ、最悪だな。変態なだけじゃなくて、卑怯で臆病者だ」 「なんとでもどうぞ」  内臓の奥から燃え上がるような怒り。ここへきたときには、どうにか脱出する方法だけを考えていた。それが不可能だと知ると、無気力になった。このまま死んでも構わないと思った。しかし、おれが死んでも暖を喜ばせるだけだった。それだけは耐えられなかった。 「悪いけどな」  汚れた衣服のまま、おれは支配者をにらみつけた。 「おれは自殺なんかしない。絶対生きてここから出る」  暖は微笑した。サディストの眼差しでおれを見つめた。やさしい声でいった。 「それでこそおまえだよ」 【187日後】 「おふくろ、どうしてる?」  テーブルを拭いていた暖は作業に集中していたらしく、反応が一拍遅れた。 「ごめん、なに?」 「おれの母親だよ。元気にやってんのか」  おれは床に足を投げ出して暖の作業を眺めながらいった。 「ああ、お母さんね」  隅まで拭き終え、暖が布巾をていねいに畳む。かなり神経質な性格なようで、監禁部屋さえ頻繁に掃除して清潔さを保っていた。もちろん、すべて自分の手で行っている。 「たまに様子を見に行ってるけど、あんまりよくないかな。ほとんど部屋から出てこないし、たまに出てきても泥酔していて歩くのがやっとって感じ」  暖の口調は相変わらず抑揚を欠いていたが、母のアルコール依存について話すときにはわずかに感情が覗けた。 「交友関係も広くないみたいだから、注意して見ておく」 「いいよ。大学忙しいんだろ」 「お母さんになにかする心配してるならだいじょうぶ。なにもする気ないから」  おれは壁に半身をもたせかけて膝を抱えた。母は人づきあいが苦手だった。依存症のせいでここ数年はほとんど外出しなかった。食事はどうしているのだろう。暖が持ってくる食事を口にするとき、母親のことを思った。  世間的によい母親とはいえないだろう。物心ついたときにはすでに日常的にアルコールを摂取していたし、理不尽に怒鳴られたり殴られたりということもあった。しかし、ヒステリックに暴れた後は決まっておれを抱きしめ泣くのだ。息子を疎ましく感じることはあっても、母は母なりに我が子を大切に思っていたのだと信じたかった。 「おまえは母親いないの?」 「いるよ。ほとんど会わないけどね。自分で事業やってて忙しいみたいだから」  暖は掃除を再開した。消毒液を吹きかけた布巾で床を拭きはじめる。掃除装具は毎回持ち帰っており、狭い部屋にはマットレスとテーブル、椅子以外置こうとしなかった。 「父親は?」 「おなじようなもんだよ。政治家ってプライベートがないもんだから」  暖の話によると、この監禁部屋は父親から譲り受けたものらしい。おれがここに入れられる前、つまり暖が受け継ぐより以前、この部屋はなににつかわれていたのだろう。暖は家族に対してこの部屋の使い道をどのように説明しているのだろう。 「おれのこと聞いてくるなんて珍しいな。急に興味湧いた?」 「べつに興味なんかねえよ。どうやったらサイコパスが生まれるのか気になっただけ」 「まともじゃないのは認めるけど、環境は関係ないよ。たぶん生まれつき」 「そうかよ。救いねえな」 「そう、救いがない。それ、取って」  暖が顎をしゃくっておれが脱いだまま放っておいた服を示す。何枚かの服を集め、暖のほうへ放り投げた。暖は膝を折り曲げて屈み、受け止めきれなかった服を拾い上げた。鎖で制限された距離ぎりぎりの位置。今すぐ立ち上がり、暖の顔面に膝を入れる。昏倒した暖のポケットから鍵を抜き出し、拘束を解く。ドアを開けて全速力で逃げる。妄想でしかなかった。あまりに現実感がない。 【226日後】  目を覚ますと、壁に彫っていた傷がきれいさっぱり消え去っていた。眠っている間に暖が塗りつぶしたのだろう。ペンキのかすかな匂いが残っていた。腹立たしいほどに真っ白な壁を手で擦りながら、おれは呻いた。窓のない部屋にはテレビもスマホもパソコンもなく、季節も感じることができない環境で、日付の感覚さえ失ってしまったら、いよいよ神経が参ってしまう。暖はそのことを知っていながら壁の傷を消したのだ。  暖の思いどおりにはさせたくない。おれは再び拘束具の端で壁に線を描いた。何度消されても、頭のなかに必ず刻み込むつもりだった。どれほど追い込まれても、屈服する気はなかった。  おれは髭を剃り、食事を取り、腕立て伏せや腹筋などの運動をはじめていた。いざ逃げるチャンスがきたときに体力がなくては困る。外に出て助けを求めるときにも浮浪者のような姿では警戒されるだろう。  壁の傷を見据え、おれは誓った。絶対に生き抜く。生きて、必ずここを出る。人生をやり直すのだ。 【295日後】  物音が聞こえ、目を覚ました。ドアが開いて、大きな買い物袋と箱を抱えた暖が入ってきた。 「うー、寒っ」  コートを脱ぎ、椅子の背にかける。監禁部屋は常にエアコンが稼働していて、室内の気温が一定に保たれているため、一年中寒さや暑さを感じることはなかったが、おそらく外は雪か雨が降っているのだろう。暖のベージュのコートの肩が濡れて色が濃くなっていた。 「遅くなって悪かったな。道が混んでて」  大学に通いはじめてから暖は東京での生活をはじめ、車で3時間かけてこの監禁部屋に通っていた。 「腹減ったろ。メシ食お」  そういって暖は紙袋を漁った。袋から取り出したのは食事ではなく小さなクリスマスツリーだった。 「なんだそれ」 「え? クリスマスツリー」 「見たらわかる。なんでそんなもん持ってくんだよ」 「クリスマスイブだから」  噛みあっているようでいてすれちがう会話。暖はスマホを操作してクリスマスソングを流した。楽しげにツリーをテーブルに置き、食事の用意をする。はじめのうちは1脚だけだった椅子はすこし前に2脚になっていた。テーブルの両側にセッティングされている。  暖が買ってきた料理をテーブルに並べていく。チキンの丸焼きにケーキ、サラダやハムの前菜。ビールにワインもある。テイクアウトとはいえ、どれも高級品であることは一目でわかる。紙やプラスチックの容器でなく皿やグラスだったら、さながら高級レストランのようだった。 「すこし冷めたけど、作りたてを用意してもらったからおいしいと思う」  小型のナイフでチキンをカットしながら、暖がいう。おれの視線はナイフに釘づけになった。暖につかみかかり、ナイフを奪い取って暖の喉元にあてる。脅して鍵を奪い取り、逃げる。妄想は一瞬で終わった。実行するには距離がありすぎる。 「なにしてる。食べよう」  暖の言葉で我に返った。暖はナイフをケースにもどし、バッグのなかにしまい込んだ。 「座って。ビールでいい?」  おれは無言でいわれたとおりにした。チキンの香ばしい匂いが鼻腔を擽る。戸惑いはあったが、空腹でもあった。  暖が缶ビールのプルトップを開け、アウトドア用のプラスチック製のグラスに中身を注ぐ。白い泡が盛り上がって、おれは喉が鳴るのを感じた。ビールなどいつ以来だろう。 「乾杯」  暖も自分のグラスにビールを入れて掲げた。一気に半分ほど煽る。おれは暖の喉が動くのをじっと見つめてから自分のグラスに視線を落とした。目の前で缶を開けた。薬を入れられている可能性は低い。 「飲まないの?」  誘惑に勝てなかった。思い切って口をつけた。冷たい泡が喉を落ちていく。麦の甘みと苦みが口のなかに拡がる。警戒していた苦痛はない。ただのビールだった。  おれを殺す気がないという暖の言葉を信用しているわけではない。しかし、食べ物や飲み物に毒が仕込まれているのを警戒していてはとても生きていけない。監禁されている状態では与えられるものを口に入れるしかないからだ。おれは居直って料理を口に運んだ。どれも絶品で、こんな状況でなければがっついていただろうと思うほどだ。  気づくとビールを半分ほど飲んでしまっていた。暖が手を伸ばして注ぎ足し、自分のグラスにも注ぐ。 「ふつうに飲んでるけど、帰り、運転だいじょうぶなのかよ」  暖が飲酒運転で逮捕されればここの場所が発覚するかもしれない。運転代行を呼ぶにしても、助けを求めるチャンスが生まれるだろう。わずかな期待を押しころして聞いたが、暖は当然のように首を振った。 「明日は講義ないから、今日はここで寝て明日の朝帰る」 「はあ? 泊まるのかよ」 「俊介の許可はいらないだろ。おれの持ちものなんだから」  反論する気にはならない。暖は一度決めたら絶対に変更しないタイプだともうわかっていた。 「クリスマスイブにこんなとこきていいのかよ」  おれはため息交じりにいった。 「どういう意味?」 「彼女とか友達とか家族とかと過ごせばいいだろ」 「俊介といるほうが楽しいから。……これ、うまいな」  チキンを頬張りながら、暖がいう。おれはますますわからなくなった。暖はまるで親しい友人のように接してくるが、おれは犯罪の被害者であり、暖は加害者だ。殺すつもりがないのは理解したが、こうして食事をともにする意味がどこにあるのか。 「ワイン、飲むか?」 「ああ、うん」  赤ワインも上等なものだった。飲みながら、これは罠ではないかと考えた。おれの警戒心を解いて油断させようとしているのかもしれない。それでも、黙って食事を続けた。  この部屋に刃物が持ち込まれたのははじめてだった。もちろん、ナイフやスマホが入ったバッグはおれが届かない部屋の端に置かれているが、室内に持ち込んでおれの目の前でつかうということは、暖のほうも警戒が緩んでいる証拠ではないか。油断させて機を待ちたいのはおれのほうもおなじだ。ここは暖に合わせておくのが得策かもしれない。  しばらくして、頭に重みを感じた。視界がぼやけて、鼓動も烈しくなっている。薬を盛られたわけではない。経験したことのある感覚。アルコールがもたらす酔いだった。数か月ぶりに酒を飲んだせいで以前よりも回りやすくなっているのかもしれない。 「平気か? 顔かなり赤いけど」 「ああ……ちょっとトイレ」  おれはふらつきながら席を立った。部屋の隅に設置された便器に向かう。背中に視線を感じて振り返った。 「見んなよ、変態」 「はいはい」  暖が笑って体の向きを変える。壁に据え付けられた便器に向かって用を足しながら、おれはふとこの部屋にシャワーとトイレが設置されている理由について考えた。  物置としてつかうための部屋ならそもそも不要だし、災害時に避難するための地下シェルターとしてつくられたなら、シャワーやトイレが個室になっていないのは不自然だ。シャワーカーテンすらない。まるで“監禁を前提につくられた部屋”のようだ。  なにか引っかかるものを感じたが、酔いが回っていてそれ以上思考が続かなかった。おれはズボンのファスナーを上げて席に戻ろうとしたが、うまくいかなかった。足が縺れて、マットレスの上に倒れこんだ。 「危ないな、本当に平気かよ」  暖が即座に飛んできておれの体を支える。 「うるせえ。さわんじゃねえよ……」 「暴れんなって。ほら、横になれよ」  おれは呻きながらマットレスの上に突っ伏した。息がくるしい。頭蓋骨が揺さぶられているようだった。  ほんの一瞬か、数分だったか、意識を失っていた。体を圧迫する重みで目が覚めた。体を起こそうとすると、頭をマットレスに圧しつけられた。暖がおれの上に折り重なるように体を密着させている。 「なにしてんだよ。どけって。重い……」  抗おうとして、硬直した。暖の手がおれのシャツの裾を割って滑り込んできた。冷たい指先が腹筋を這う。 「おい……」 「黙ってろよ」  おれの耳の裏に唇を圧しつけて、暖がささやく。ぞっとした。数か月前に精液をかけられたことを思い出した。不快感が甦り、吐きそうになった。 「なに考えてんだ、おまえ。離せよ」  暖は答えずに右手を伸ばし、おれの胸元をまさぐった。乳首を圧し潰され、おれは顔をしかめた。 「おい、マジでやめろよ!」  上半身を捻る。両手をつかまれた。強い力で手首を押さえられ、痛みがはしる。  仰向けになったおれの上に跨り、暖は息を荒らげている。固いものが下腹に擦りつけられた。布ごしにも熱く脈打っているのがわかる。背筋が寒くなった。  あのときは暴力の熱気で興奮したのだと思っていた。天性のサディストならそういうこともあるだろう。しかし、今はちがう。なんのきっかけもなく突然盛り出した暖を前に、怒りや恐怖よりも戸惑いのほうが大きかった。  おれを見下ろす暖の眼にはやはり感情らしきものは見つけられない。ただ、その奥にある欲望ははっきり感じられた。おれを見る目はあきらかに獲物をとらえようとする肉食動物のそれだった。 「なあ、ちょっと……」 「しゃべるな。じっとしてたらすぐ終わるから」  また自慰行為に付き合わされるのだろうか。下着を下ろされる感覚を不快に感じながら、おれは内心ため息をついた。どうせ力では適わない。こうなったら目的を遂げるまで暖が絶対に退かないことを知っている。血まみれになるほど殴られるよりは、精液をかけられるくらいのこと、我慢したほうがいいかもしれない。そう思いかけていたとき、暖の掌がおれの臀部の肉をつかんだ。 「いて……なんだよ」  混乱した。暖の指がおれの尻の肉をかき分け、奥に進もうとしていた。 「おい!」  思わず叫んだ。蹴り上げようと足を振ったが、あっけなくつかまれた。暖が手に力をこめ、乳児のおしめを替えるようにおれの左足を大きく持ち上げた。  暖はもうおれを見ていなかった。焦ったような手つきで自分のベルトを外し、ファスナーを下した。熱く滾ったものをおれの腿に圧しつけた。  解剖実験の蛙のような無様な体勢で、おれは唖然としていた。こいつ、なにをする気だ?  暖の指が滑りこんできて、おれは声を上げた。 「嫌だ、馬鹿か、おまえ、変態、この……」  完全に混乱して言葉にならない。おれは滅茶苦茶に暴れたが、暖の力のほうが強かった。全体重をかけられ、呼吸ができず、酸素を求めて口を開いた。 「ちょ……なあ、おい、本気じゃないだろ? こんなの……」 「どう思う?」  暖が烈しく指を出し入れする。内部が引き攣れ、切り裂くような痛みがはしる。 「くそ、冗談だろ。マジで……いてぇ……」 「我慢しろ。すぐ気持ちよくするから」  余裕を欠いた声だった。おれの奥を犯していた指が出て行った。ほっとする間もなく、べつのものが入り口を掠めた。熱くぬめったそれがなにかはすぐにわかった。 「やめろ!」  おれはパニックになっていた。酔いは完全に醒めきっていた。必死に逃げようと暖の体の下でもがいた。これが冗談でもなんでもないことはもうわかっていた。  暖が体を進めようとする。おれは咄嗟にのけ反ったが、暖の左手に頭を押さえつけられて上下左右どこにも逃げられなくなった。  唯一動く眼球を必死に動かして逃げ場を探した。逃げる場所などどこにもなかった。両手を伸ばし、十本の指で床やマットレスを叩きながらとにかくなにかを探した。なにを探しているのかはわからなかったが、とにかく指を動かした。冷たい床と湿った布の感触しかなかった。  暖がおれの首に顔を寄せた。顎の付け根から鎖骨の端まで舌を這わせる。全身が粟立った。  暖の頭越しにテーブルが見えた。食べかけのチキン。クリスマスケーキとワインのボトル。  チキンを切り分けたナイフはバッグのなかだ。とても届かない。  おれの体を固定して、暖は狙いを定めた。腿の内側を移動していたおぞましいものは体積を増していた。先端をぴたりと圧しつけられ、おれは叫んだ。 「やめろやめろやめろ、マジで無理、ほんと無理、勘弁しろって、それだけは……」  自分でもなにをいっているのかわからなかった。とにかく叫びまくった。恐怖が限度を超え、涙が滲んでいた。 「ごめん、俊介」  泣き喚くおれに、暖はそれだけいった。その一言で、絶対に逃げられないと悟った。なにかがぷつりと切れた。  おれの足がテーブルにぶつかり、ワインのボトルが落下した。ボトルはプラスチックではなかった。ガラスが割れる音。気づくとおれは割れたワインのボトルネックをつかんでいた。  なにが起きたのか。  暖がゆっくりと体を起こした。呼吸が楽になり、おれは胸を上下させて酸素を吸った。  暖が立ち上がる。おれを見下ろしている。呆然とした表情。  おれは暖の呆けた顔を見て、それから自分の体を見下ろした。腹に濡れた感触。あのとき、暖が目の前で果てたときのことを思い出した。だが、このときはちがった。おれの腹を濡らしていたのは精液じゃなかった。 「俊介……」  暖の視線の先。おれの右手にはワインのボトル。割れて尖った先端が血で染まり、重力に負けた血液の玉が床にぽたぽた垂れている。狂いそうになる赤色を見て、おれはようやくなにが起きたか、なにをしたか理解した。 「……おまえが悪いんだろ」  かろうじていった。声が震えて言葉になるかならないかぎりぎりだった。 「おれは悪くない。おまえがあんな……」  暖が顔をしかめる。脇腹から血が噴き出し、シャツが真っ赤に染まっている。白紙に炭をぶちまけたかのようにじわじわと侵食していく。 「馬鹿野郎。なにしたかわかってんのか!」  暖が叫ぶ。怒鳴られる筋合いはなかった。怒りで顔が熱くなった。おれも叫んだ。 「ふざけんな! 自業自得だろ!」 「なんにもわかってないな、おまえ。死んでもいいのかよ」 「ああ、いいよ。死ね、おまえなんか!」  おれは立ち上がり、暖と距離を取って後ずさった。激昂した暖が襲ってくるのを警戒したからだ。しかし、暖はおれを見つめているだけだった。その目に怒りはなかった。 「くそ……」  独白のように小さく舌打ちして、暖はコートとバッグをつかんだ。傷口を押さえながら、ドアを開ける。 「おい、どこ行くんだよ!」  暖は答えなかった。ふらつく体を引きずるようにして出て行った。  ドアが閉まる音を聞きながら、おれは下半身を剥き出しにしたままぼんやり立ち尽くしていた。 【303日後】  死んでもいいのか。  暖の言葉の真意がわかったのは、クリスマスイブの夜から数日たった頃だった。  暖がこない。あの日からドアが開くことはなかった。それは、食べ物と水の供給が途絶えるということだった。暖は姿を見せず、当然ながらおれは猛烈な飢えと渇きに耐えなければならなくなった。  傷は浅くなかっただろう。時間の経過とともに、肉を抉る感触が手に宿り消えなくなった。すくなくとも、数日は入院するような傷だったにちがいない。  あの日、この部屋を出た暖はどうしたか。救急車を呼んだか、それとも自分で車を運転して病院に行った。どちらも考えにくい。救急車を呼べば地下室の存在が知られるおそれがあるし、飲酒運転で捕まるリスクを冒すとも思えない。  だとしたら、傷はそれほどひどいものではなく、自ら応急処置を施したか。傷を負った理由について医者に詮索されるだろうが、暖ならうまく乗り切るだろう。  しかし、それならまったく姿を見せない理由がない。やはり重傷で動けない状態なのか、または意識がないままか、そうでなければ……  クリスマスの料理を食べきり、残ったビールを一滴残らず飲み干すと、口に入れられるものがなくなった。5日、6日と時間が過ぎていくにつれ、恐怖が絶望に変わっていった。  もし……もし暖が死んでいたとしたら。この場所を知っている人間は他にだれがいるのだろう。葬式を済ませ、遺品を整理し、ふだんつかわれていない地下室を思い出すまでに、どれくらいの時間が必要なものだろうか。  