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2.失われたキャリア
「不倫だって。妊娠までしちゃったなんて、信じられないよね」
「狭山さんってさ、広報の高桑さん狙いじゃなかったんだ」
「そっちはカモフラージュで、本命は染谷Pだったんでしょ」
「なるほど。それで“ミュージック・ジャンゴ”のMCに抜擢されたわけね」
「うわ、きったねえ」
「でも、流産で長期休みとって、けっきょくそのまま降板でしょ。染谷さんとも切れたらしいし、もう戻るとこないんじゃない」
真由子はアナウンスルームに入ることなく踵を返した。強張った顔を俯けて、テレビ局の廊下を大股に歩く。
いわせておけばいい。乗り込んでいって弁解したところで、よけい惨めになるだけだった。噂のすべてが間違いだともいえない。現実に、真由子はプロデューサーの染谷の子供を身ごもり、流産した。
染谷には妊娠を告げていなかった。堕胎するようにいわれるのは目に見えていたからだった。ひっそりと出産し、ひとりで育てていくつもりだった。しかし、仕事を休むこともできず、無理をして働いているうちに、倒れてしまった。病院に運ばれ、目が覚めたときにはすべてが終わっていた。
後輩のアナウンサーたちがいうように、真由子の戻る場所はなくなっていた。レギュラーの番組には後釜がすでに居座り、それなりの視聴率を記録していた。同時に、染谷とのスキャンダルが週刊誌に掲載され、まだ入院しているうちに、見舞にきた局部長から自主退社を勧められた。女子アナなどは掃いて捨てるほどいるのだといいたげな、冷ややかな口調だった。
真由子は精一杯そつのない顔で頷いてみせた。衰弱した姿を見せるわけにはいかなかった。それくらいの自尊心はかろうじて残っていた。
ゴールデンの人気番組の司会進行役に抜擢されたのは、染谷とのこととは無関係であると、真由子は今でも信じている。入社8年目でようやくつかんだチャンス。死にもの狂いで働いた。不慣れなバラエティ番組にも挑戦し、出演者の信頼も大いに勝ち得ていたはずだ。
そんな苦労も、たったひとつのスキャンダルで泡と消えてしまった。染谷とも連絡が取れずにいる。おそらく、このまま真由子との関係を清算するつもりなのだろう。
べつにかまわないと思った。一時は本気で染谷に溺れ、妻子を捨てて結婚してくれればと願ったが、流産をきっかけに、なにもかもどうでもよくなってしまっていた。
真由子の目尻から涙がこぼれたのは、テレビ局を出て地下鉄に乗り込んだときだった。荷物の入った袋は、頼りないほど軽かった。超難関といわれる入社試験を勝ち抜き、ようやく入ったアナウンス室に、彼女の痕跡はもうない。
午前中の地下鉄車内は比較的空いていて、濡れた頬を好奇の目に晒さずに済んだ。声をころしたまましばらく俯いているうちに、ようやく落ち着いた。ファウンデーションのコンパクトを開き、軽く頬を押さえる。
顔を上げて、思わず苦笑いが漏れた。降りる駅を乗り過ごしてしまっていた。しかたなく、次の駅で降りる。
見覚えのあるホームだった。しばらく考え、思い出した。入社したばかりのとき、スポーツニュースの取材で訪れたのだった。新人だったので、社用車を使わせてもらえず、自宅から電車を乗り継いでやってきたのだった。
ここからなら15分ほどでスタジアムに行くことができる。なんとなく、真由子は足を進めた。
電車を乗り継ぎ、駅に着くと、電光掲示板を今日のスターティング・メンバーの名前が滑っていた。番組を担当していたのはほんの半年で、もともとスポーツへの興味が薄い真由子には、メジャーな選手以外さっぱりわからない。それでも、売店や飲食店の店頭に並んだフラッグやタオルのロゴには、なんともいえない懐かしさを感じた。あの頃は、まだ染谷と深い関係になっているわけでもなく、ただ純粋に、憧れの職業に就けた喜びと向上心で胸を躍らせていた。
何度も紙袋を持ち直しながら、スタジアムへの道を歩く。ハイヒールの爪先が痛んだが、ここまできて引き返すのは癪だった。
昼前のスタジアム周辺は閑散としていたが、熱心なファンがチケット売り場の前にたむろして、名前を書いたボール紙をせっせと地面に貼りつけている。視線があっても、真由子に気をとめるものはなかった。
安堵と失望が綯い交ぜになった妙な気持ちをもてあましながらぶらついていると、ひそやかな話し声が耳に入ってきた。
「なあ、あのひと、どっかで見たことないか」
ぎくりとして振り向いたが、レプリカ・ユニフォームの集団の視線は真由子を通り越していた。
彼らの目線を追うと、ひとりの男と視線がぶつかった。濃紺のジャージを着た若者はすぐに顔を背け、早足で歩き出した。
すぐには気づかなかったが、サポーターたちが素っ頓狂な声を上げて名前を呼んだので、真由子は口を開けた。
「奥選手!」
若者の足どりは早く、とても追いつけそうになかった。走り出しかけた真由子の手から紙袋が落ち、取材資料やタブレットが散乱した。
真由子は舌を打ち、屈んで私物をかき集めた。俯くと、また涙が零れ落ちそうになった。歪みかけた視界に、無骨な手の甲が映った。
顔を上げる。真由子を手伝って紙束を整える鬱然とした表情は、彼女にひとちがいの予感さえ感じさせた。しかし、プロのスポーツ選手としてはやや貧弱な童顔は、身間違えようがなかった。
「わたし、狭山真由子です。去年取材させていただいた、KTVのアナウンサーです」
奥が顔を上げる。警戒するような瞳には、かつての輝きは一片も見つけることができなかった。その眼を見た瞬間、真由子は奇妙な連帯感をおぼえた。どれほどぶりだろう、彼女の顔に、安寧の笑みが浮かんだ。
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