まだ血の匂いがするマットレスに横たわって、おれはぼんやりと床の血だまりを眺めていた。乾いて黒ずんでいる。  母親のことを思い出した。おれが死ねば、母の面倒を見る人間はいなくなる。  皮肉なものだ。暖が死ねばおれも死ぬ。おれが死ねば母も死ぬ。  暖を刺したのはおれで、間接的にはおれが全員殺したようなものだ。  唇の端がぴくぴく震えた。笑いたかったが、顔の筋肉を動かす力が残っていない。もう疲れてしまっていた。擦り切れ、削れて、体全部がなくなってしまったかのようだ。  二度と目覚めないかもしれないという恐怖をうっすらと感じながら、おれは目を閉じた。  体を揺さぶられ、目が覚めた。暖がおれを見下ろしていた。どうやら夢や幻ではないらしい。おれの上半身を起こして、ペットボトルの水を飲ませた。久しぶりに口にする水をおれは必死で吸収した。一気に飲んだせいで、喉が痙攣して一部を吐いてしまった。吐き出した水が暖の膝に跳ね、デニム生地の藍を濃くした。 「だいじょうぶか」 「だいじょうぶに見えるかよ……」  噎せながらかろうじて答えた。 「遅いんだよ、くそが」  暖は食料も持参していた。差し出される前に袋を奪い取り、包装紙を毟り取ってハンバーガーに齧りついた。暖に構っている余裕はなかった。自分がどう見えているかも気にせず、おれは犬のようにがつがつと貪った。自分がどれほど生命に固執しているかをあらためて実感した。  一心不乱に食べものを口に圧しこむおれを暖は静かに見つめていた。 「おまえが悪いんだぞ。見ろよ、この傷」  暖がシャツを捲り上げる。脇腹に包帯が巻かれていた。経緯は知らないが、どうやら病院で手当を受けたらしい。 「おまえこそ自分がしたこと忘れたのかよ。自業自得だろ」  サンドイッチをコーラで流し込みながら、おれはいった。 「死ねばよかったんだ、おまえなんか」 「そうなったらおまえも衰弱死だな。だれにも看取られずにここで腐って骨になるわけだ」  暖の言葉は真実だった。おれは男に背を向け、無言で食事を続けた。 「俊介」  背後で暖が立ち上がる気配がした。暖の声が頭上から降ってくる。 「もうわかっただろ。おれが死んだらおまえも死ぬ。心中したいならそれでもいいけど、今度おれを殺そうとするときは、ちゃんとそのこと覚悟したうえでやれよ」  答えなかった。壁に向かって黙々と食べものを口に運んだ。あれほど欲していた食料だったが、まったくといっていいほど味がしなかった。おれは純白の壁を見つめ、ただ機械的に顎を動かしていた。 【352日後】  監禁部屋に冷蔵庫が設置された。暖が政治団体とやらに入会し、大学の講義に加えて定期的な勉強会に出席するため、食料を運ぶ頻度が下がるためだ。  暖の実家は地元でも有数の資産家で、先々代から政界にも食い込んでいる。ひとり息子の暖も当然父や祖父のように政治の道を目指すのだろう。本人から話を聞くことはなかったが、大学でも優秀な成績を収め、用意されたレールを逸れることなく成功への道を着実に進んでいるのだろうと思えた。ただし、その成功の裏には暗い影がある。おれ自身が証明している。 「おまえ、格闘技かなんかやってたの」  慣れた手つきで小型冷蔵庫を設置する暖の背中を苦々しく眺める。 「柔道してたよ。高2まで」  舌打ちしたくなった。あっけなく組み伏せられた理由がわかった。いっぽうのおれはといえば、不良ぶってはいても、喧嘩さえほとんど経験がない。腕力では対抗できないらしい。 「勉強しかしてないと思ってた」 「塾も行ってたけどね」 「なんでもできるわけか。さすがいいとこのお坊ちゃんだよな。そんな奴が犯罪者だなんて、だれも信じないだろうな」  両脚を投げ出して足の指を動かしながらおれはいった。 「ま、政治家なんて、悪いことしてるやつばっかりなんだろうけどな」 「よく知ってるな」  床にあぐらをかいて説明書のページを捲りながら、暖が笑う。 「そのとおり。おれはまだましなほうだよ」 「嘘つけ」 「本当だって。おまえは裏の世界を知らないからだ」  裏の世界なら知っている。今こうして身をもって体験しているのだから。おれは暖と会話する気をなくして寝転がった。体を動かすたびに足を拘束する鎖が床に擦れて音を立てる。眠っているときに目を覚ますほど不快だった甲高い金属音にもすっかり慣れてしまい、なにも感じない。  この部屋に閉じ込められてから、もうすぐ1年になる。 「よし、できた」  かすかなモーター音。冷蔵庫が動きはじめた。真新しい冷蔵庫のなかに暖が水や弁当を入れた。ごていねいに、栄養ドリンクやゼリーなども用意されている。 「しばらくの間は週イチくらいしかこられないけど、1週間ぶんは入れといたから、ちゃんと食えよ」 「うるせえ」  壁を向いて暖に背中を向けたまま、吐き捨てた。暖がすることに興味はなかった。体を丸めて目を閉じていると、暖が近づいてくる気配がした。マットレスの反対側が窪み、息の熱を首の裏に感じて、跳ね起きた。暖との距離を最大にして、壁にぴったり体を押しつける。 「警戒すんなよ。ちょっと様子見ようとしただけだって」  暖は笑って立ち上がった。口を開きかけて、すぐに閉じる。椅子にかけてあったバッグを取り、背中を向けた。 「来週またくる。じゃあな」  暖が出ていき、ドアが閉められた。去り際になにをいいかけたのか、気になったが、すぐに忘れてしまった。暖のことなど、おれには関係ない。おれは再びマットレスに横になって目を閉じた。眠りはなかなか訪れなかった。 【675日後】  目覚めると、いつの間にか暖が部屋にいた。椅子に浅くかけて脚を組み、ハードカバーの本を読んでいる。経済書らしい厚い本だ。 「あ、起きた」  おれが覚醒したのに気づき、本を閉じる。おれは瞼を擦りながら体を起こした。 「起きるの待ってたんだよ。腹減っただろ」  テーブルの上にはケーキや寿司が並んでいる。 「なに? クリスマス?」 「ちがうよ」  暖がケーキに蝋燭を差しはじめる。ホワイトチョコレートでできたプレートには『ハッピー・バースデイ しゅんすけ』とあった。 「誕生日だろ」  おれを椅子に座らせ、ワイングラスを握らせて、暖はいった。 「20歳、おめでとう」  グラスを合わせる。プラスチック同士が擦れ合い、長閑な音を立てた。  20歳になったらなにをしようか。どんなおとなになっているだろうか。子どもの頃に考えたことがある。こんなところで誕生日を迎えることになるとは、想像もしていなかった。 「成人式の案内、きた?」 「ああ」  寿司をつまみながら、暖が頷く。 「みんなくるかな」 「どうかな」  沈黙。おれはイクラの軍艦巻きを口に入れた。好物だったはずなのに、味がしない。  暖が蝋燭に火をつけ、照明を落とした。蝋燭の火が暖の満面の笑顔を照らしていた。 「ハッピー・バースデイ・トゥー・ユー」  暖が歌う声を遠くに聞きながら、おれは目を閉じた。スーツを着て、花束を抱えた自分の姿を想像した。うまくいかなかった。 【936日後】  暖が鏡を持ってきた。おれの髪を切るためだ。監禁されてから1年半放っておいたおれの髪は肩につくほどの長さになっていた。  暖や自分を傷つける気がおれにもうないと判断したのか、暖は凶器になりそうなものやガラス製のものも持ち込むようになっていた。A4サイズの鏡をテーブルに置き、おれを椅子に座らせて、器用に鋏を扱って髪を切っていく。  ここにくる前はそれなりにおしゃれにも関心があったが、今では髪などどうでもよかった。しかし、鏡に映る自分の姿からは目を離すことができなかった。  たった1年半でかなり老けたように見えた。髪は乾き、肌は荒れている。予想はしていたが、あまりの外見の変化にショックを受けた。 「動くなよ」  おれの心の動きに気づいているのか、暖が顔を寄せ、鏡ごしにおれを見る。動揺を悟られまいと、視線を逸らした。 「おまえ、やったことあんのかよ」 「髪切るの? ないよ。動画見て勉強した」  付け焼き刃の知識のわりに、暖の手つきは滑らかだった。もともとなんでもこなせる器用さを持っているのだろう。涼しい顔で作業を進めている。さっぱりと短く刈った黒い髪には艶があって、肌も若々しく輝いている。外国人のような彫りの深い顔立ちは、性別問わずだれの目にも魅力的に映るだろう。小さな四角のなかに並んだふたつの顔のあまりの印象の違いに、おれは暗い気分になった。 「前髪切るから、目瞑って」  暖が体を移動させておれの前に回った。鋏の刃が近づいてきて、おれは反射的に目を閉じた。鏡を見ずに済むのは気が楽だと思った。刃が重なる軽やかな音とともに前髪に鋏が入れられ、膝の上に置いた手に短い髪の束が落ちて皮膚をちくちくと刺す。くすぐったいような感覚に、薄く目を開いた。  焦点が合わないほどの近距離に暖の顔があった。真剣な表情で、おれの額に鋏を寄せている。視線が合いそうになって、慌てて目を閉じた。 「できた」  暖が息をついて、ケープ代わりに肩にかけていたバスタオルを取り去った。床に敷いたゴミ袋の上にはかなりの量の髪の毛が散乱していた。 「いかがでしょうか」  おどけた口調でいって、鏡を見せてくる。年齢相応の若さを取りもどしたとはいい難いが、それなりに清潔感のある男がいた。 「素人にしては悪くないだろ」 「どうでもいい。だれに見られるわけでもないし」 「おれが見るだろ」  タオルについた毛を払いながら、暖は満足げに仕上がりを確認している。 「あ、髪の毛ついてる」  ふいに手を伸ばし、おれの首に貼りついて1本の髪の毛を指先で掠め取った。触れるか触れないかの一瞬。鏡ごしに視線が絡んだ。暖はすぐに視線を逸らした。 「片付けるから、立ってそこどけよ」  おれを見ないまま、小型のハンディクリーナーを使って床の毛を吸い上げる。掃除をはじめる暖を横目に、おれは邪魔にならない場所へ移動した。壁際に立って、首の裏を掌で摩る。髪が纏わりつく感覚が消え、首元がいくぶん楽にはなったが、気分は晴れなかった。  去年のクリスマスに襲われかけてからは、とくに身の危険を感じることはなかった。時折、ふだんとはちがう妙な目つきで見られることはあったが、過剰に触れられることはない。それでも、本能的に暖の視線から逃げようとしていた。  同性を恋愛対象とする人間がいることは当然知っていた。暖がそうかもしれないと思ったが、あえて聞く気にはなれなかった。気を遣ったわけではない。暖の性思考になど関心はなかった。もちろん、自分の身に危険が及ばなければの話だが。  おまえ、男が好きなの?  ていねいにゴミ袋を畳む暖の背中に向かって、問いかけた。暖が振り向いた。 「なに?」 「べつに。鏡は持って帰れよ」 「なんで」 「わかるだろ。今の自分の顔見るの嫌なんだよ」  できる限り感情を殺して、いった。半身に暖の視線を感じた。避けるようにマットレスに寝転がった。ごろりと体を横にして壁を向いた。なにかを考えるのが億劫だった。  鎖骨の辺りに違和感をおぼえ、指先で搔くと、爪の間に数ミリの毛が挟まっていた。取り忘れたらしい。胸の奥に感じる気持ちの悪い感覚にすこし似ている。わずかな違和感を払拭するように、おれは髪の毛をマットレスに擦りつけた。 【1023日後】  監禁生活がはじまって2度目の冬。暖の話によると、今年の冬はかなり冷えるらしい。厚手の毛布が追加され、カイロも支給された。  恐ろしいことに、2年もたつとこの異常な生活に体が慣れてしまっていた。実際に、外出できないことを除けば、常に適温が保たれ、働かなくても食事にありつけるという状況は、場合によっては快適といえなくもない。暖は少々潔癖なほどきれい好きでまめな性質のようで、こまめに部屋を掃除して清潔に保っており、食事も申し分なかった。上司に怒鳴られながら週5日汗水たらして働いている人間のなかには羨ましく感じる者もいるかもしれない。そんな自虐的な考えが頭を過ぎることもあった。  暖のほうはますます忙しくなったようで、見るからに睡眠時間が不足している様子だった。それでも週に1、2度は必ず監禁部屋を訪れ、食品を補充していく。 「おい」  椅子に座りテーブルに突っ伏して眠っている暖の肩を揺する。 「帰んなくていいのかよ。明日大学あんだろ」  手の甲で雑に目元を擦りながら、暖が体を起こす。大きく体を伸ばして派手に欠伸する。 「いつから寝てた?」 「時間なんか知るかよ。1時間くらいじゃねえの」  腕時計に目を落としてから、暖は首を回した。関節が音を立てる。 「帰り、居眠り運転すんなよ」 「それって心配してるってこと?」 「おまえに死なれたらおれも餓死するからだろ」 「そうだった」  暖は喉の奥で笑い、テーブルに肘をついておれを見上げた。 「おまえがいる限り、死ねないんだな、おれは」  意味ありげな言葉だった。おれがなにかいう前に、暖は立ち上がった。帰るのかと思ったが、ちがうようだった。マットレスに寝転がり、体を丸めた。 「なにやってんの、おまえ」 「ちょっと寝かせて」 「はあ? ふざけんな」 「頼むよ。ちょっとだけでいいから」 「だめに決まってんだろ。どけよ」  暖を蹴り落とそうと、拘束具が嵌まった足を上げた。ほぼおなじタイミングで鎖をつかまれた。  暖が鎖を思い切り引っ張って、バランスを崩したおれはマットレスの上に膝をついた。暖の手がおれの腕をつかむ。 「一緒に寝るか?」  目を瞑ったまま、暖がいう。 「冗談だろ」  おれは暖の手を振り払った。それほど強くつかまれていたわけじゃない。拘束は簡単に解け、おれは暖から逃げるように部屋の反対側に避難した。壁の隅で膝を抱え、暖をにらむ。一瞬でも警戒を怠ってしまったことを悔やみ、改めて神経を張り詰めさせた。  しかし、暖はそれ以上なにもしてこようとしなかった。ただ横になってマットレスに顔を埋めている。 「1時間たったら起こせよ」  勝手な話だ。時間の感覚などこっちにはないというのに。  しばらくして、暖の寝息が聞こえてきた。おれになにもできないとたかを括っているのか、完全に弛緩し、熟睡している。  おれは座り込んだまま素早く周囲を見渡した。スマホやノートパソコンが入った暖のバッグはドアのそばの定位置に置かれ、とても手が届かない。暖を拘束し、拷問しようとも考えたが、鎖の長さを考えて移動できる範囲内に役立ちそうなものはなかった。寝ているところを襲撃したところで、道具なしの素手では返り討ちにあうだけだろう。せっかくの好機だったが、諦めざるを得ない。寝ている暖を黙って見ていることしかできなかった。  ふだんはおれが寝ているマットレスの上で、暖は両腕を組み、体を横にして寝息を立てている。そっと覗きこむ。起きているときよりさらに顔色が悪く見えた。かなり疲れているようだ。学生生活だけでこうなるとは思えない。おそらく政治活動かプライベートで問題を多く抱えているのだろう。  犯罪の事実を隠蔽することに成功し、地下室にペットを飼って、有名な大学に通い、政治を学ぶ。だれもが羨むような生活。しかし、まったく幸せそうに見えないのが不思議だった。  こうなる前、出会った頃から、そうだったのかもしれない。暖がふだんなにを考え、どう過ごしているのか、あの頃も今も気にしたことはなかった。一緒に遊んでいても、深い部分まで触れることはなかった。  暖には暖の悩みや苦しみがあるのかもしれない。もちろん、だからといって、したことが許されるわけではなかったが。  暖の寝息を聞きながら、おれは複雑な気分だった。 【1168日後】 「うわ、なんだ、おまえ、その顔」  その日、暖は疲れきった様子で入ってきた。外は雨が降っているようで、コートの肩が濡れている。 「そんな顔色悪い?」 「死にそうだぞ。メシ食ってんのかよ」 「俊介にそれ聞かれるとは」  暖は笑ったが、無理のある表情だった。 「冗談じゃなくて、マジでやばいぞ、おまえ。なんかあった?」 「べつになにもないよ」  嘘に決まっていたが、それ以上追求するのは憚られた。おれはべつに暖の友達でもなければ家族でもない。心配しているわけでもない。ただ、以前のように、暖がこないまま食料が尽きる状況になるのを危惧しているだけなのだ。 「今日もここで寝ていい?」  ここ最近、暖はくるたびに横になって1、2時間休んでいくようになっていた。 「いいけど、こんなとこで寝るより、ちゃんと自分の家で寝たほうがいいんじゃねえの」 「ここが一番よく眠れるんだよ」  おれには理解できなかったが、暖なりの理屈があるのだろう。さっさとコートを脱いだ。コートの下はスーツ姿だった。ネクタイを捥ぎ取り、バッグに圧しこむ。  最近はスーツを着てネクタイを締めていることが多い。まだ大学生ではあったが、卒業後のためにすでに行動を開始しているようだ。家業を継ぐにしろ、就職するにしろ、遊んでいる暇はないのだろう。  しかし、だとしても、ここまで疲弊しきっているのはおかしい。暖は体力があるほうだし、気苦労でやつれるほどデリケートな性格なら、人間を轢き殺し、目撃者を拉致監禁して平気な顔で生活できるはずがない。 「おまえって、友達とかいないの」 「なに、急に」  横になって目を閉じたまま、暖が答える。 「いや、なにもいわれないのかと思って」 「友達はいない」 「大学にも?」 「しゃべるひとはいるけど友達はいない」  おれが知る暖は、人当たりがよく、だれとでも親しく話す社交的な男だった。しかし、思い返してみると、親しく接しているようでいて、実は本心では決して気を許すことがなかったのではないだろうか。一見爽やかな笑顔の裏には黒い感情が潜んでいたのかもしれない。実際に、暖がこのような常軌を逸した犯罪行為を平然と行うようなサイコパスだと見抜くことができなかったわけだから。 「おまえ、友達くらいつくれよ」 「なんで」 「なんでって……気を許せる相手がいたほうがいいだろ。友達とか彼女とか。そういうひとほしいと思わねえの」 「おまえ、友達にも彼女にも裏切られてるじゃん」  暖の口調には棘があった。ふだんは抑制がきいていて感情を読み取れない。今日はすこしちがっていた。淡々とした言葉の影に心の動きが覗けている。 「おまえだって彼女くらいいたことあるだろ」 「ない。おれ女より男のほうが好きだし」  天気の話題でも出すかのようにさりげなく、暖はいい放った。ずっと気になっていたこと。あまりにさらりとしていたため、おれはすぐに反応できなかった。 「え、でも……」  紗弓との性行為はやはり合成かなにかだったのだろうか。一瞬考えたが、即座に打ち消された。 「女ともできるよ。一番最初は男じゃなくて女だったし」 「あっそ……」  いわゆる下ネタといえる話題で男友達と盛り上がることはあったが、なんとなく、暖はそういったこととは無縁のような印象だった。もちろん、年頃の男であり、家柄も外見もすぐれているからには、未経験ということはないだろうが。  去年のクリスマスイブのことを思い出した。暖が襲いかかってきたのは酒に酔ったせいだろうと思っていた。思いこもうとしていた。しかし、恋愛対象が男だというのなら、アルコールは無関係だろう。おれは警戒心をさらに強め、床の上に膝を滑らせて暖との距離を取った。 「周りは知ってんのかよ」 「男が好きって? 知るわけない」  東京ならまだしも、地元は田舎町だ。昭和の時代と較べれば多少軽減されているとはいっても、好奇の目に晒されるのは明らかだった。しかも暖の家は地元の名家で暖は跡取りのひとり息子だ。簡単に打ち明けられることではないだろう。 「じゃなんでおれにいうんだよ」 「だれかにバラす可能性ゼロだから」  それはすなわちおれを一生幽閉するという意味になるが、今更だ。ショックを受けることもない。おれは無言で暖を見つめた。視線に気づいたのか、暖が薄く目を開ける。 「なんだよ」 「べつに」  おれは離れた位置から膝を抱えて暖を眺めた。 「なんかかわいそうだなと思って」 「おれが?」  暖は仰向けになって笑った。 「こんな目に遭わされといてかわいそうとか、おひとよしかよ、おまえ」 「それとこれとはべつ。かわいそうっていっただけで、同情してるわけじゃない」 「変な理屈だな。まあいいけど」  暖は再び目を閉じた。すぐに寝息を立てはじめる。しばらくの間動かずにいたが、おれはそっと身を起こした。立ち上がらずに膝をつかって床を壁づたいに移動し、マットレスに近づく。  暖が手を伸ばしてもつかまることのない距離を確保して、寝顔を見つめた。暖は目を覚まさない。完全に熟睡している。  緩く結んだ唇は薄く、伏せられた睫は長い。形のよい眉に、すっと通った鼻筋。芸能人居慣れるほどとは思わないが、性別問わずほとんどの人間がイケメンと形容するだろう。金持ちの家に生まれ、頭も顔も完璧なのに男が好きだとは、もったいない話だ。  性的に倒錯していることが性格を歪め、異常な行動にはしらせる結果になったのだろうか。行為そのものは正当化できるものでないにしても、今こうなっているのは突然でも偶然でもないのだ。  おれは床にあぐらをかき、膝頭に右肘を載せて頬杖をついた。この男と会うことがなければと何度も考えた。しかし、それは暖もおなじだったのかもしれない。  暖はこの日一度も目覚めることなく、朝まで眠り続けた。 【1216日後】  蒸し暑い日だった。エアコンが故障したらしく、室内の温度は上昇していた。おれはシャツを脱ぎ、上半身裸になって、冷蔵庫の前にしゃがみこんでいた。エアコンのリモコンを操作するが、まったく動かない。噴き出す汗を手首で拭いながら、エアコンをにらんだ。  非常用の電源は装備されているのだろうか。万一停電にでもなったらまずい状況になる。暑さと汗の不快感のせいで神経が尖っていた。  ドアの外に足音が聞こえて、おれは息をついた。暖の足音がうれしいと思ったのははじめてだった。 「やっときたかよ。なあ、ちょっとこれ見ろよ、エアコン」  ドアが開く音。おれはドアのほうに背を向けたままエアコンを見上げてしゃべり続けた。 「壊れてるみたいでさ。暑くて起きたら動いてなくてさ」 「俊介」 「早くどうにかしろよ。暑くて死にそう」 「俊介」  そこでようやく暖の様子がふだんとちがうことに気づいた。切迫した表情。ただごとではない。 「なに……」 「そこ座れよ」 「なんだよ、そん……」 「いいから座れって。話あるから」  反論しようとしたが、暖の体に纏う嫌な空気を感じて、いわれるままに椅子にかけた。 「なに、話って」 「お母さんのことだよ」 「おふくろ?」  思わず立ち上がった。 「なにかあったのかよ」 「病院に運ばれた」  息が止まりそうになった。 「急性アルコール中毒だって。役所のひとがたまたま様子を見に行って、倒れてるところを見つけて救急車呼んだらしい。病院からおれに連絡があった。前に名刺を置いてったからだと思う」  以前にもおなじ原因で病院に運び込まれたことがある。おれが中学生の頃だ。おれが消えてから、飲酒量は増えていたにちがいない。胸が潰れそうだった。呼吸が烈しくなる。必死で冷静になろうとしたが、うまくいかなかった。 「それで……」 「さっき病院に行ってきた。すぐ処置できて無事だけど、入院が必要らしい。肝臓とそれから肺の状態もよくないって医者はいってる」  暖がスマホを差し出してきた。画面には母親の写真。病室らしき場所。ベッドの上で母は眠っていた。痩せて頬の骨が浮いている。首には皺が深く刻まれ、鎖骨が浮き出していた。まだ40代のはずなのに、まるで老婆のように見えた。涙が出そうになった。  子どもの頃のことを思い出した。まだアルコールに溺れる前の母はやさしく、おれのために料理をしたり、公園に連れていってくれたりした。つらくあたられることもあったが、愛情がなかったわけではない。おれが失踪して精神的に追い詰められたのがなによりの証拠だと思った。 「俊介」  スマホを持つおれの手に指を添えて、暖はいった。 「お母さんだけど、金銭的にもかなり困窮しているみたいだ。親戚とも縁が遠くて、面倒を見るひとがいないんだって」 「ここから出せ!」  おれはスマホを投げ棄て、暖につかみかかった。 「おれを出せよ! 今すぐ外に出せ!」  振り上げた拳はむなしく宙を搔いた。冷静さを失ったおれが暴れたところで、押さえこむのは容易だった。暖はおれの腕をつかみ、いった。 「落ち着け、俊介」 「うるせえ!」  両腕をつかまれ、おれは叫んだ。 「おれの母親だぞ! アル中でも、おれにとってはひとりしかいない家族なんだよ! 落ち着けるわけないだろ!」  息がくるしい。おれは酸素を求めて喘いだ。暖のシャツを両手でつかんだ。 「なあ、暖、頼むよ。今すぐおふくろんとこ連れてってくれよ」 「俊介……」 「だれにもなにもいわない。警察にも行かない。一緒についてきてもいい。顔を見たらすぐここにもどってくるから。絶対逃げないから。だから母親に会わせてくれよ。頼むって……」  ほとんど懇願だった。体が揺れ、おれは床に膝をついた。暖のシャツをつかんでいなかったら、そのまま倒れてしまいそうだった。 「暖、頼むよ。ほんとにお願いだから……」 「俊介」  暖はおれの前にしゃがみこんだ。おれの肩をつかむ。おれは顔を上げた。二度と期待しないと誓った。それでも、おれは暖の次の言葉を待った。 「本当にごめん」  期待はあっさりと打ち砕かれた。暖は真剣な表情ではっきりといった。 「それはできない」 「暖……」 「聞けよ、俊介。おまえをここから出すことはできない。けどその代わりに、おまえの母親を施設に入れる」  強い意志を感じさせる口調で暖はいう。 「おまえの母親には治療と安定した生活が必要だ。アルコール依存症を治療する専門医療施設に入所させる。看護師が24時間ついて、食生活もしっかり管理される最高の施設を手配した。アパートもかなり長い間家賃を払ってないみたいだから解約して施設で暮らしてもらう。一番高い個室を用意してる。もちろん外出も自由だし、今より快適で健康的な生活ができると思う」  一言一言噛んで含めるようにいったが、おれには暖がいおうとしていることが理解できなかった。 「けど……」 「金はおれが全額出すから心配するな。未払いの家賃も消費者金融の借金も全部払う。お母さんには取り立ての心配もアルコールの苦しみもない生活を送ってもらえるようにする。この先は一生働かなくていいし、家賃も食費も必要ない。全部おれが面倒見る」  思いがけない話に、おれは言葉を失っていた。暖の表情は真剣で、冗談をいっているようには見えなかった。 「な、俊介。おまえも賛成だろ? おまえだって、お母さんがずっとこのままでいいとは思ってないよな?」 「ちょ、ちょっと待てよ」  おれは慌てていった。 「なんでおまえがそんなことするんだよ。目的はなんなんだよ」 「目的?」 「罪悪感か? 自分がしたこと、これで帳消しになると思ってんのかよ?」 「そんなこと思ってない」  暖は低い声でいった。 「なんでかって、おれはおまえに見返りを求めるからだよ」 「見返り?」  暖の視線がおれの体を降りていく。暑さのために服を脱いでいたことを思い出した。全身をぞわぞわとした嫌な感覚が走り抜け、おれは咄嗟に後ずさった。 「おまえ……冗談だろ?」 「冗談だと思うか?」  床にあぐらをかいて、暖はまっすぐにおれを見た。 「罪悪感とか、馬鹿か、おまえ。どこまでおひとよしだよ。なんでおれがおまえの母親の面倒を見なきゃいけない? しかもボランティアで? ふつうに考えて、ないだろ、それは。おれになんのメリットがある?」  暖の言葉はおれの心と体を急激に冷めさせていった。一瞬でも、暖の申し出が母親への後ろめたさからくるものだと勘違いした自分を嗤った。暖は罪悪感などまったく感じてはいない。すべて計算ずくなのだ。 「……おれが断ったらどうすんだよ」 「どうもしない。おまえの母親が破滅するのを見てる」  暖は涼しい顔で答えた。 「おまえがおれを受け入れるなら、母親は一生優雅な暮らしを満喫できる。おまえが断れば、母親はアパートを追い出され、路頭に迷う。どっちでもおれには関係ない」 「おまえ、犯罪は犯したくないっていってただろ」 「見捨てるのと殺すのはちがう」 「おなじだろ。おまえがおれを拉致ってこんなとこに閉じこめなかったらおふくろは……」 「幸せに暮らしてたか? 本気でそう思うのか?」  返答に詰まった。おれが狼狽する瞬間を暖は見逃さなかった。畳みかけるようにいった。 「勘違いすんなよ、俊介。おれはおまえを脅迫しているわけじゃない」 「どこがだよ。母親を人質に取ってるじゃねえかよ」 「ちがう。むしろ、おまえにチャンスを与えてるんだよ。人生で一度の親孝行ができるチャンスだろ」 「ふざけんな!」  おれは叫んだ。床に落ちていたリモコンを暖に向かって投げつけた。リモコンは暖の顔を直撃し、反動で床に落下した。衝撃で蓋がはずれ、乾電池が跳ね飛んだ。  こめかみから血を流しながらも、暖は表情を変えなかった。バッグから紙束を抜き取り、おれの前に投げて寄越した。  医療施設のパンフレットだった。紙質からして上等で、高級な施設だということが一目でわかる。たとえおれが予定していたとおり大学に進学して企業に就職できたとしても、母親を入れてやることなど決してできないようなランクの施設。 「明日またくる。それまでに考えとけよ」  暖は立ち上がった。顔の血をタオルで拭いて、バッグを持ち上げる。 「おれはどっちでもいい。選ぶのはおまえだからな」  それだけいって、暖は出て行った。ドアの重い音を聞きながら、おれはうなだれていた。  パンフレットの表紙は緑に囲まれた施設の外観。ページを捲ると、制服姿の職員らしき若い女が微笑んでいた。個室のベッド、毎日提供される食事のメニュー、保険や保障などのオプションについて解説されている。  もしこの施設に入所できれば、母が抱えるアルコール依存や借金などの問題はすべて解消されるだろう。息子が失踪した心の傷もすこしは癒えるかもしれない。  母親はおれが中学の頃から働いていない。社会復帰は難しいだろう。生活保護だけで生きていくのは厳しい。それはずっと前からわかっていた。だからこそ、奨学金を借りて大学に進学しようと思った。いい仕事に就いて、母に楽をさせてやりたかった。こんなことになって、描いていた将来はすべて消え去ったが、唯一、母に安定した暮らしをさせることだけは実現できる可能性が残されているわけだ。ただし、そのためには唯一残った誇りを捨て去らなければならない。  拳を握りしめた。手のなかでパンフレットが歪み、制服姿の女性職員の顔が歪んだ。  おれはパンフレットを胸に押しつけた。汗で紙が湿ってぼろぼろになった。  母ちゃん、ごめん……  心のなかで懺悔した。猛烈に母親に会いたかった。しかし、その願いが叶わないことも知っていた。  暖はおれを解放しない。たとえなにがあっても。  地獄のような熱気のなかで、おれはうずくまり、荒い呼吸を繰り返していた。 【1217日後】 「暑いな」  ドアを開けるなり、暖は顔をしかめた。ネクタイを緩め、上着を脱ぐ。部屋の隅で膝を抱えているおれを見つけ、近寄ってきた。おれの足下に落ちていた医療施設のパンフレットを拾い上げる。パンフレットは湿気でぐしゃぐしゃになっていた。 「決まった?」  暖がおれの前で膝を折り曲げ、見下ろしてくる。おれは顔を上げなかった。床を見つめたまま、いった。 「メリットって……」 「え?」 「おまえのメリットってなに?」  掠れた小さな声。自分でもよく聞き取れないほどだった。 「いっただろ、メリットないことはやらないって」  暑さで頭がぼんやりしている。目がかすみ、喉が渇く。おれは乾いた声で呟いた。 「おれがいうこと聞いたら、おまえにどんな得があんの」  暖は黙っている。表情が見えず、なにを考えているのかわからなかった。顔を見たところで、わからないだろう。けっきょく、おなじことだ。 「おまえ、男が好きっていってたよな」  暖は答えない。構わずにいった。 「セックスが目的か? 男とやりたいわけ?」  暖は答えない。おれも俯いたままだ。汗の玉が額から顎にかけて縦断し、重力に負けて床に落ちるのを眺めていた。 「他の男じゃだめなの? おまえならだれとでもできるだろ」  暖はしばらくの間無言で、長い沈黙の後、いった。 「決めたのか、俊介?」  おれは絶望のため息をついた。顔を上げた。暖がこちらを見ている。真剣そのものといった表情。冗談も同情もなにも通じないと諦めるにはじゅうぶんだった。 「ほかの選択肢をくれよ」 「だめだ」  にべもない答え。暖は岩のように頑なだった。 「おまえに差し出せるものがほかにあんのかよ」  そんな場合ではないのに、思わず笑いそうになった。まったくもってそのとおりだ。 「おまえ、おれのこと好きなの?」  ほんの一瞬、暖が狼狽を見せた。眼球が左右に細かく揺れた。はじめてのことだった。 「……わからない」  想像していなかった答えだった。おれは眉を顰めた。 「わからないってなんだよ」 「好きとかそういう感情はわからない」  暖はひたすら真顔だった。ふざけているようには見えない。 「彼女も彼氏もいたことないのか、今まで?」 「ない」 「だれか好きになったことは?」 「ない」 「家族への愛情とかは? 両親とかじいちゃんばあちゃん……」  暖が笑った。嘲笑や自己憐憫ではなく、心から可笑しいというような笑いだった。 「ないよ」  暖が近づいてくる。伸ばした手がおれの腕に触れた。汗でじっとり湿った肌が吸いつく。暖も汗をかいていた。  暖の手がゆっくりと移動する。肘から手首。指先が絡んだ。暖の爪の先がおれの関節のやわらかい部分を搔いた。 「おまえ、なんでおれとやりてえの」 「忘れた」 「忘れた?」  おれの指を弄びながら、暖が頷く。 「なんだよ、それ。いつそれ思ったんだよ」 「だから忘れたんだよ。いつの間にか……」  暖の手がおれの脚に伸びる。おれは暑さのために短めのハーフパンツを穿いていた。裾の隙間から指先が潜り込もうとする。  おれは素早く脚を伸ばした。膝をついて迫ってくる暖の左肩に踵を押しつける。強く膝を伸ばすと、暖は重心を崩して顎を引いた。  おれは剣先を突きつけるかのように踵を暖の喉にあてた。それ以上近づけなくなり、暖はのけぞった体勢でおれを見下ろした。後ろ向きに倒れないのは身体能力と筋肉の力だろう。たいしたものだ。 「痛いんだけど」 「うるせえ。触っていいっていってねえだろ」 「早く決めろよ!」  暖が声を上げた。大きな声だった。部屋中に響く。  暖の手がおれの足首をつかむ。火傷するのではないかと思うほど熱い掌だった。ついさっきまでエアコンの効いた車中にいたはずの暖が、24時間以上灼熱の部屋に閉じ込められていたおれ以上に汗をかいていた。顔が紅潮し、息が荒くなっている。  おれは黙って足首を回転させた。親指と人差し指で暖の筋を締める。暖は顔をしかめた。怒りの灯った眼差しでおれをにらむ。いつもの無感動な眼とはちがう。抑えきれない感情があふれ出している。 「なんだよ。無理矢理レイプするか? また刺されんのが怖いかよ」  暖がおれの脚を強く引き寄せ、おれは仰向けに倒れた。視界が反転する。後頭部を床に打ちつけ、意識が飛びかけた。  暖はそのまま鞭を撓らせるかのようにおれの脚を引っ張ってマットレスに引きずりこんだ。おそろしい力だった。気づくと仰向けにされていた。  暖がおれの腹のうえに跨がって、股間の硬直がおれの腹筋を圧迫した。暖の顎から滴る汗がおれの胸に垂れた。かなり興奮している。ほとんど動物だ。  自尊心を棄てないと決めていなければ、恐怖の声を上げていたかもしれない。おれは全身に力をこめ、静かにいった。 「おれが死んだら?」 「……なに?」  暖の声は掠れていた。暖もぎりぎりのところで爆発を抑えている。 「おれがおふくろより先に死んだら? おふくろはどうなる?」  暖はすこし間を空けて、答えた。 「そうなったら費用を払い続ける理由がない」  肩で息をしながら汗だくで話すこととは思えないほど機械的な言葉だった。 「ただし、おまえが生きている限りはなにがあっても面倒を見る。約束する」 「……わかった」  おれは目を閉じ、いった。 「わかったってなに? どういう意味だよ」 「契約成立って意味だよ。早くやれよ」  おれは両手を投げ出し、全身を弛緩させた。いずれにしても避けられないのなら、母親のために条件を受け入れるしかない。顔を横に傾け、眼球だけを動かして横目に暖を見た。まるで飢えた獣だ。ここまであからさまでなかっただけで、これまでにもおなじような居心地の悪さを感じることがあった。逃げ場はない。3年もなにもなかったのが奇跡だと思えるほどだ。  暖は黙っておれを見下ろしている。呼吸はまだ荒いがさっきまでほどではない。必死で抑えている。そうでなければ、とっくにめちゃくちゃにされていた。3年間無事でいられたのは、暖が自制していたからだろう。しかしそれももう限界だった。母親のことはただの建前で、それがなかったとしても結果はおなじだっただろう。 「どうした、さっさとやれよ。びびってんのか」 「うるさい。挑発しようとすんな」  暖は短くいって、上半身を起こした。おれに跨がったまま膝立ちになって、シャツを脱いだ。これまで意識したことがなかったが、肩の幅がかなり広く、筋肉が浮き上がっている。おれは直視できず、しかし恐怖を読み取られないように、眉間に皺を寄せて首を捻った。 「こっち向け」  顎をつかまれ、顔の向きをもどされた。息の熱が近くなった。唇になにか触れ、驚いて目を開けた。 「おい……」  思わず口を開けると、舌を捻じこまれた。暖の唇は汗で濡れていた。顎をつかまれ、逃げられなかった。暖の肩に手をついて圧しのけようとしたが、暖の体もおれの手も濡れていて、うまくいかなかった。肩を滑った手が宙に浮いた。引き離そうとしたが、暖の髪は短くつかむことができない。指先が首の裏を搔いただけだった。  舌が絡み、唾液が混じりあった。あまりに長く、深かった。唇が離れた瞬間、酸素が一気に流れこみ、おれは咳きこんだ。 「……こんなのはいらないだろ」  かろうじて抗議したが、暖は笑っただけだった。 「いいから早くはじめて早く終わらせろ」 「焦るなよ。怪我させたくない」  そういって暖は一度おれから離れた。ドアの横に置いたバッグのなかに手を入れる。もどってきたときには、円筒型のボトルと避妊具を手にしていた。準備万端ということか。やはりおれに選択肢はなかったらしい。  再び唇が近づく。今度は軽く触れる程度で、徐々に移動していく。顎を辿り、首を通り、胸元へ。鎖骨の窪みに溜まった汗を啜る音。体がびくっと震えた。 「熱いな……」  おれの首元に顔を埋め、暖が呟く。 「おれも暑い……」  室温はさらに上がっているようだった。マットレスも湿気を含んでじっとり重い。  脇腹の辺りをまさぐっていた暖の手が胸にかかり、思わず身を捩った。 「逃げんなよ」 「逃げてない。ただ……」  息を飲み込むと喉が鳴る音がした。暖はおれの乳首に舌を這わせている。腰が浮いた。 「なあ、エアコンをなおしてからでもよくないか。明日か……」  暖が目を上げる。視線が絡む。 「明後日か……」 「だめだ」  暖がおれの言葉を遮った。冷静さは残っていなかった。 「もう待てない」  腰の下に手を入れられた。体を持ち上げられ、ハーフパンツが下着ごと下ろされる。女のように扱われる屈辱に泣きそうになったが堪えた。 「後ろ向いて。そのほうが楽だから」  いわれたとおりにするしかなかった。おれは体を裏返し、暖の手に導かれるままに膝頭をマットレスにめりこませて腰を上げた。臀部に暖の息を感じる。割れめの部分に冷たい液体の感触。不快に感じるはずなのに、室内の暑さのせいで心地よいと感じてしまった。しかし、それは一瞬だけだった。  オイルマッサ―ジでもするように暖の指が臀部の肉を圧し、撫でる。おれはシーツを握りしめて耐えた。しかし、指先が内部に潜りこんでくると、思わず声が出た。 「だいじょうぶか」  答えなかった。口をひらくと意図しない言葉が出てきそうだった。  暖はおれの膝の両側に自分の膝をぴったりとつけていた。股が接着して動くたびに擦れる。暖は右手で臀部を摩りながら、もう片方の手を前に回した。前後の敏感な部分を動じに刺激され、おれは全身を震わせた。意識が散乱し、とどめられない。混乱しているうちに、後ろのほうの指が増やされた。ローションの力を借りて奥まで押し入ってくる。 「ちょ……痛……」  触れられた部分から痺れるような痛みがはしる。 「だいじょうぶ。めちゃくちゃ感じてる」 「嘘だろ。そん……」  陰茎を包んでいた手に力が込もった。前後に擦られて、おれは思わずのけぞった。呼応するように後ろの動きも烈しくなる。体が跳ねるほど強く刺激を与えられ、おれは全身をのたうたせた。  最後に自慰をしたのはいつか思い出せない。あっという間に絶頂を迎えた。マットレスに大量の白濁を撒き散らし、そのうえに突っ伏した。  肩をつかまれた。ゆっくり引かれ、仰向けにされる。全裸で、汗まみれで、自分の出したもので腹をびしょびしょにした姿を、おれは暖の前に晒していた。 「すげ……」  暖が呟く。眼球が素早く動いている。おれの全身を見ている。喉が鳴る音が響くようだった。頭が重い。かなり熱が上がっているようだ。  暖はおれの股を持ち上げ、裏側に膝頭を差し込んで腰を浮かせた。赤ん坊のおむつ交換のような姿勢を取らされ、おれは羞恥に唇を噛んだ。  暖が上半身をおれの上に落とす。熱い舌に唇をこじ開けられた。キスしながらまた尻をさぐられる。今度はさっきよりも奥へ。内部で間接が曲がり、内臓を掠めとられるような動きに、おれはまた声を上げた。口を開けると舌がさらに深くまで這い回る。  しつこく擦られて、腰が跳ね上がった。二度目は短く、少量だったが、深かった。頭頂部がマットレスに埋まるほど大きく身を捩った。天井を向いた胸を暖の手が包む。掌で刺激され、先端を爪の先で搔かれる。休みなく刺激を与えられ、声を我慢するのが難しくなっていた。  臀部の動きを続けながら、暖が股の内側に唇を這わせる。二度達して下を向いている陰茎を口に含んだ。  以前にも暖の手で達せられたことがあったが、比較にならないほど烈しく、執拗だった。あらゆる手法を用いて、暖はおれを限界に追いやった。  三度目の瞬間、ほんの数秒意識がとおのいた。気づくと暖が裸になりおれの上に重なっていた。全裸の肌が擦れあい、摩擦でよけいに熱が上がる。  股の間にもっとも熱い塊を感じた。あ、入れられるなと、霞がかった頭で考えた。  暖が短く息を吐いて、次の瞬間、先端が潜りこんできた。散々拡げられたせいか、最初のうちは予想よりもスムーズだった。しかし、もっとも膨張した箇所が通るときには引き攣れるような痛みがはしった。 「ちょっと……待て、ちょっ……」 「待てないって……」  暖が腰を進める。強烈な圧迫感に、おれは声を上げた。   最奥までたどり着くと、暖はおれの首の両脇に手をついて、一度止まった。荒く息を継ぎながら見下ろしてくる。 「暖……」  なにかいおうとしたが、なにをいいたいのかわからなかった。おれを待たずに、暖が動きはじめた。もう考える余裕はなかった。おれは暖の動きに合わせて声を出した。無意識に体が逃げようとしてマットレスのうえをずり上がっていた。後頭部が床にあたり、頭がぐらつく。暖が手を伸ばし、おれの頭をつかんで引き寄せた。そのまま唇を貪られる。  暖も我を忘れたように夢中で腰を打ちつけている。右手でおれの頭を固定し、左手で腰をつかんでいる。肉が衝突する音が響く。体のあちこちが密着していて、汗と体液が混じり合う。もうどちらのものかわからない。  暖の動きが烈しくなり、大きく揺さぶられて、おれは暖の首に埋め、両腕を背中に回してしがみついた。そうしなければ振り飛ばされてしまいそうなほどめちゃくちゃな動きだった。  暖も声を上げた。低いうめき声が咆哮に近いものに変わる。ふたりぶんの声と皮膚を叩く音、泡だったローションが跳ねる音、おれの足首から伸びる鎖が床をのたうつ音が奇妙なコントラストを生んでいる。 「俊介……やばい、いく……俊介っ」 「だめだめ、やめろ、馬鹿、もう……」  もっとも奥まできて、止まった。次の瞬間、内部での膨らみが限界を超えた。内蔵の奥で弾ける感覚とともに、熱が拡がった。放出しながらも暖は緩やかに腰を打ちつけた。小刻みに奥を叩かれて、おれは体を揺らした。自分も達していたことに気づかなかった。  間の抜けた音がして、暖が出て行った。受け入れていた部分がじんじんと痺れている。  暖が深く息を吐いた。おれの上に体を預けてくる。全身脱力して、重みを増していた。文句をいう代わりに、上半身を捻った。暖は案外素直におれの体を滑り降りた。  体中熱が充満して、小刻みに震えている。動けそうになかったが、せめて暖の視線から逃れようと体を横に倒した。距離を取る間もなく、背後から抱き竦められた。耳の裏に唇を圧しつけられる。首や肩にも。体に纏わりつく手がいたわるように腕を撫でる。 「すごかったな……」 「……くっつくな。キモい」  体に回された腕を解こうとして手をかけたが、力が入らない。代わりに指をつかまれ、絡め取られる。抵抗する気力もない。したいようにさせてやった。自分を監禁している張本人と性交したうえ手を繋いで寝ているなど、まともな思考では受け入れられない。  体が重い。身じろぐと、体の奥に鈍い痛みが灯る。すでに終わっているはずなのに、まだ中に存在しているかのような感覚。強烈な余韻が残っていて、体が順応できない。  男同士の行為というものがこうなのか、それとも暖だからなのか。はじめて体験する身で判別することはできない。ただ……  覚悟を決めてから、3年前に見させられたお手製のハメ撮り動画を思い出していた。付き合っていた女と暖がセックスしている映像をひと晩中見ることになった。忘れようと思っても忘れられるものではない。  紗弓の姿に自分を重ねるのは楽しいものではなかったが、考えないわけにはいかなかった。しかし、実際にはまるでちがった。  紗弓としているときの暖は最後まで冷静で、ほとんど表情を変えることなく作業を進めていた。相手の反応を見ながら、計算して動いていた。しかし、今のは……おなじ人間とは思えない。  暖が脚を絡めてきて密着が濃くなる。終わった後も、紗弓のときはすぐにシャワーを浴びた。こんなふうに体を寄せあって余韻を共有するなど、まるで…… 「……おい」  胸元にあったはずの暖の手がいつの間にか背後に回って、腰の周辺を蠢いている。 「……もう1回したい」  冗談だろとはもう聞かなかった。暖がやるといえば必ずやると知っていたからだ。 【1242日後】  暖は約束どおり母親を施設に入所させた。複数の業者から借りていた金もすべて完済し、アパートの家賃と解約金も支払った。  おれは全裸で床にあぐらをかき、契約書を捲っていた。入所金と月額料金の額は想像をはるかに超えていた。母のためにあてがわれた部屋は施設内でも最高のランクで、テレビやDVDシステム、電子レンジ、ウォークインクローゼットが備えられるなど充実した設備のうえ、専属コンシェルジュが24時間対応するという破格の待遇だった。 「満足か?」  暖が背後からにじり寄ってきた。おれの背中に肩を圧しつけ、腕を回してくる。首のやわらかい部分に歯を立てられ、おれは顔をしかめた。 「おれも電子レンジがほしい」 「考えとく」  契約を交わした翌日、暖はまずエアコンを修理した。また動画で学んできたのか、工具を持ってきて自分で分解しもとどおりに動くようにした。業者を呼ぶという選択肢がないのはわかっていたが、呆気にとられた。そして数日後には母親が転院し、すべての処理が終わっていた。  おれは暖を振り放して立ち上がった。テーブルの上の液晶タブレットを操作する。映し出されたのは母の新たな住まいだった。豪華なシルク製のローブを着た母が所在なさげに歩き回っている。かなり戸惑っている様子だった。当然だろう。生活保護を受けて6畳の古アパートで酒に溺れていたのが、突然セレブ御用達の高級施設だ。なにが起きているのかわかっていないにちがいない。 「なんていったんだよ」 「お母さんに? おまえの友達だって」 「信じてたか?」 「さあ。驚いてるみたいだったけど」 「だろうな」  運ばれてきたルームサービスの食事に慌てている母の様子を眺めながら、おれは笑った。元彼女のAVを見ているときは破壊したいと思っていた液晶ディスプレイだったが、今はいつまででも見ていられる。 「おまえが笑ってる顔見るの、3年ぶりだ」  暖はマットレスのうえで煙草を吸いながらおれを見ていた。おれは笑顔を引っ込め、散乱した服を集めはじめた。 「感謝してほしいんだったら無駄だからな」 「べつにそんなこと考えてない。もらうもんはもらってるし」  これが江戸時代なら、家族を養うために身売りした孝行息子ということになるのだろうか。契約書を見ながら、気分は複雑だった。 「けど、おまえ、本当にこの施設の料金全部払えるのかよ。まだ学生だろ」 「このくらいなら問題ない。初期費用と1年ぶんくらいは貯金でまかなえるし、今はそんなに収入ないけど、卒業したら安定した額が入ってくるから」  こともなげにいって、暖は体を起こした。煙草を消し、おれの脚に指を這わせる。 「心配しなくていいから、それ消してこっちこいよ」  ため息を飲み込む。母が安全で安心できる生活を送れるようになったのはいい。しかし、代わりに失ったものもそれなりに大きかった。  液晶ディスプレイの電源を落とした。暗くなった画面におれの陰鬱な表情が見えた。 【1413日後】  冬。暖は大学卒業を前にした最後の試験と卒論に追われ、慌ただしい日々を送っているようだった。6日ぶりに顔を出すと、食料を冷蔵庫に入れることも忘れ、いきなり貪りついてきた。  立て続けに二度。終わった後は息も絶え絶えだった。  おれは俯せになったまま動けずにいた。避妊具の処理を終えた暖が体を寄せてくる。行為そのものよりも終わった後に付き纏われるこの時間のほうが苦痛だった。 「おれ腹減ってんだけど」 「おれもメシ食ってなかった」  おれの髪を指で軽く鋤きながら、暖がいう。 「一緒に食おうか」 「明日早いんだろ。帰れよ」  暖は呻きながらおれの胸に顔を埋めた。 「帰りたくなくなるな」  暖の髪についた煙草の匂いを避けるように、おれは顎を上げて天井を仰いだ。どういうつもりなのか、暖はまるで恋人のようにおれをあつかうようになった。行為じたいも必ず避妊具を使用し、おれの体の負担を最小限に抑えている。母親の面倒を見る代わりとして受け入れているからには逃げることはしないが、かなり居心地が悪い。これなら殴られて無理矢理犯されるほうがましだとさえ感じる。 「俊介」  名を呼ばれて我に返った。暖の指先が顎にかかっていた。唇が近づく。短い時間のやさしいキスだった。こういう小さな瞬間のひとつひとつがおれを戸惑わせる。今このときだけ切り取れば、男同士であることを除いてごくふつうのカップルに見えるだろう。しかし、実際には、いっぽうはひとを轢き殺し、目撃者を拉致監禁した挙げ句性的にも搾取している。そしてもういっぽうは、家族の生活を支えるために体を差し出している。当然、愛情は介在しない。すくなくとも、おれが暖にそんな感情を抱いたことはなかった。 「次はたぶん木曜になると思う」  身支度を整えながら、暖がいう。 「もうすこししたら毎日でもこられるようになるから」 「は?」  おれはまだマットレスに寝そべっていたが、思わず起き上がった。 「え、なに、おまえ卒業したら地元帰る気なの」 「そうだけど」  ネクタイを締めながら、暖が怪訝な顔で振り向く。 「なんか問題?」 「いや……てっきり東京で就職するなり選挙出るなりすんのかと思ってたから……」 「まずは地元の民間企業に入って地盤固めることになってる。政界進出するにしても地元から出馬することになるし」 「え……てことは、もう就職決まってんの?」 「あたりまえだろ。今何月だと思ってんだよ」  暖は呆れたように笑う。  暖が大学を卒業した後のことを考えていなかった。今は週に1、2度程度くるだけだからどうにかなっているのだ。毎日となると心身が持たないのはあきらかだった。 「俊介」  考えこんでいると、腕を引かれた。暖がしゃがみこんでいる。頭を撫でられる。 「心配すんな。こっちに帰ってくるっていっても、すこし離れたところにマンション借りるし、本当に毎日くるわけじゃない。あんまり頻繁に通っても怪しまれるだけだしな」  暖は常にこちらの考えを読み、先回りしてくる。黙るしかなかった。 「じゃあまた木曜にな」  親指の腹でおれの頬を軽く擦ってから、暖は出て行った。ドアを閉める前に一度振り返る。微笑み、小さく手を掲げた。  ドアが閉まると、おれは深くため息をついた。両手で顔を覆い、手のなかで呻いた。 【1497日後】  暖は大学を卒業した。就職先は県内の広告代理店らしい。一番の得意先は父親の運送会社だ。上司になる人間はさぞやりにくいことだろう。同情する。 「俊介……そろそろいくぞ。いいか?」  背後で暖が囁く。声が上擦っている。切迫している。いいもなにもない。おれは四つん這いになり、マットレスに顔を埋めて、ひたすら終わりを待っていた。  暖が声を上げて、尻のなかにじわりと熱を感じた。大きな体が被さってきて、胸が圧迫される。暖はおれに折り重なるように脱力して、全身を上下させ息をしている。自然と呼吸のタイミングが重なる。  卒業式の夜、暖はスーツ姿のままやってきた。その夜はめちゃくちゃに抱かれた。どちらもわかっていた。4年前、高校の卒業式の夜。あのときにすべてがはじまったのだ。そのときはいつもより強引で、おれの体に無数の痕を残した。  4年を過ぎると、おれにはもう逃げる気力はなくなっていた。唯一の肉親である母親を押さえられているのだ。監禁しているのではなく施設で安全に生活しているとはいえ、人質に取られているのも同然だ。たとえ隙を見て逃亡に成功したとしても、母を迎えに行き、施設から連れ出し、一緒に逃げなくてはならない。もしくは母を見捨ててひとりで逃げるか。どれも現実的とはいえなかった。けっきょくおれは年が明けてもこうして暖の性欲を処理する役割を果たし続けていた。 「……おれ、男ともやれんだな」  行為後の処理をするためにウェットティッシュをつかう暖に協力して脚を上げながら、いった。 「なんかショックだわ」 「棒と穴があれば、だれでもなんでもできる」  おれの体をていねいに拭きながら、暖の返事は身も蓋もない。 「そりゃそうだけどさ」  背中に飛び散った精液の白を身を捩って眺めながら、おれはため息をついた。 「ほかの男ともおなじようにやれんのかな」 「おい」  暖があからさまに顔をしかめる。不快そうに舌打ちして、丸めたウェットティッシュをおれの顔めがけて投げつけてきた。 「なんだよ。きたねえ」 「うるさい。冗談でもそういうこというな」  頭を叩かれる。理不尽だった。 「おまえはおれのものだ。だれにもさわらせない」 「ふざけんな。やらせてるからっておまえのものってわけじゃねえから。勘違いすんな」 「おまえのほうこそ、おれがやさしくしてやってるから勘違いしてんじゃないのか」  マットレスの上に転がったウェットティッシュの塊を投げ返す。 「……悪かったよ」  しばらくして、暖がため息をついた。 「ごめんって。煙草吸うか」  殊勝な態度をつくり、煙草を勧めてくる。腹は立ったが、煙草の誘惑には逆らえない。 「おまえはどうなの」  暖が差し出す煙草を咥え、ジッポの火に顔を近づけながら、おれはいった。 「おれがなに?」 「男とやってんの」  暖はきょとんとした顔になった。煙草の煙を吐くのとともに答えた。 「今やってる」 「じゃなくて、おれ以外ってことだよ」 「なんでそんなこと聞く?」 「べつに」  フィルターをつまんで、おれは首をすぼめた。 「やってないんだったら、ほかでもやってくりゃいいんじゃないかと思って。そしたらおれも楽だし」  卒業後、地元に帰って、仕事がはじまるまでの数週間は、文字どおりやりまくった。暖はほとんどの時間をこの部屋で過ごし、必要なものを買い足すための外出以外は食事するかシャワーを浴びるか性行為をするかしかなかった。 「セフレつくれってこと?」 「まあ、なんでもいいけど。彼氏でもセフレでも」  ビールの空き缶に煙草を投げ入れ、おれはいった。暖はマットレスに肘を立てて頭を支えながらおれを見ている。 「なんだよ」 「べつに」  暖が眉を上げる。18歳から22歳になり、暖の顔は大人の男のものに変化していた。おれの顔はどうなっているだろうか。鏡を見ることがほとんどないからわからない。 「セフレはいらない。おれセックス嫌いだし」  噴き出しそうになった。 「変なこといったか?」 「いや、おまえ、見てみろよ、これ」  おれは自分の体を示しながらいった。 「ひとの体痣だらけにしといて、セックス嫌いはないだろ」 「自分でも不思議なんだよな」  暖は悪びれることもなくいってのけた。 「こんなふうにできるとは思ってなかった。セックスじたい一生しないと思ってたし」 「なんだそれ」  興味が湧いたわけではなかったが、なにげなく尋ねた。 「おまえ、最初は女だったんだろ。なんか失敗でもした?」 「そういうのじゃない」  仰向けになったおれの髪を指先で弄りながら、暖が話す。 「相手ってどんなの?」 「さあ。名前も知らない」 「もしかしてプロ?」 「だったのかもしれない。よくわからない」  暖は淡々といった。つかみどころがない。おれはさらに尋ねた。 「どこでやったんだよ。ホテル?」 「いや」  暖が首を振る。 「ここ」 「は?」  おれは体を起こして暖を見た。 「ここ? この部屋で?」  形容しがたい感覚が全身を駆け巡り、おれは声を震わせた。 「おれの前にもここにだれか監禁してたのかよ?」 「おれじゃない。父親だよ」  返事は思いがけないものだった。おれは絶句した。暖は変化のない口調で続けた。 「ここは父親から譲り受けたっていっただろ。もともとはその父親、おれの祖父がつくった地下室だった。祖父も父もみんなここをおなじ目的につかってた」 「監禁部屋……」  口にするのもおぞましかった。地方の権力者が守り続けてきた暗い秘密。おれが考えている以上に邪悪で非人道的だった。 「高3の夏、おれ1カ月くらい消えてただろ」  おぼえていた。暖と一緒でなければクラブに入れない。しかたなく居酒屋や公園で酒を飲んでいた記憶がある。 「たしか、海外に短期留学とか……」 「あれは嘘。ほんとはここにいたんだ。1カ月間」  衝撃的な話だった。おれは混乱して眉を顰めた。 「え……じゃあ、おまえも監禁されてたってこと?」 「ちがう」  暖は新しい煙草を咥えた。火をつけ、一口吸った。ゆっくりと煙を吐き出した。 「夏休みに入るすこし前、母親が勝手におれの部屋に入って、で、見つけた」 「なにを」 「男の裸が載った雑誌とかアイドルの写真集とか」  暖は唇の端を歪めた。自虐的な笑いに見えた。 「母から父に伝わって、それで、ここに連れてこられた」  暖はそういって首を捻り、部屋を見渡した。 「女がいた。今おまえがつけてるその鎖を脚につけて」  ぞっとした。うすら寒いものが足首から頭の先まで駆け上ってきた。 「どういう素性の女かはわからない。ほとんど会話してないから。無理矢理連れてこられたというよりは、金を積まれた感じだったと思う。1カ月、閉じ込められた。その女とふたりで」  おれはフェミニストではない。LGBTへの偏見もないが、無理に理解しようとも思わない。それでも持って生まれたものを他人が矯正するために人権を無視するのが間違いだということがわかる。  裸の女と1カ月もの間ふたりきりで狭い部屋に押し込まれる。それだけ聞けば羨む男もいるかもしれない。しかし、性の経験がなく、しかも恋愛対象が男だと自認している高校生には、トラウマになりかねない。 「荒療治のつもりだったかもしれないけど、まあ、そんなんでどうにかなるもんでもないよな。何度もおなじことされたらたまらないから、治ったふりしたけど」  暖は苦笑いしながらいった。筆舌に尽くしがたい苦痛だったはずだが、すくなくとも表面上はまるで気にしていないかのようだった。 「その女は……」 「知らない。いつの間にかいなくなってた。そのまま父からこの部屋を譲り受けて、今に至る」  おとぎ話でも朗読するかのようにいって、暖は起き上がり体を伸ばした。 「おれがセックス嫌いな理由、わかっただろ」  言葉を失っているおれの首を撫でて、笑顔をつくった。 「おまえがきついんだったら、我慢してすこしセーブする。それでいいよな?」  だめだとはいえなかった。暖は自分が歪んでいるのは生まれつきだといったが、環境による影響もあっただろう。地元で尊敬を集める伝統ある家が裏では忌むべき犯罪に手を染め、しかも代々受け継いできたと知り、ぞっとした。 「おれはおまえがうらやましいんだよ、俊介」 「おれが? 母親は飲んだくれだし父親はいないのに」 「お父さんもお母さんもおまえのことちゃんと愛してると思うよ」 「それはないだろ」  鼻で笑った。愛されていると感じたことはなかった。すくなくとも父親からの愛情を受けた記憶はない。 「愛情があったら不倫なんかしないだろ」  暖は黙っていた。煙草の先を空き缶に押しつぶして、身を寄せてくる。ニコチンの味がするキス。過去のトラウマを打ち明けたせいか、暖は昂っているようだった。一瞬躊躇って、暖の胸に掌をあてたが、けっきょくは力を抜いてしまった。  悲惨な目に遭ったからといって、暖がしたことが許されるわけではない。なにもかも家庭環境のせいにはできない。  暖の唇が顎から首へと下降し、熱を帯びた指が下腹に伸びる。愛撫を受けながら、おれはぼんやりと天井を見つめていた。3世代にわたって、いったい何人がこの天井を眺めていたのだろうかと考えながら。 【1718日後】 「紗弓ちゃん、結婚したみたいだな」  冷蔵庫の前にしゃがみこんで食品の整理をしながら、暖が振り向かずにいった。おれは暖が買ってきたカルボナーラを口に運んでいるところだった。一拍置いて、顔を上げた。 「……まだ連絡取ってんの」 「いや。インスタに載せてた」  暖が立ち上がる。差し出されたスマホ。紗弓のインスタグラムにはウエディングドレスを着て幸せそうな笑顔が投稿されていた。相手の男は知らない顔だが、爽やかでいかにも高スペックという印象だ。 「外資系金融会社の営業だって」 「イケメンだな」  スマホを返して、食事にもどる。視線を感じ、目だけを向けた。 「なんだよ」 「べつに」  暖は目を逸らした。床にあぐらをかいて、冷蔵庫に保管している食品の賞味期限を確認しながら、暖がいう。 「ショックだったんじゃないかと思って」 「おれが?」  思わず笑ってしまった。 「正直、名前も忘れてた」 「ほんとに?」 「嘘ついてどうすんだよ」  実際に、紗弓の名前を聞いたとき、すぐには顔が浮かんでこなかった。最後に会ったのは5年近く前だ。結婚したと知っても、心が動くことはなかった。 「お嫁さんになるのが夢だっていってたからな。よかったんじゃねえの。相手もいいひとそうだし」  紗弓と過ごした日々。明確に思い出すのが難しくなっていた。ここにくる前の自分がどんな生活を送っていたか、なにを考えていたか、すこしずつ朧になっている。  冷蔵庫の整理を済ませ、暖が立ち上がった。コートを着て、身支度を整える。 「帰んの?」 「ああ」  以前までは性行為をせずに帰ることはほとんどなかったが、ここ数カ月は忙しいらしく、食料品を置いてすぐに去ることも多かった。 「これから会議だから」 「ああ……今、朝なのか」  暖は腕時計に目をやって、バッグを持ち上げた。パスタを食べているおれの背後にきて、後ろから首を伸ばし、軽くキスした。 「行ってくる」  おれは反応しなかったが、暖は気にしていないようで、ドアを閉めて出て行った。靴音が遠ざかっていく。  食欲が湧かない。パスタの表面が乾きはじめている。おれは食事を中断してマットレスに寝転がった。ここのところ体が重くなっている。運動しなくては。  冷蔵庫の底部分の隙間に脚をかけ、膝を曲げた。両手を後頭部に回し、上半身を持ち上げる。胸が膝頭につくまで体を折り曲げ、次は左右に振る。10セットを5回。毎日継続している。  監禁されてからもうすぐ5年になる。紗弓だけでなく、高校時代の友人やアルバイトをしていた店の仲間もおれのことなど忘れてしまっただろう。  ペットだと思っているのか、それとも恋人気分なのか、暖は気味が悪いほどやさしい。逃亡を謀ったり反抗したりしなければ、1日3食与えられ、平和に過ごせる。性行為を求められることは苦痛ではあったが、目を閉じて耐えていれば、母親も高級医療施設でアルコール依存症の治療を受けながら快適な生活を堪能できる。  それでも、おれの心が晴れることはない。胸の奥の影を取り払おうとするかのように、おれはトレーニングに没頭した。汗が噴き出し、心臓が跳ねる感覚が狭まっていく。生きていることを実感できる数すくない時間だった。 【1875日後】  数日前から熱っぽさを感じていた。暖が持ってきた体温計で検温すると、38度を越えていた。 「たぶん、おれが菌を持ちこんだな」  体温計のディスプレイを確認しながら、暖は険しい顔で呟いた。たしかに、密閉された空間で雑菌が入る余地はない。暖から感染させられたとしか思えない。1週間ほど前、暖が咳をしていたときがあった。咳と熱、喉の痛み。症状も似ている。  おれはマットレスの上で布団にくるまっていた。体を丸めて咳き込む。 「ほら、薬飲めよ」  暖の手を借りて上半身を起こし、市販薬の錠剤をミネラルウォーターで流し込んだ。 「なにか食べるか? 消化にいいもの……」 「……ていうか、病院行きたいんだけど」  がさついた声でいった。顔をしかめる。言葉を発すると喉が痛む。再び横になる。暖が布団ごしに背中を摩ってくる。鬱陶しかったが、撥ねのけるのが億劫だった。 「インフルエンザとかかも。頭も痛いし……」 「おれから伝染ったなら、おなじような風邪だと思うけど」 「そんなのわからないだろ。医者でもないのに勝手に決めつけんなよ」  体調の悪さが苛立ちに変わっていた。おれは咳き込みながらいった。 「そうだった。おまえはおれが死んでくれたらたすかるんだよな……」 「今そんなこというなよ」  暖は立ち上がった。狭い部屋をうろつきながらなにか考えている。落ち着いているように見えるが、あきらかにふだんとちがう様子だった。悩んでいるのだ。  千載一遇のチャンスかもしれない。おれは苛立ちを抑え、できるだけ弱々いい声をつくった。 「頼むよ、暖。すごく頭が痛い。寒気もするし、喉も痛い。病院に行くのがだめなら医者を連れてきてくれよ」  暖の人脈と財力があれば、医師を黙らせることは難しくないかもしれない。しかし、この場所をだれかに知らせるチャンスは生まれる。  暖はおれの話を聞いて考えているようだった。おれにとってはチャンスだが、暖にとっては大きなリスクだ。 「なあ、暖……」  おれは精一杯哀れっぽい声を出した。吐きそうになるが、背に腹は替えられない。  暖が振り向く。布団から顔の半分だけ出したおれを見下ろす。腕を組み、指先で小刻みに肘を叩いている。 「暖……」 「わかった」  おれに背を向けて、暖はいった。両手で頭を抱え、ため息を吐いた。 「明日熱が下がってなかったら考える」 「考えるってなにを……」 「とにかく、明日考える」  意外だった。とりつくしまもないと思っていたのだ。おれが病気になろうが死のうが暖には関係ないどころか、むしろ望んでいると思っていた。  力で抵抗し闘って逃げ出すことにばかりこだわっていたが、むしろ反対に、暖の好意を得て懐柔するほうが現実的なのではないか。熱にうかされてぼんやりと霞む頭で、おれは考えていた。 【1877日後】  不幸なことに、翌日には熱が下がっていた。ただの風邪だったらしく、市販の風邪薬で完治してしまった。翌々日には喉の腫れも消え、食欲ももどっていた。  暖に対してはまだ体調が悪いと強調したが、何度体温計をつかっても、平熱以上の結果は出なかった。  おれの回復を暖は喜びも悲しみもしなかった。神妙な顔つきで体温計のディスプレイをにらみつけているだけだった。  そして次の日、暖は大量のサプリメントを持ってきた。ビタミン、ミネラル、カルシウム、鉄分、亜鉛とあらゆる種類がそろっている。 「こっちのケースは毎食後、こっちは朝」  プラスチックの容器も準備されている。暖はサプリメントの袋をひとつひとつ開け、種類ごとに小分けにしていった。几帳面なことに、きちんと名称を印刷したシールまで貼りつけている。おれは呆れ果てて暖の作業を見守っていた。 「それから、これ」  べつの袋から木製の弁当箱を取り出す。野菜の煮物や魚など栄養のバランスが取れた弁当だった。米は五穀米らしい。これまでのピザや寿司とちがって、健康的な食事だった。 「今まで買ってきたものばっかりだったからな。塩分が多かっただろうし、栄養も偏ってた」 「だれにつくらせたんだよ」  あきらかに店で買ったものではない料理を見て、おれは単純に疑問を感じて尋ねた。暖はこともなげに答えた。 「これ? おれ」 「……嘘だろ」  弁当と暖を見較べる。暖が料理をしているところを想像するのはかなり難しかった。 「おまえ料理とかすんの」 「いや、はじめて。レシピ動画見てつくった」  おれの顔を見て、暖は不服げに眉を顰めた。 「ちゃんと味見したって。食ってみろよ」  気がすすまなかったが、箸を渡され、魚の照り焼きを一切れつまんだ。不承不承口に運ぶ。想像していたほど悪くなかった。味つけは薄めだが、焼き加減もちょうどいい。なんでも器用にこなせるようだ。無性に腹が立った。 「うまいだろ」  暖が顔を覗き込んでくる。 「食えなくはない」 「うまいでいいだろ」  暖が笑う。これまでの唇の端を歪めた厭味な笑い方とはちがう顔だった。子どものような邪気のない素直な笑顔だった。思わず視線を逸らした。 「毒でも入れられたら怖えな」 「そんなことするかよ」  わかっていた。暖におれを殺す気はない。しかし、これではまるでおれに生きていてほしいかのようだ。暖がなにを考えているのか、ますますわからなくなって、おれは混乱していた。 【2005日後】  暖は料理に目覚めたようで、めきめきと腕を上げていった。もともと凝り性なのだろう。徐々に品数も増え、手間のかかったメニューも増えた。食材にも金をかけているのだろう。数カ月とたたないうちに、高級店のものと遜色ない料理が並ぶようになった。  おかげでおれの体調はすこぶるよく、体も軽くなっていた。しかし、この調子では病気を口実にするのは難しい。おれの体調を管理することに固執するがゆえにここまでやってのける暖の執念に、不気味なものを感じていた。 「起きてたか」  ドアを開け、暖が入ってくる。おれはまだ布団のなかだった。 料理をつくるようになって、暖がくる頻度も増えた。毎朝その日の食事を運んでから出勤しているようだ。その代わり、朝が早くなったようで、以前のように深夜までやりまくって朝まで寝てそのまま仕事へ向かうということはほとんどなくなった。おれにとっても、一晩中犯されるよりも規則正しい生活と健康的な食事を与えられるほうがいいに決まっている。 「今日はガパオライスつくったから、昼はこっち食え。夜はこっちの箱。スープはこれ」  三食ぶんの食事が入った容器を冷蔵庫に入れる。おれはマットレスに寝そべったまま生返事を返した。どうせいつもどおりすべての容器にきっちりメモが書かれているのだ。間違えようがない。 「聞いてんのか、俊介」 「ん……水」  おれは半分寝ぼけて、ベッドから腕だけを突き出した。 「自分で取れよ」  文句をいいながらも、暖が冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。ペットボトルを受け取る瞬間、香水の匂いが鼻を通り抜けた。  ここ数カ月、おなじ香水の匂いをつけてくることがあった。今日もおなじ匂いだった。どう考えても男がつける種類ではない。仕事に関わる相手かと思ったが、朝の出勤前となるとプライベートな関わりと考えるのが妥当だろう。  男のほうが好きといってはいるが、女と行為ができないわけではない。そういう相手がいたとしても不思議ではなかった。 「なんだよ」  おれの視線に気づいた暖が眉を寄せる。 「べつに。早く仕事行けよ」  性的指向についても過去の経験についても、事実かどうか疑っているわけではない。ただ、どちらでもいいとは思っていた。いずれにしても、おれには関係ない。 【2030日後】  就職して1年半。暖はあっさりと会社を辞めた。どうやら市議選に出馬するらしい。既定路線だったようで、退職から選挙の準備まで滞りなくすすんでいるという。市議選はスタートラインに過ぎず、いずれは国政の場にも乗り出すつもりなのだろう。  週末、暖はいつもより大荷物でやってきた。着替えが入った袋に仕事用のファイルまで持参している。 「なに、泊まんの」 「そう。嫌か?」 「嫌に決まってんだろ」  おれはあからさまに顔をしかめた。  暖のスーツからはいつもの香水の匂い。男を監禁して性奴隷にしていることを知ったら、香水の持ち主はどう思うだろうか。 「選挙で忙しいんだろ。帰れよ」 「冷たいな。最近構ってやってないから、たまには時間つくろうと思ったのに」 「キモいこというんじゃねえ。殺すぞ」 「はは。とりあえずメシ先にするか?」  こういういいかたをするときは、すなわち食事の後にセックスするということだ。おれはため息をついた。すっかり慣れたとはいえ、やはり憂鬱であることにはちがいない。  食事を済ませ、セックスして、3時間後にはマットレスの上に並んで寝そべっていた。暖が差し出す煙草を受け取り、肺に煙を入れ、吐き出す。  はじめのうちは触れられるたびに嫌悪感で吐き気を催した。今となっては、歯を磨いたり髪を梳かしたりする作業と変わらない、日常のひとつになっていた。慣れというのはおそろしいものだ。 「おまえ、マジで帰れよ。忙しいんだろ」 「忙しいからだよ。ここだとよく眠れるから」  冗談にもほどがある。自宅がどんなところか知らないが、ここより快適であることは間違いない。おれの表情を見て、暖が笑う。 「ほんとだよ。ここでだけ熟睡できる」  煙草の煙を吐き出しながら、暖は独白のようにいった。 「ほかの場所では息が詰まるだけだからな」 「ここだと気楽ってか」  全裸で煙草を吸いながら、おれは自嘲気味に笑った。 「おれが逆らえないってわかってるからだろ」 「外でもだれも逆らわない」  暖は右手で煙草をつまみ、左手でおれの背中に指を這わせている。肩甲骨から背骨へと滑らせ、指先で肉を圧す。性的な意味があるものではない。単なる暇つぶしだ。 「最近ちょっと太ったんじゃないか」  背中から腹に手を回し、暖がいう。 「しょうがねえだろ、トシなんだから」 「まだ若いだろ」 「若くない、もう」  実際、暖が食事をつくるようになってから、あきらかに太っていた。体重計に乗ったわけではないが、見た目も変わっているだろう。ほんの数キロのはずだが、さすがに全身べたべた触って確認しているだけあって、すぐに気づいたようだ。 「いいんじゃないの。こういうふわふわした感触、おれ好き」  脇腹の肉を軽くつまんで、暖がおれの肩に顎を載せる。 「うるせえ。厭味いってんじゃねえ」  身を捩って避け、立ち上がった。全裸のまま冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを飲む。 「おまえみたいにジムでトレーニングできたら筋肉だってつけられるんだよ」 「怒んなよ」  暖が上半身だけ起こして首を窄める。 「なにイライラしてんだよ」 「べつにイライラしてねえよ。おまえがずっといるのが嫌なだけ」  振り向かずにいって爪先で冷蔵庫のドアを閉める。思いがけず大きな音がした。 「……もういい。わかった。そんな嫌なら帰るわ」  暖が大きくため息をついて立ち上がる。気怠い手つきで服を着る。 「服とかちゃんと持って帰れよ」 「わかってるよ。いちいちめんどくせえな」  暖が勢いよくドアを閉める。おれは脱ぎっぱなしにしていたシャツをつかんでドアに向かって投げた。シャツは空中を舞って、ドアにたどり着く前に床に落下した。苛立ちが増しただけだった。  コーラの空き缶、煙草の箱、ペットボトル、手の届くところにあるものを手当たり次第ひっつかんで投げた。ペットボトルの蓋は完全に閉まっていなかった。ドアにあたって床をバウンドし、中身が散乱した。 「くそっ……」  足の踏み場もなくなった部屋の中心で、おれは膝を抱えた。 【2072日後】  市議選の選挙活動がはじまり、暖は文字どおり寝る暇もなく駆け回っているようだった。圧倒的な組織票を持ち、父親や周辺の有力者からのバックアップを受けているからには、まず当選間違いなしというところだろうが、とはいえ、初の選挙で手を抜くわけにもいかないのだろう。  食料の補充や掃除のために足を運びはするものの、おれが寝ている間に済ませて気づかないうちに出て行くことがほとんどだった。  性行為も強要されることなく、楽ではあったが、いっぽうで、おれはなんとなく不安になっていた。  すこし前に口論になってから、暖はまったくおれを一言も口をひらこうとしない。おれからも話しかけなかった。翌日にはいつものように軽口を叩いてくるものと思っていた。単に忙しくて余裕がないだけかもしれないが、もしかするとおれへの興味を失ったのかもしれない。  喜ばしいことではあったが、同時に、危機感も抱いた。暖は殺人を犯したくないからおれを殺さないといった。額面どおりに受け取ることはできないにしても、今のところはおれを放置して衰弱させるつもりはないようだ。しかし、立場が変われば状況も変わる。  暖はおそらく選挙に当選するだろう。政治家になれば自由に動ける時間が制限される。スキャンダルを狙う連中も増えるかもしれない。そうなればおれの存在がリスクに変わるかもしれなかった。  思ったよりも残り時間はすくないのかもしれない。永遠にこのままでいられるはずもない。おれは膨大なひとりきりの時間をつかって考えを巡らせた。  体調を崩して寝込んだとき、唯一暖の態度が軟化した。詐病が通じるかはわからないが、試してみる価値はあるだろう。しかしそう考えると、今の状況はいいとはいえない。体調不良を理由に医者を呼ばせるなり外部に連絡を取るなりするためには、暖がおれの身を案じることが条件だった。 不愉快ではあるが、自分の身を守り、逃亡を現実にするためには、ある程度暖の機嫌を取っておいたほうがいいだろう。 そしておれはこの日、考えてきた作戦を実行することにした。 「なあ」  思いがけず声をかけられて驚いたのか、暖は掃除をしていた手を止めた。 「なに」 「ちょっと話せるか」  おれはできうる限り穏やかな声をつくっていた。暖は振り向きもせず再び手を動かしている。 「ごめん。5分で出ないといけないから」 「5分でいい」  おれはマットレスを降り、立ち上がった。テーブルの上を拭いている暖の背後に立った。  おれの気配を察知しているはずだが、暖は無反応だった。無視されていることに苛立ったが、態度には出さなかった。代わりに、昨日ひと晩かけて考えた動作を実行した。  短く息を吐く。覚悟を決めて、一歩足を踏み出す。  暖の背中に額をあてた。触れるか触れないか。厚手の背広に隔てられて、体温を感じることはできない。しかし、暖の背筋が一瞬震えた。はっきりわかった。反応は予想とは異なっていた。  暖がゆっくり体の向きを変えた。目の前に暖のネクタイの結び目。喉仏が蠢く。  暖の左手がおれの右頬に触れる。ふだんなら顔を背けて逃げるが、この日は反対に自分の右手を暖の左手に添えた。何度も頭のなかで繰り返し予習した。うまくできたと思った。しかし、ひとつだけ、まったく予想していなかったことに気づいた。いつもとちがう……直感にちかい違和感。  おれは暖の手をつかんだ。互いの顔の間に持ってくる。暖の左手の薬指には無色透明の石が埋め込まれた指輪が嵌まっていた。  暖が咄嗟に手を引いた。おれの視線から隠すように背広のポケットに突っ込む。ふだんの暖なら、そうはしなかったはずだ。隠すなど、馬鹿のやることだ。 「おまえ……結婚すんの?」  想像もしていなかった。思わず尋ねた。  暖は無言で視線を逸らした。その態度に、おれは愕然とした。婚約指輪だと思った。ちがった。聞き直した。 「結婚してんの?」  暖はまだなにもいわない。もう演技はできなかった。声が震えた。 「いつ」 「……去年の夏」  足が震えた。衝撃で舌が縺れた。 「おまえ、男が好きなんじゃなかったの」 「そうだけど、それは……」 「嘘ついたのかよ」  無意識に責める口調になっていた。暖が素早く首を振る。 「ちがう」 「おれにいわなかったじゃねえかよ」 「聞かれなかったからいわなかった。嘘はついてない」 「屁理屈いってんじゃねえよ」  おれは両手で暖の胸を突いた。ふだんならびくともしない。このときは後ずさってテーブルの端に腰をぶつけた。離れようとするおれの腕をつかんで、暖が早口に弁解する。 「ちょっと待てって。今説明するから」 「なんの説明だよ」  振り払おうとしたが無駄だった。どうせこの部屋のなかで逃げる場所などない。話を聞きたくなければ耳を塞ぐしかなかった。そのための両腕は暖にしっかり拘束されている。 「離せって、この……」 「いわなかったのは、おまえが怒ると思ったから……」 「怒ってねえよ」 「怒ってるだろ」 「怒ってねえって。なんでおれが……」 「父親に棄てられたと思ってるんだろ」  想定していない言葉に、おれは戸惑った。予想すらできないことばかりが立て続けに起きて、パニックに陥りかけている。 「思ってるんじゃない、事実なんだから」 「ちがう」  暖ははっきりいった。おれは眉を顰めて暖を見た。 「おまえ、おふくろになんか聞いたのかよ」  抑えていた苛立ちが怒りに変わった。 「おふくろと話すなっていっただろ。なんでおまえはおれが……」 「愛情はない」  おれの言葉を遮って、暖がいう。まっすぐにおれの目を見て、いった。 「相手は資産家の娘で、親同士で決められてた。家柄がよくても、うちにはそれほど軍資金があるわけじゃない。相手は地元の建設業の成金で、うちとは反対に家柄を欲しがってた。互いの目的が一致しただけの政略結婚だよ。よくある話だろ」 「ねえよ。いつの時代だよ」 「いっただろ、おまえにはわからないんだって」 「どうせおれにはわからねえよ、金持ちの都合なんか」  吐き棄てるようにいった。暖の手から逃れようと暴れた。足が暖のスーツの脛を蹴り、一瞬拘束の手が緩んだ隙に抜け出した。シャワースペースの隅に駆け込み、しゃがみこんだ。逃げ場がないのはわかっていたが、最大限の距離を取りたかった。とにかく暖から離れたかった。 「……悪かったよ」  暖が呟く。暖が謝ったのははじめてだった。 「黙っててごめん」  ふだんなら噴き出すような殊勝な態度。暖は親に叱責された少年のように肩を丸めていた。まるで本気で悪いと思っているようだとおれは思った。かえって苛立ちが増した。 「どうしたら許してくれる?」 「うるせえ。こっちくんな」  足を踏み出しかける暖を牽制した。暖は素直に動きを止め、そのままの姿勢でおれを見ている。まるで主人の命令を待つ飼い犬だ。  怒っているわけではない。怒る理由がない。ただ、暖に触れられるのが嫌だった。これまで以上に。絶対に触られたくなかった。 「おまえがしてること、奥さん、知ってるのかよ」 「知るわけない」 「そりゃそうだよな」  おれは壁に背中を擦りつけながら暖をにらみつけた。 「家でもセックスしてんのか」  暖は答えない。肯定したのとおなじだった。おれは笑った。 「父親とおなじだな。家族に内緒で地下室でやりまくってる。おまえの子どももその子どももみんなここにだれかを監禁してレイプするんだろ」 「子どもはつくらない」  暖がいった。張り詰めた声だった。 「子どもなんかつくれない。おれで終わりにする」  暖の目の奥は暗かった。生きている人間のものには思えなかった。  苛立ちを超えて、無感動になっていた。おれはバスルームのタイルの上で膝を抱えた。 「帰れ」  それだけをいった。暖はなにかいいたげに口をひらいたが、けっきょくは黙り込んだ。そのまま踵を返し、出て行った。 【2200日後】  暖は市議選に当選したらしい。直接聞いたわけではないが、スーツの胸に議員バッヂをつけるようになった。結婚指輪とちがい、隠す気はないようだ。  再び一言も会話を交わさなくなるようになり、1カ月が経過した。正確にいうと、おれが一方的に無視している。はじめのうちは話しかけようとしていた暖も、諦めたのか、なにもいわずに食料や必要なものを置いて帰るだけになっていた。  おれはもう暖の機嫌を取ろうとは考えなくなっていた。むしろ、徹底的に拒絶していた。この1カ月、シャワーを浴びず、歯も磨かず、服も着替えていない。髭が顔の半分を覆い、全身から悪臭を漂わせている。  頭を搔いた。こまかい雲脂がさらさらと落ちてマットレスに点を残した。雪のようだと思った。まだ祖母が生きていた頃、母の実家に遊びに行ったことがある。はじめて見た雪は美しかった。もう何年も目にしていない。  母はどうしているだろう。母に会いたいと思った。今の息子を見たらどんな顔をするだろうか。  異臭には比較的すぐに慣れたが、体の痒みにはいまだに悩まされる。爪の間に垢が溜まり、指先が黒ずんでいる。伸びた爪で肌を引っ掻くためにあちこちに擦り傷ができていた。  こんなことに意味はないのかもしれない。しかし、暖はおれに近づこうとはしなかった。たとえ怒りに身を任せても、欲望に煽られたとしても、この状態では食指が動くことはないだろう。防衛のためと、抵抗でもあった。おれにできる唯一の反抗。  食事は最低限口をつけたがほとんど残した。暖はなにもいわずに余った食事と容器を持ち帰った。室内の悪臭にもおれの状態に対してもなんの反応も示さない。おれへの関心を失ったかのようにも見える。それでも構わないと思った。暖がある日突然こなくなっても、あるいはもっと直接的な手法でおれを排除しようとしたとしても、おれに止められるものではない。  政治家の道を歩みはじめ、伴侶も得た暖の社会的立場はこれまでとちがう。いずれはおれやこの部屋が邪魔になるだろう。終わりは必ずくる。どんなかたちであれ。  マットレスの上で寝返りを打った。眠りたいが、肌の痒みが気になって眠れない。何度も体勢を変え、伸びた爪の先で腕や足を搔きながら、眠りの尾をつかもうとしていた。  ようやくまどろみはじめたとき、ドアが開く音がした。いつもどおり、マットレスに寝転んだまま、無視を決めこんだ。いつもなら、必要なものだけを置いてそのまま立ち去るはずだった。しかし、暖はなにも持ってこなかった。ドアからまっすぐおれのところへきた。背後で暖がしゃがみこむ気配がした。それでもおれは動かなかった。目を閉じたまま、眠ってしまいたいと思った。そうできないことも知っていた。  暖の手が伸びてくる。体に触れる直前に避けた。狸寝入りではない。演技する必要はなかった。おれは暖に背を向けたまま体を丸め、全身で拒絶を表現していた。毛穴という毛穴から嫌悪感が噴き出しているように錯覚するほどだ。  おれの意思を察してか、暖はそれ以上近づかなかった。ただじっと床に座っている。視線だけは背中に感じていた。  どれほどの時間、互いに動かずにいただろうか。沈黙に耐えられなかった。眠ることもできず、動くこともできない。おれは丸まった姿勢のまま、壁に向かっていった。 「いつまでいるんだよ」  返答はない。おれは焦れてもう一度いった。 「帰れよ。待ってるひといるんだろ」  自分自身でさえかろうじて聞こえる程度のボリュームだった。 「だれもいない」  おなじように静かに、暖がいった。 「離婚した」  なにをいわれようと、なにをされようと、目を瞑り、無視を続けると決めていた。しかし、おれは目を開けた。ゆっくり起き上がった。 「なに?」  暖は床にあぐらをかいて座っていた。若手政治家らしい濃い藍色のスーツを着て、胸には議員バッヂが光っている。 「……今、離婚って」 「別れた。今日、届けも出してきた」  暖の表情には感情がない。おれは戸惑い、眉を顰めた。すぐには言葉が出てこなかった。暖は構わずにしゃべり続ける。 「ほんとはもっと早くと思ったんだけど、なかなか同意が得られなくて……」  どうすればここまで心を殺せるのか。暖はまるでなにも感じていないようだった。しかし、肌は乾燥し、目の周辺は落ちくぼんで、あきらかに疲弊していた。俯き、膝の上で指を組んで、突然10も20も老けたような暖を、おれは呆然と見つめていた。  おれの視線に気づいたのか、暖が顔を上げた。視線が絡む。目を合わせたのはいつ以来だろうか。おれたちはしばらくの間見つめ合ったままなにもいわなかった。  今度は暖のほうが先に沈黙を破った。目を逸らしながらいった。 「勘違いするなよ。おまえのことは関係ない。最初から無理があった」  わかっていた。責任を感じる必要などない。おれはマットレスを降り、後ろ向きに尻をずらしながら後ずさった。背中が壁にあたり、膝を抱える。狭い部屋の両端で、マットレスを挟んでおれたちは向かい合っていた。  再び沈黙が流れた。暖が足首を返して膝を立てた。 「こっちくんなよ」  おれは即座にいって、壁づたいに移動した。足首の鎖をじゃらじゃらいわせながら部屋の隅までたどり着く。暖はその場から動かずに視線だけで追いかけてきた。 「俊介」 「うるせえ。黙ってろ」  おれは壁に背中と右半身を圧しつけ、膝を折り曲げた。両股をしっかりくっつけて、顔を埋めた。何日も履いたままのスウェットからは饐えた匂いがした。両手で頭を抱え、首の後ろで指を組んだ。手首が耳を塞ぐかたちになった。目を閉じると、なにも見えず、聞こえない。おれは貝のようにすべてを遮断した。なにも感じたくなかった。それなのに、暖が近づいてくる気配がわかる。ほとんど音を立てず、床を滑るようにして数センチずつ距離を縮めてくる。洞窟のなかの蝙蝠のように、間にある空間が狭くなっていくのを肌の表面に感じる。  暖の吐く息が掠めるほどの距離になったとき、おれは動いた。壁の反対側へ逃げようとした。うまく隙をついたと思った。しかし、足首に繋がった鎖をつかまれた。暖が鎖を引いて、おれはつんのめった。マットレスに俯せに倒れる。不意をつかれて受け身を取れず、額をマットレスに圧しつけた。床だったら顔面を強かに打ちつけていただろう。マットレスが衝撃を吸収した。  仰向けになって起き上がろうとするおれを暖が押さえつけた。折り重なって縺れ合う。暖の手がシャツの裾を捲る。 「やめろ。さわんなよ」 「さわりたい」 「嫌だって……」 「なんで」  おれの耳の裏に唇を寄せて、暖が囁く。淡々としてはいたが、欲望を伴っているのは明白だった。暖が息を吸い込む音が聞こえて、おれは顔を紅潮させた。 「さわったらだめな理由いえよ」 「それは……」  声が上擦る。 「おれが嫌だからに決まってんだろ」  理由になっていないのはわかっていた。拒絶しない契約だ。これまでも嫌々ながら受け容れてきた。  暖が下腹部をおれの股に圧しつけてくる。物理的な欲望を示され、おれは狼狽した。慌てていった。 「おまえこそなんでだよ」 「なにが」  暖の声に熱い息が混じっている。おれは身を捩った。体の向きが変わり、意図せず暖と正面から顔を合わせるかたちになった。うまく焦点が合わないほどの距離で、暖がおれを見つめている。 「男でも女でもだれでも抱けるだろ。なんでおれなの」 「おまえしか抱きたくない」 「だからなんで……」  暖の視線から逃れようとしておれは眼球を揺らした。洗っていないせいでべとつく肌を暖が掌で擦った。 「やめろって。汚い……」  無精髭に覆われた顎を暖が舐める。舌が熱い。興奮している。 「変態かよ、おまえ……」 「いまさら……」 「じゃなくて……」  おれは暖の体重を圧し返せず、マットレスの上で足をばたつかせた。 「今のおれでその気になれるの、おかしいだろ」  掃除の徹底ぶりや乱れのない着衣などから、暖は潔癖症に近いのではと思っていた。だからこそ不潔にしていることで拒否しようと考えたのだが、どうやら甘かったようだ。暖は完全にスイッチが入った状態だった。息を荒くして、垢と汗にまみれたおれの体をまさぐっている。  顎をつかまれ、くちづけられた。暖が愛用しているブレスケアミントの味が腔内に拡がる。おれのほうは何日も歯を磨いていない。 「ちょ、暖……」 「おかしくない」 鼻先を擦れ合わせながら、暖はおれの目を見た。 「どういう状態でもおれはおまえが……」  不自然に言葉を切って、口を開いた状態のまま暖はおれを見つめ続けている。 「……おれがなんだよ」 「いや……」  暖は視線を逸らした。早口にいった。 「おまえのこと、べつに汚いとかは思わない」  やはり汚いものに興奮する性質なのではないだろうか。そう思いながら、おれは暖の胸に掌を圧しあてた。油断していたらしく、今度は案外簡単に圧しのけることができた。 「なあ、待てってば」  右手で服の乱れをなおし、もう片方の手を暖のほうに突き出して見せ、おれは慌てていった。 「なんだよ。約束だろ」 「わかってるよ。やらせないとはいってない。ただ……」  どう説明すべきか判断に迷った。おれのほうもかなり混乱している。 「恥ずかしいんだよ。わかるだろ」  頬が熱い。紅潮した顔を隠すためにまた膝を抱えた。 「明日……」 「え?」  さすがに声が小さすぎたようだ。暖が顔を近づけようとするのを遮って、おれはもう一度繰り返した。 「明日ならいい」  暖がおれを見ている。視線を返すことができなかった。 「……わかった。明日だな」  一度口にしたものを引っ込めるわけにもいかず、おれは頷いた。 「じゃ、明日またくるから……準備しとけよ」  頷くしかなかった。暖が立ち上がる。皺の寄ったスーツを気にしながら、床に落としたバッグを拾い上げる。 「俊介」  顔を上げると、暖がおれを見下ろしていた。なんとも形容しがたい眼差しだった。 「なんだよ」 「いや……なんでもない。明日な」  暖がドアを開ける。一度姿を消しかけ、もう一度もどっておれのほうを指さした。 「逃げんなよ」  どこに逃げられるというのか。ドアが閉じる音を聞きながら、おれはマットレスに顔を伏せた。 暖がなにをいおうとしたのか、自分がなにをいいたかったのかわからなかった。おれは汚れたマットレスに額を擦りつけながら、再び頭を抱えた。 【2201日後】  1カ月ぶりにシャワーを浴び、服を着替えて、歯を磨いた。髭を剃り、すっきりすると、突然、生きているという実感が湧いてきた。  奇妙なものだ。だれにも知られず、だれにも影響を与えず、影響を受けず、死んでいるのとほとんど変わらないというのに、体を洗い、身を整えるだけで、生きて存在していると感じる。  ドライヤーはなく、タオルで髪を拭って自然に乾燥させる。最後に髪を切ったのはいつだったか。いつの間にかかなり伸びていて、濡れた毛先が首に纏わりつく。  暖に髪を切られるときのことを思い出した。うなじを掠める指先。こめかみをくすぐる息。  指の腹で首の皮膚を擦る。肩口に鼻先を寄せてみる。ボディソープの匂いがした。体臭は消えていた。  マットレスはまだ汚れているが、暖が替えを持ってくるだろう。髪を拭いながら、おれは裸足で床を歩き回っていた。  落ち着かない気分。暖は不定期に足を運んでおり、前もって予告することはあるが、基本的には突然やってきて好き勝手に犯し、気が済んだら帰っていく。こんなふうに、いつなにをされるのかわかっている状態で待っているのははじめてだった。  べつに待っているわけじゃない。壁沿いを何度も往復しながら、おれは心のなかだけで呟いた。  暖を待っているというわけではない。逃げられないだけだ。体の自由を奪われ、母親を人質に取られて心も捕らわれている。  右往左往しているのに飽き、床の上にしゃがみこんだ。足首に嵌まった拘束具とそこから伸びる鎖を確認する。金属製の鎖は時間の経過とともに痛んでかなり錆びていたが、壊せるかといえばそれは無理だろう。  身動きすると、鎖が床上を滑って神経質な音を立てる。暖がおれの上で動くとき、おなじ音を立てる。ただしもっと烈しく、もっと甲高い。  体の熱が上昇していることに気づき、再び立ち上がった。あと数時間もすれば暖がここへくるだろう。そしてまた音を立てる。鎖が床の上でバウンドするあの不愉快な音。想像したくはないが、他に考えることがない。  両掌を壁につき、下を向く。前髪の先から滴が落ちるのを見つめた。熱を鎮めようと深呼吸したが、うまくいかなかった。  思い出すまいとするが、快感が体の奥まで刻み込まれ、消すことができない。  いつもそうだった。体が心を裏切って反応してしまう。生物としてしかたないと達観することはできなかった。今も、暖に触れられる感触を思い出しただけで、体の奥が痺れる。  うめき声のようなため息とともに、座り込んだ。体の向きを変え、壁に背中を預けて両脚を投げ出す。股の間がじくじく疼いている。  いっそのこと早くきてくれればいいと思った。さっさと済ませてしまえば、すくなくとも今のような背徳感からは逃れられる。  しかし、暖はいつまでたってもあらわれなかった。時計がなくても、何時間も経過していることはわかる。おそらく夜になっているはずだが、ドアが開くことはなかった。  なにをされるかを考えれば、安堵すべきだった。だが、おれは苛立っていた。逃げるなといっておきながら、なんのつもりなのか。それとも、故意に焦らして楽しんでいるのか。  べつに待っているわけじゃない。こないというのならそのほうがいいに決まっている。それでも、おれは落ち着かない気分で部屋を歩き回っていた。気を紛らわせようと腹筋や腕立てと運動をしてみたが、苛立ちが増しただけだった。  なぜ暖に振り回されなくてはならないのか。暖のことを考える時間が長ければ長いほど、惨めさが募った。  ほとんど自暴自棄になって体を動かしていた。気づくと汗だくになっていた。  服を脱いだ。シャツを丸めて放り投げる。汗を吸った布の塊が壁にあたって落下し、かたちを崩した。汚れた雑巾のように無様に拡がっている布が自分自身のように思え、視線を逸らした。  全裸になり、今日3度目のシャワーをつかった。水のまま浴びて、体の熱を冷ます。  しばらく運動していなかったためか、疲労が烈しかった。筋肉が悲鳴を上げている。脇腹に手をやる。すこし前に暖に指摘されたように、わずかだが贅肉がついていた。暖がしたように指でつまんでみた。陰鬱な気分。  暖は約束を反故にする気だろうか。必ずくるといったのは嘘だったのかもしれない。おれだけを抱きたいといったのも、汚くても気にならないといったのも、この腹の肉のさわり心地が好きだといったのも、すべて嘘だったのかもしれない。 「くそ……」  思わず呟いた。信じていたわけではない。暖の言葉を信用したことなどなかった。それなのに、腹が立ってしかたがない。  そのとき、背後で音がした。鍵が回る音。そしてドアが開けられる音。  おれは振り向かなかった。拗ねているわけではないが、素直に応対する気になれなかった。シャワーを浴びたまま、振り向かずにいった。 「いくらなんでも遅すぎだろ」  舌打ちする。反応はないが、背後に気配を感じる。  ドアが閉まる音。床を叩いて靴音が近づいてくる。平然と行為に移ろうという気なのだろうが、そう簡単にはいかせない。おれはシャワーを止め、全裸のまま体を反転させた。 「どんだけ待たせんだよ、おまえ」  振り向き、立ち竦んだ。  なにが起きているのか、わからなかった。  男が立っていた。暖ではない。知らない男だった。年齢は50くらいか。白髪で、上質なスーツを着ている。胸には議員バッヂ。背格好も着衣も暖に似ていて、一瞬、暖かと思った。しかしちがった。  まったく想像していなかったことに、すぐには反応できなかった。一瞬置いて、おれは叫んだ。 「助けてください!」  全裸でずぶ濡れの状態であることも忘れ、おれは来訪者に駆け寄った。 「お願いします、警察呼んでください! 監禁されてるんです!」  鎖に引き留められ、おれはつんのめった。床の上に倒れる。男のスーツの裾をつかもうと手を伸ばしたが、男が後ずさったために届かなかった。  おれの勢いに驚いたのかもしれない。どういう理由か知らないが、ここにおれがいるとは知らず、戸惑っているのだろう。おれは逸る気持ちを抑えて必死に訴えた。 「信じられないかもしれないけど、本当です。もうずっと……何年もここに閉じ込められてるんです。携帯持ってますよね。警察を……」  顔を上げ、言葉を切った。男がおれを見下ろしていた。夜道の繁華街で道路に飛び散った吐瀉物を見るような眼差しだった。ぞっとした。  男が舌打ちした。おれの髪から散った水滴を拭うために、革靴の足を雑に振った。野犬に小便でも引っかけられたかのようなしぐさだった。 「馬鹿が」  男が一言いった。氷のように冷たい声だった。 「あの……」  男はもうおれを見なかった。迷いなく踵を返し、乱暴な手つきでドアを開ける。 「ちょっと待って……待てよ、おい!」  おれは男の背中に向けて必死に叫んだ。 「行くなよ! なあ、置いてくなって! 助けてくれよ! 助けて!」  男が振り返ることはなく、無情にもドアが閉まった。大股な足音が遠ざかっていく。 「助けて……」  全身の力が脱け、へたりこんだ。 「助けてくれ……」  何度も繰り返しながら、おれは泣いた。どれだけ叫んでも、だれも聞いてくれない。おれは打ちのめされ、立ち上がる気力さえ失っていた。 【2202日後】  ドアが開いた。入ってきたのは暖だった。ふつうの状態ではない。ネクタイが緩み、髪が乱れていた。顔は蒼ざめ、表情は緊迫している。 「あ……」  入ってきたのがあの男でも警察でもなく暖だったことに、おれは落胆した。しかし、同時に安堵してもいた。 「俊介。だいじょうぶか」  おれはまだ服を着ていなかった。裸のおれを暖は力強く抱きしめた。 「暖……」 「わかってる。なにもいうな。おれがなんとかする」  昨日のことを暖はすでに知っているようだった。それは、ここにきた男がだれかを明白にしていた。 「やっぱ父親か……」  暖を除いて、この場所を知る人間はひとりしかいない。背格好だけでなく、面差しも、今思えばどことなく暖に似ていた。他者を見下すような眼差しや感情が欠落した冷たい声も。  暖以外の人間がここへくることを何度も夢見ていた。希望を持っていたのに、実際には最悪な状況が増えただけだった。ようやく解放されると歓喜に震えた一瞬を体験しただけに、失望も大きかった。 「で?」  抵抗する気力もなく抱き竦められながら、おれは投げ遣りにいった。 「どうすんだよ。おれを飼ってること、内緒にしてたんだろ」  暖がおれの顔を見る。頬に手が触れ、おれは顔を背けた。 「どうなるんだよ、おれは」  あの父親の様子を見る限り、警察への通報はおろか、おれを外に出す意思があるとは思えない。おれの存在は父親だけでなく家族にとってリスクでしかないはずだ。 「心配しなくていい。おれがなんとかするから」 「なんとかって?」  笑いがこみ上げた。暖が持つトラウマを知っているからこそ、信じることはできなかった。 「おまえがどうなんとかすんだよ。父親を黙らせきれんの? それともおれを処分するか?」 「そんなことしない」 「信じられるかよ、おまえがいうことなんか」  おれは暖の手から離れ、服を着た。濡れた体で何時間も床に寝ていたせいか、体が冷え、筋肉が痛んだ。顔をしかめて下着を履き、洗濯されたパーカーを頭から被った。襟から頭を出すと、暖が背後から抱きしめてきた。 「おまえに嘘をついたことは一回もない」  暖の言葉はおれの耳朶を掠め、脇を通り過ぎて霧散した。 「いい加減にしろよ」  胸の前で交差する暖の腕をつかみ、おれはため息をついた。 「嘘ばっかじゃん。最初からずっと」 「ちがう」 「じゃなんで昨日こなかったんだよ」  顔の横で暖が戸惑う気配がした。 「それは……」 「おまえがくるっていったから、おれは……」  言葉が途切れた。なにをいいたいのか、自分でもわからなかった。 「……おれのこと待ってたのか」 「待ってねえよ。ただ……くるっていったのにこないから……」  体を包む力が強くなって、おれは自分が震えていることに気づいた。暖の父親の眼。おそろしい眼だった。ほんの一瞬だったのに、まだ怖くてたまらない。暖が高校の頃に実の父親にされたことを思い出した。どこかでつくり話ではないかと疑っていたが、おそらく真実だろうと思えた。それほどに感情のない機械のような冷たさと独裁者の威圧感を伴っていた。本能的に嫌悪と恐怖をおぼえた。暖に感じる嫌悪感とはまったくべつのものだった。これから自分がどうなるのか、想像するだけでおそろしかった。無意識に、暖の腕をつかむ手に力をこめていた。 「俊介」  暖がおれを抱きしめる。強い力だった。その力がかろうじておれを正気にさせていた。 「だいじょうぶ。あいつにはなにもさせない。ここにもこさせない。約束する」 「……どうやって」 「おまえは知らなくていい」  まだ聞きたいことはあったが、唇を塞がれて言葉が出なくなった。暖はおれをきつく抱きながらキスを深めた。熱い唇だった。 「暖……」 「いいから。なにもいうな」 「けど、もし……」  もう一度キスされた。今度はごく浅く、素早く離れていった。 「心配しないで待ってろ」  おれの目をまっすぐに見て、暖はいった。有無をいわせない口調だった。  きたときとおなじように慌ただしく、暖は去っていった。再び静かになった部屋のなかで、おれは途方に暮れていた。次にドアが開くとき、そこにいるのがだれなのか、考えていた。 【2203日後】  ドアが開いた。振り向くと、暖がいた。自分でも驚いたが、暖の姿が目に入った瞬間、ほっとしていた。父親でなかったことに安堵したのだろうが、それにしても、暖がきてうれしいと、一瞬でも思うとは。笑える。  暖が無言で抱きついてきた。昨日とおなじように強い力だったが、その種類がちがっていた。母親に縋る子どものような無心さがあった。 「暖……」 「終わった」  おれに言葉を発する隙を与えまいとするかのように、暖はいった。 「あいつはもうおまえになにもできない。おれにも」  暖がおれの肩口に顔を埋め、言葉が直接骨に響くようだった。 「どういう意味だよ、それ」 「おまえは知らなくていい」 「知らなくていいって、だって……」  おれは暖の肩に手を張って引き離した。暖の目を見つめ、聞いた。 「おまえ、なにしたの」 「おまえには関係ない」  暖は表情を変えなかった。体の芯から凍えるような寒気を感じた。 「まさか……殺してないよな?」 「まさか。そんなことするわけない」 「だって……」  あのときはあの男を車で轢き殺しただろう。言葉に出そうとしたが、音にならなかった。 「とにかく、おまえはもうなにも心配しなくていい。全部解決した」  暖が早口にいう。もうなにも答えないという強い意思表示だった。 「俊介」  混乱しているおれの手をつかんで、暖が静かに囁く。 「あいつがきたことは忘れろ。おまえがなにか思うようなことじゃない」 「でも……」  暖がどんな方法で父親を黙らせたのか。考えずにはいられない。頭のなかを駆け巡る想像はどれも吐き気を催すような陰惨なものばかりだった。 「あの男がどうなっても、それはおまえには関係ない。自分が蒔いた種だ」  暖の声は冷たかった。暖の父親の声や眼差しに似ていた。 「おまえだって……」  襲いかかる恐怖を振り切ろうとして、おれはあえて作為的に強い言葉を選んだ。 「おまえだって、ひとのこといえないだろ」 「おれ?」 「父親と変わらないことしてる。おまえもおなじだと思わないのかよ」  暖の表情がわずかに強ばる。しかし狼狽したのは一瞬だけで、すぐに表情から消えた。 「たしかに、おれも罪を受けるべきだな」  おれの手を離して、暖はいった。乱暴な手つきで自分の髪に指を入れ、頭を振った。セットが乱れ、前髪が垂れて、暖の表情を隠した。 「わかってる。おれは死んだほうがいい人間だって」 「……なんだそれ」  おれはうなだれる暖を冷ややかに見た。自分がしたことを忘れて被害者ぶるような態度に、無性に腹が立った。 「高校3年の夏休み、ここにいたときから思ってた」  暖は下を向いたまま独白のように続けた。 「ずっと死にたいと思ってた。でもおまえが……」 「なんだよ」  暖は動かない。唇をかすかに震わせて、いった。 「おれが死んだらおまえに食事を持ってくやつがいなくなる」 「はあ?」  おれは呆れてため息をついた。 「馬鹿か。おれを解放してから死ねばいいだけの話だろ」 「それはできない」 「なんでだよ」  暖は答えない。表情の見えない男を見つめて、おれはもう一度、今度はさらに深く息をついた。 「おれはべつにおまえが死んだほうがいいとは思ってないよ。おれを外に出して、死ぬか生きるかはそのあと考えればいいじゃん」  暖が小さく笑う音がした。笑うような話をしたつもりはなかった。 「笑ってんじゃねえよ、おまえ……」  言葉が途切れた。暖がしがみついてきたからだ。おれの腹に両腕を巻きつけ、股の付け根あたりに頬を押しつけてくる。 「おい……」 「なにもするつもりないから」  静かな声だった。威圧感はない。しかし、なぜか抵抗する手の力は緩んだ。 「頼むよ。ちょっとだけこのまま……」  背中に回された手が震えている。おれは言葉を失っていた。暖が泣いていることに気づいたからだ。  おれの体に縋りつき、胎児のように体を丸めて、暖は啜り泣いていた。暖が泣いているのを見るのははじめてだった。  泣きたいのはこっちのほうだ。心のなかで呟いた。それでも、おれは拒絶しなかった。なにもいわず、されるがままになっていた。  暖の肩も小刻みに振動していた。背中が小さく見えて、思わず掌を置いた。暖の体温を感じた。  暖のいうとおりだった。もし暖が死んだらおれはここでだれにも見つけられずに衰弱死するだろう。それなら、逆はどうか。もしおれが死んだら?  嗚咽をころして泣く暖の背中に手をあてながら、触れた掌の皮膚が溶け、肉が裂けて暖の血肉と絡みあう幻想が過ぎった。不思議なものだ。性的な密着よりもなおひとつになっている感覚があった。  まるで手を離したとたんに湖底に沈んで二度と浮上できないかのように、暖はおれのシャツを強くつかんでいた。溺れる人間を救いだそうとするかのように、おれは暖のシャツを握った。 「おい……」  暖の頭頂部に向けて息を吐いた。腰の辺りにある暖の指先が動いたからだ。 「なにもしないっていわなかったか」 「なにもするつもりないとはいったけどしないとはいってない」  いつもの屁理屈をこねて、暖はおれの背骨の隙間に爪を立てた。痺れるような痛みに腰が浮き上がる。 「さっきまでそんなつもりなかったけど、おまえが……」 「またおれかよ……」  荒く息を継ぐ。接着している皮膚が熱い。いつの間にか、おれの呼吸も熱を孕んでいた。 「おまえ、いつもおれのせいにするじゃん。全部おまえがやってることなのに……」 「……そうだな」  暖は素直に頷いた。甘える猫のようにおれの下腹部に頭を擦り寄せてくる。もう泣いていなかったが、手を離せばたちまち消えてしまいそうで、おれはなにもできなかった。 「俊介」  暖が頭を持ち上げた。顔が近づいてくる。無意識に目を閉じた。予想していたことはなにも起きなかった。再び目を開けると、鼻先が触れあいそうな距離に暖の顔があった。 「なに……」 「キスしろよ」 「はあ?」  暖の意図を図りかね、眉を顰めた。 「嫌なのかよ」 「嫌に決まってんだろ」 「いつもしてるのに」 「だから、いつもみたいに勝手にすればいいだろ」 「おまえのほうからしてほしいんだよ」  ふざけている様子もなく、真剣そのものといった表情の暖に気圧された。 「……命令かよ」 「ちがう。したくないならしなくていい」 「……したくない」 「わかった」  いったとたんに、唇が襲ってきた。舌を差しこまれ、歯列をなぞられる。  なぜ回りくどいことをするのか、理解不能だった。おれはまた暖に振り回されている現実に悔しさを感じながらも、暖の動きに合わせて舌を絡ませた。  長いキスだった。永遠に続くのではないかと思うほどだった。唇が離れたときには、おれはかなり息を荒くしていた。  暖の右手がシャツの裾をたくし上げ、直接肌に触れる。左手がおれの後頭部に添えられ、マットレスの上に寝かされた。この男が犯罪者で監禁されてなければ、愛情めいたものがあるのではないかと勘違いしてしまいそうなほどやさしい手つきだった。  考えてみれば、暴れて拒絶しない限り、これまでもていねいに扱われてきた。受け容れる準備ができるまで粘り強く体を解し、行為が終わった後は手ずから処理をしていた。すこし鬱陶しいほど甲斐甲斐しかった。監禁、強姦に手を染めているわけだから、根本的にはサディストなのだろうが、抱くときはいつもやさしかった。 「……悪かったよ」 「え? なに?」  おれの服を脱がせ、胸元に顔を埋めていた暖が視線を上げた。おれは視線を逸らして、いった。 「おまえ、最悪ではあるけど、父親とはちがうよ」  暖はしばらく黙って、その後で微笑んだ。嘲笑ではない、自然な笑顔だった。  暖の手が再びおれの肌を這い回る。舌が胸の突起を転がし、膝が股の内側を圧して体をひらかせる。それだけの動きで、おれの体はすぐに反応した。  考えてみれば、最後にこんなふうに触れられたのは1か月以上前のことだ。一昨日は予告もされていて、こちらもそのつもりでいたが、父親が現れたためにそれどころではなくなった。待っていたわけではないのに、全身がすでに迎え入れる準備をしていた。おれは裸に剥かれ、暖の下で体をのたうたせていた。  暖の頭が徐々に下降していく。臍の窪みに唾液を含ませ、脚の付け根に歯を立てる。そして痛みを感じるほど脈打っている中心の部分へ。暖に追い立てられ、おれはあっけなく達した。マットレスの上で全身を弾ませ、声を上げる。暖は息も絶え絶えといった状態のおれを抱え上げ、膝の上に乗せた。臀部を指でまさぐられ、暖の首に縋りついていなければ崩れ落ちそうだった。 「ちょっと待っ……」  羞恥に顔が燃えるような摩擦音を聞きながら、おれは首を振った。 「なんか、やばい……待って待ってなあ待てって」 「だめ、待てない、もう入れる」  舌を縺れさせるおれとおなじくらい余裕を失った声。指が入っていたところに暖の硬直が圧しあてられる。暖がおれの膝を持ち上げ、支えを失ったおれの体が重力に負けて落下する。いきなり深い部分を抉られ、おれは絶叫した。暖が下から突き上げてきて、強烈な圧迫感に涙が滲んだ。 「俊介……気持ちいい?」 「ん……気持ちい……」  そんなことを口にするのははじめてだった。問われるがままについ答えてしまった。後悔したが、遅かった。暖が体勢を変え、おれの体は再び仰向けにされた。烈しい動きで何度も圧しこまれ、背中がマットレスに擦れる。暖もほとんど我を失っているように見えた。汗が飛び散っておれの顔や胸に滴る。  再び限界が近づいていた。暖の動きがさらに烈しくなる。振り落とされないように首に腕を回してしがみついた。  暖の咆哮とともに、動きが止まった。内臓の奥でびくびくと蠢く熱を感じる。  暖がおれの上に倒れこんだ。弛緩した体の重みを受け止めた。おれも口を大きく開けて酸素を吸っていたが、暖はもっと烈しく息を継いでいた。溺れていた人間が陸に上がって急激に酸素を取り込んでかえって呼吸困難に陥るように喉をひゅうひゅういわせている。 「暖……」 「だいじょうぶ」  おれの胸に頬を圧しつけて、暖は頷いた。なんとなく、背中に手を触れさせた。暖の肌は汗ばんで湿っていた。その手ざわりが生命を実感させた。  おれたちはそのまま何時間もただ呼吸していた。まるで残りの息が消えかけているかのように酸素を求めていた。 【2213日後】 「おまえ、ずっとここにいていいのかよ」  暖が差し出した水を喉に入れながら、おれは尋ねた。もう1週間以上、おれたちはふたりともほとんどの時間服を着ずに過ごしていた。暖は1、2度食事を補充するために数時間外出しただけだった。 「政治家の先生がさぼってたらまずいんじゃないの」 「先生とかいうな」  暖は心底不愉快そうな表情でいった。 「おまえには先生って呼ばれたくない」 「なんだよ、それ」 「いいから、呼ぶな」 「あっそ。わかったよ……」  言葉の後半は暖の舌に絡め取られた。唾液が滑りこんできて、唇の端からあふれて顎をつたう。  1カ月間なにもせずにいた時間を取りもどそうとするかのように、暖は執拗におれを求めた。相変わらず扱いだけはていねいだったから怪我をすることはなかったが、さすがに疲労困憊だった。それでも、拒むことはできなかった。あまりに切実で、緊迫していたからだ。  この先、おれたちはどうなるんだろう。問いたかったが、できなかった。ただ、暖のすべてを受け容れていた。 【2216日後】  行為が終わってからシャワーをつかっていると、暖が飛沫のなかに入りこんできた。いっしょにシャワーを浴びているうち、また熱が充満して、全身を濡らしながらつながった。右脚を抱え上げられ、かろうじてタイルに届く左脚も爪先が浮き上がるほど烈しく突き上げられて、壁に凭れていたおれの背中には擦り傷ができた。  この頃にはもう避妊具は切れていて、直接挿入していた。もっとも深い部分で暖が放出した精液がじわじわとおれの内部を浸食していく。熱に爛れて焦げて灰になってしまいそうだった。  暖がおれを座らせ、自分が出したものの始末をした。そのまま髪を洗い、ボディソープを泡立てて体に滑らせる。おれは抵抗する力も失って体を投げ出していた。肌を叩くシャワーの滴をぼんやり見つめる。 「気持ちよかった?」  暖の言葉に、雑に頷く。毎日休みなく何度も性交に及んで、体も疲弊していたが、神経が溶けて液体にでもなりそうだった。  抱かれている間はなにも考えられない。それが暖の目的なのかもしれなかった。そうでなければ、こんな非現実的な日常がなんのために存在するのか。  ふと思った。2週間もここにいて、仕事や家族はどうなっているのか。暖を探している人間はいないのだろうか。しかし、直接聞くことはできなかった。どうせ答えないとわかっていたし、暖の態度には現実的な言葉のすべてを忌避するかのような頑なさが見えた。  ただ、ひとつだけわかるのは、こんな日々がそう長くは続かないということだ。終わりが見えかけている。それがどんなかたちであれ、結末はすぐそこに迫っていた。 【2219日後】  肉で肉を打擲する音。残虐だが、軽やかで、なんとも情けなく、生々しい。唐突に止まり、暖がおれの上で体を震わせる。硬直していたものが質量を増し、次に熱くぬめった液体が腹のなかに広がる。  暖が出て行くと、つながっていた部分から白濁が滲み漏れた。おれは息を弾ませながら、額の汗を拭った。暖が隣に寝そべる。まだ上気した体を寄せてくる。 「なんで……」 「ん?」  代わり映えしない天井の白を見上げながら、おれはぼんやり呟いた。 「なんでこうなったんだっけ……」  おれの耳の裏に鼻先を圧しあてながら、暖はうんだかううんだか文字にならない言葉を吐いた。おれのせいにされるのではないかと思ったが、そうしなかった。暖はまどろみながらいった。 「おれのせい」  おまえが運転操作をミスしたせいだ、といいかけたが、その前に、暖が続けた。 「おれがおまえに声かけたから」  暖の顔を見ようとしたが、暖はもうほとんど眠りかけていた。肩を上下するペースが緩やかになり、やがて寝息が聞こえてきた。邪気のない寝顔だった。 「寝てんじゃねえよ……」  肩口に預けられた頭を見下ろしながら、おれは小さく呟いた。まだ聞きたいことがあったのに。  まあ、明日聞けばいいか。おれも疲れていた。しかし、眠気はすぐには訪れなかった。耽溺のなかでもなにか暗い予感めいたものが胸の奥で蠢いていた。無視できるのは性行為に溺れているときだけで、終わったとたんに絡め取られる。  音のない狭い空間で、暖の寝息だけが聞こえる。暖がなにを考えているのか、その一部だけでも、いつかわかる日がくるのだろうか。 【2224日後】 「好きだ」  暖がいった。  おれは暖に背中を向け、眠りの淵に半身を傾けていた。数秒措いて、目を開けた。 「……なんなんだよ、今さら」  振り返らなかった。たぶん、暖もおれを見ていない。ここ数日では珍しく、おれたちは数十センチの距離を置いて横になっていた。 「いっておきたかった」  暖の声が天井に吸い込まれる。  おれはマットレスに手をついて体を起こした。ついさっきまで暖に犯されていた下腹部にびりっと痛みがはしる。上半身を捻って暖を見た。暖は首の裏で指を組んで仰向けになっていた。  首を伸ばし、暖の唇に自分のおなじものを触れさせた。 「……なんかいったほうがいいのか」 「……いや」 「だったらおれ寝るけど」 「うん」  沈黙。おれは暖の胸に頭を乗せた。鎖骨のごりっとした感触をこめかみに感じる。暖が手を伸ばし、髪を撫でてきた。汗で湿った髪に指先を絡ませる。 「髪、切ろうかな」 「うん」  沈黙。暖は飽くことなくおれの髪を撫で続けている。 「俊介」  おれはまどろみかけていて、返事の代わりに顎を上げた。暖がおれを見ていた。唇が触れあった。二度目は上唇を軽く挟むだけの小さなキスだった。暖は目を開けたままで、おれも瞬きせずに暖を見上げていた。 「……なんでもない」  暖はもう一度、今度は眉間に唇をつけて、おれの背中に腕を回した。裸の肩を掌で何度も摩りながら、伸びた前髪に鼻先を擦りつける。 「おやすみ」  おれは返事の代わりに頷いた。暖の胸とおれのこめかみが擦れた。  暖の心臓の音を聞きながら、おれは眠りについた。 【2225日後】  夢を見た。おれはクラブのフロントで年齢を理由に入店を断られ、不貞腐れていた。おぼえたての煙草を咥え、店の前にしゃがみこんで、着飾った女たちやいかにも金持ちそうな年上の男たちがきらびやかな店内に入っていくのを恨みがましく眺めていた。  あきらめて帰ろうかと腰を上げたとき、だれかに話しかけられた。 「入りたいの?」  振り返ると、おなじくらいの年代の男が立っていた。 「おれといっしょだったら入れると思うけど」  シンプルだがおれのものとはあきらかにレベルがちがう高価そうな服を着た男は、人なつっこい笑顔を向けてきた。 「どうする?」  目を開けた。いつもの天井の白。いつものマットレスの匂い。隣に目を向けたが、暖はいなかった。目を擦りながら寝返りを打った。まだ眠い。もうすこし寝ていたかった。いつもの景色。小型の冷蔵庫、テーブルと椅子。散乱した衣服。暖はいない。どこに行ったのか。  体を動かすのが億劫で、目線だけを巡らせた。やはり暖の姿はない。買い物にでも出掛けたのだろうか。  喉が渇いた。水を取ろうと冷蔵庫に手を伸ばす。体の重心がずれ、脚が縺れた。  不自然な体勢のまま、おれは硬直した。  いつもの風景、いつもの匂い。ただ、音だけがしない。いつものあの音。体を動かすたびに耳に障ったあの音。  ゆっくりと首を捻った。足下に目を向けた。足首に嵌まっていた拘束具が消えていた。  おれの足を噛み、なにをしても離そうとしなかった拘束具は、その口をひらいて、マットレスの脇に転がっていた。伸びた鎖はだらしなく床の上に伸びている。  足首に手を這わせる。長い間拘束されていた皮膚は擦れて赤みがかかっていた。しかし、なににも縛られていなかった。完全に自由になっていた。  おそるおそる身を起こし、立ち上がった。周囲を見渡したが、ほかになにも変わっていることはなかった。  一歩、足を踏み出した。あの不快な金属音は聞こえなかった。二歩、三歩とさらに足をすすめても、なにも起きなかった。  脱ぎ捨てられていた服を着て、ドアのほうに進む。心臓が跳ね、足ががくがく震えた。  ドアノブをつかみ、捻る。鍵はかかっていなかった。両手でドアを引くと、外の空気が流れこんできた。  ドアの向こうの景色を見たのははじめてだった。鈍色の壁。狭い廊下。奥に階段が見えた。  おれは足を引きずりながらはしった。ほんの数メートルだが、そんなに長い距離をはしったのは数年ぶりだった。息を切らしながら階段に辿りつき、足を縺れさせながら這うようにして階段を上がった。地下室の出入口は圧して開くタイプのドアになっていた。全身の力をこめて圧しあげた。  避難用シェルターを模して設計されたらしい地下室を出ると、民家の1階になっていた。ただし家具はまったくなく、空き家の状態だった。  部屋はそれほど広くなかった。ドアはすぐに見つかった。やはり鍵はかかっていなかった。  ドアを開けたとたん、太陽の光が差し込んできた。あまりのまぶしさに、思わず両腕で顔を覆った。数年ぶりの光だった。おれは呻いた。まぶしさのせいか、べつの感情なのかはわからない。自然と涙が溢れてきた。  完全にドアをひらくと、おれは裸足のままで駆け出した。どこへ向かっているのかは問題ではなかった。逃げる。それしか頭になかった。逃げなくては。ここを離れて、二度ともどらないように、走るしかなかった。  辺りは森だった。鬱蒼と茂る木々の隙間を縫うようにおれは疾走した。だれも追いかけてこなかった。なにも考える余裕はなかった。ただ走りつづけた。 【エピローグ】  交番は無人だった。警察署の職員は裸足のおれを見てただごとではないと察したようですぐに保護してくれた。しかし、おれの話を聞くと態度を変えた。  6年前の事故の記録はどこにもなかった。おれの失踪届も出されていなかった。社会的には、おれは今もふつうに生活していることになっていた。県民税も市民税も支払われており、現住所は見たこともない場所で登録されていた。  担当した警察署員はさらになにか聞きたがっていたようだったが、おれは拒否して署を去った。監禁の被害を訴えたところで、根本の轢き逃げそのものがなかったことにされているのでは、証言の信憑性を疑われるだけだろう。  暖に見せられたパンフレットを頼りに、母が生活する医療施設を探し当てた。そこでもやはり怪訝な顔をされたが、母がいることだけは教えてもらうことができた。高級な施設だけあってセキュリティが万全で、中に入ることはできなかった。それでも、母が無事でいることは確認できた。  おれは一文なしで、スマホもクレジットカードも持っていなかった。だめでもともとのつもりで役所に足を運び、住民票を発行して銀行に足を運んだ。銀行口座はそのままになっていた。それどころか、監禁された日から毎月40万の金が振り込まれていた。名目は「給与」で、振込元は聞いたことのない会社名になっていた。  現金を引き出し、ネットカフェに入った。おれの名前で検索してもなにも出てこなかった。しかし、暖の名となると話はべつだった。  暖は大学を卒業して広告代理店に就職し、その後市議選に出馬、二十代の若さで新人ながらトップ当選を果たしていた。しかし、ネットニュースによると、直後に父親の脱税、収賄などの背任行為を告発している。祖父から父の代にと受け継がれた悪行は枚挙にいとまがなく、なかでももっとも重罪とされたのが未成年略取、人身売買、小児性愛だった。祖父と父は複数ある所有物件のうちのひとつに未成年の少女を監禁し、自身の欲望を満たすばかりでなく、政治家や実業家などの実力者に彼女らをあてがうことで弱みを握り、莫大な資金を手に入れていた。  祖父はすでに逝去していたが、父親は罪に問われ、即座に身柄を拘束されていた。父親がおれを見つけた日とおなじだった。容疑については黙秘が続いていたが、告発者が身内なだけに、重要な証拠が複数揃っており、有罪はほぼ確実とされていた。投獄されて数週間後には犯罪現場となった地下室の場所が警察の捜査によって判明し、家宅捜索を受けていた。おれが逃亡してから2日後のことだった。  被害に遭った少女たちの人数は正確にはわかっていないいが、数十人にのぼるだろうとのことだった。覚醒剤常習者や娼婦もいたが、誘拐もあったようだ。家出人として処理されたまま行方不明となっている少女もおり、未成年者略取、殺人未遂、殺人教唆などの罪も加わり、その悪質さから、終身刑は避けられないだろうとされていた。  容疑者の息子であり、共犯者でもある暖は、父親の逮捕と同時に姿を晦ましており、行方は杳として知れなかった。市議会は欠席が続いており、このままの状況が続けば除名が濃厚とされていた。暖が告発に踏み切らなければ、罪が表に出ることのないままさらなる被害者が生まれていた可能性が高く、情状酌量の余地はあったが、横領した金の一部は暖の懐に入っていたという疑いもあり、無傷では済まされない。  金の流れについても捜査されていたが、使途不明金が多く、すべてを明らかにするのは不可能だろうとあった。おそらく、その金の一部がおれの口座や母の治療費に回されていたのだろう。  轢き逃げに関するニュースはやはりどこにも出ていなかった。唯一、週刊誌に掲載されていたのが、容疑者の息子である暖が高校時代に交通事故を起こした可能性があるというものだったが、証拠がなく、疑惑の段階で続報は存在しなかった。  記事によると、ホームレスの男性が車と接触して重傷を負い、警察に届け出たものの、その後被害届を取り下げたとある。運転していたのが議員の息子で、不正な金によって事件そのものが揉み消された可能性が疑われたが、証拠はなく、被害者も口を閉ざしたままだった。被害者は数年もの間、医療保険を滞納していたが、手術費と入院費を現金で支払っていた。費用の出所については明らかになっていなかった。退院後の行方もわかっていない。  あの男は生きていた。死んだものと思いこんでいたが、実際に脈を確かめたわけではない。暖は嘘をついていなかったのだ。あの部屋にいる間、暖がおれに嘘をついたことは一度もなかった。ネットカフェの暗い個室のなかで、おれは叫び出しそうになるのを必死で耐えていた。  当時高校生の暖に事件を揉み消せるほどの力があるとは考えにくい。おそらくは父親に泣きついたのだろう。しかし、それならなぜおれを監禁する必要があったのか。被害者を埋めた後で生きていることを知り、後に引けなくなったのか、それとも……  画面のなかの暖。政治家の家に生まれ、地元の進学校を卒業し、東京の名門大学へ。大学も優秀な成績で卒業し、地元の広告代理店へ。その後、政治の道へ進む。23歳で結婚。翌年、離婚。元妻の父親は地元で大手製鉄会社を経営する有力者で、離婚の際にはおおいに揉めたようだ。  知っているはずなのに、まるで他人のようだった。ニュース記事に掲載された顔写真は、あの監禁部屋でおれといた男とは別人のようだった。  パソコンの電源を落とすと、真っ黒になったディスプレイに自分の顔が映った。おれの顔も、18歳の頃とはずいぶん変わってしまった。  あの小さな部屋に幽閉されて過ぎていったおれの6年間はいったいなんだったのか。ネットカフェの暗がりのなかで、おれは膝を抱えて震えていた。 【2344日後】  おれは口座に振り込まれた金を基にアパートを契約し、母を迎えに行った。6年前に失踪したきり連絡さえしていなかった息子と再会したときの母の喜びようといったらなかった。おれの顔を見るなり号泣し、おれの手を握って過去の過ちを懺悔した。子どものおれを殴り、酒に溺れていた母の姿はどこにもなく、完全に依存症を克服して顔色もよく健康そのものといった母の姿にすくなからず驚かされた。  暖はたまに母の様子を見ているだけだといっていたが、実際には足繁く通っていたようで、アルコールに依存していた母にとっては心のよすがとなっていたようだ。施設のスタッフによると、失踪した息子の代わりを務めるかのように献身的に支えていたらしい。だからといって犯した罪が帳消しになるわけでもないし、ある意味ではむしろより罪深い行為だった。息子を拉致しておいて、その代理のような振る舞いをするなど、残酷としか形容できない。  しかし、実際に母は健康で、アルコールとは無縁の生活を送っていた。おれが予定どおり大学に進学して就職していたとしても、おなじような結果だったとは限らない。もちろん、実の親子が一緒に過ごすことこそ幸福だと一般的にはいわれるだろうが、現実がそのとおりだとは限らないのだ。  おれは母とともに小さなアパートに新たな拠点を構えた。地元で塗工や内装を手掛ける会社に就職し、薄給ながらもどうにか生活を整えられるようになった。  暖が用意したであろう金に手をつけるかどうか迷ったが、そのくらいはもらっても構わないと納得することにした。とはいえ、暖が犯した罪をゆるしたわけではない。  暖は車の事故でひとを殺したわけではなかった。つまりおれも犯罪に荷担したことにはならないわけで、そのことについては安堵していた。心のどこかに殺人を犯した後ろめたさが残っていたからだ。 暖は一生おれを外に出さないと宣言していたが、監禁の直後から金を振り込み、税金を支払っていた。  それでも、暖をゆるすことはできない。人生のもっとも美しい時期、18歳から24歳までの6年間を奪われた現実は変わることはない。  仕事が休みの休日、おれはあの家にきていた。脱出したときにはとにかくその場を離れることしか頭になく、どこをどう走ったかまったくおぼえていなかったが、暖の父や祖父が少女を監禁、陵辱していた現場はテレビや新聞でも取りあげられ、場所を特定するのは難しくなかった。  鬱蒼と茂る木々のなかに佇む一軒家。外壁を取り囲むようにテープが張り巡らされ、外部からの侵入を制限している。テープの外側に立ち、おれは建物をしげしげと眺めた。ここに閉じ込められていたのだ。6年間も。6年の間、一歩も外に出られず、だれとも会わず、話もせず、ただ暖と爛れた行為に明け暮れて、暖の欲望を受け止めるだけの6年間だった。  一歩、足を踏み出すと、草を踏むかすかな音がする。あれから半年近くたったというのに、あの鎖の音が頭を離れない。  あの6年間のことは忘れて新しい人生を生きようとしているのに、あの部屋の匂いや天井の白、動くたびに響く鎖の音がまだ離れてくれない。  けっきょく、暖がなにを考えていたのか、最後までわからなかった。ただひとつ、わかっているのは、暖がおれなしで生きていられる時間は6年どころか数カ月もないということだった。  なあ、そうだろう?  草を踏む音。背後のその小さな音が、おれの耳にはあの地下室の重いドアが開く音に聞こえた。  おれは振り返った。 おわり。
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