3.脱落のシンパシー

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3.脱落のシンパシー

 大滝の話の内容は、ほぼ想像したとおりだった。球団はもう奥を必要としていない。覚悟していたとはいえ、残酷な現実に、奥は打ちのめされた。  放心状態のまま、無意識に足がヴェルヴェッツのホーム・スタジアムに向かっていた。入団してすぐの頃、チームの一軍メンバーとして立った人工芝。喚声が轟き、打席に立った奥を包み込んでいた。  しかし、今、我妻の背番号を背負ったファンたちは、ペナントレースの行方について熱心に語りあいながら、奥のそばを通り過ぎていくだけだった。目立たないよう帽子とマスクをしているとはいえ、それほどまでに選手としてのオーラが消えているのかと、すくなからずショックを受けていた。  くるのではなかったと後悔していると、背後に視線を感じた。明らかに奥の噂をしているのがわかり、咄嗟に振り向いた。視界に入ったのは、噂をしているユニフォームの集団ではなく、その少し手前に立っていたスーツ姿の女だった。  視線を逸らし、その場を立ち去ろうとしたが、女はハイヒールの踵をかつかつ鳴らせて追ってきた。名前を呼ばれ、背すじが冷えた。女は奥に気づいていた。もう選手ではないといいたかった。足を早めようとしたとき、重い音がした。  ため息を吐きながらも、奥は女に手を貸して散らばった荷物を集めはじめた。その間も、女の視線を常に額に感じていた。いたたまれなさに耐えきれず、表情を歪める奥に、女は遠慮深げに自己紹介した。  名前を聞いても、すぐには思い出せなかった。なにしろ、大型新人といわれた奥のもとには、毎日のように各メディアが押しかけ、いちいち全員の顔をおぼえてもいられなかった。  それでも、真由子の話を聞いているうちに、なんとなく記憶が甦ってきた。自分も新人なのだと照れくさそうに話したアナウンサーの印象と、今の真由子の疲れたような表情がなかなか一致しなかった。とはいえ、他人のことをえらそうにいえる身分ではない。 「いい天気ね」  沈黙に耐えかねたのか、真由子がぽつりという。いつの間にか敬語が抜け、親しげな口調に変わっていたが、高圧的な印象はなかった。 「そうですね」  真由子のさりげない誘いに応じて散歩に付き合ったのは、しかし、懐かしさのためではなかった。もちろん、美人の誘いに乗ったからといって、下心があるわけでもない。新人の頃は先輩に連れられて夜の店や食事会にも参加したが、最近はそんな気にもならなかった。  真由子の顔に浮かんだ笑顔。2年前に仕事で言葉を交わしたきりだというのに、重苦しいほどの親近感があった。異国で同郷の人間に偶然出会ったときのような、心底ほっとしたような表情に、心を揺らされた。彼女なら、奥の苦しい胸の裡を理解してくれるかもしれない。ぶざまな期待があった。  おそらく、真由子が大切そうに胸に抱えている紙袋の中身を知ってしまったからだろう。奥の質問を待たずに、真由子は自分から苦笑いしてみせた。 「会社、辞めちゃったんだ」  弱々しい笑いだった。奥の記憶の片隅にある真由子の笑顔は、自信に満ち溢れていた。たった2年の間に、なにがここまで彼女を変えてしまったのだろうか。まるで鏡を突きつけられているような錯覚に陥り、奥は真由子の視線を追った。  大通りに面した小さな広場では、だらしのない服装に身を包んだ若者たちが、ポータブル・プレイヤーのヒップホップにあわせてブレイクダンスを踊っている。22歳の奥よりもさらに年下に見えた。目標もこれといった取り得もなく、ただ緩慢に生きるだけの同世代の若者たち。以前までは理解不能だった。蔑視していたといってもいいかもしれない。しかし、唯一の生き甲斐だった野球を失ってしまった今の奥は、彼らとなにも変わらない、無気力なただの男だった。 「ぼくも」 「え?」 「ぼくも、実は、今季限りで」 「うそ」  真由子は大きな目を見開いたが、すぐにその目を伏せた。 「それで……」  ふたりを強烈に結びつけたシンパシーの正体に納得したかのように、真由子は深く頷いた。 「お互い、つらいね」  多少投げ遣りではあったが、天気の話をしたときとほとんど変わらない長閑な口調。自分の立場も忘れて、奥は思わず噴き出した。 「笑ってる場合じゃないでしょ」 「すみません」  憮然とした表情を緩めて、真由子も笑う。ひとりでは、決して笑うことなどできなかっただろう。奥と真由子は、仲のよい姉弟のように、せり立ったアスファルトのうえに並んで腰を下ろした。ダンサーもどきのステップを眺めながら、真由子がいう。 「それで、どうするの、これから」  大滝にも同じことを尋ねられたが、明確な答えを返すことはできなかった。このときもやはり、奥は曖昧に首を傾げてみせた。 「拾ってくれるところがあればいいんですけど、ちょっと難しいでしょう。実業団に入るか、すっぱり引退するか……それか、就職でもしますかね」  就職の2文字を口に出したとたん、形容しがたい不安が奥の脊椎を駆け抜けた。大仰でなく、野球しかしたことのない人生だ。アルバイトの経験さえない。今更社会に出て、通用するとは思えない。たいした記録を残したわけでもない元プロ野球選手の肩書きに価値を見出してくれるほど世間は甘くないだろう。  ここまできてもなお、野球にこだわり続ける自分も、無視することはできなかった。奥の心中を察したかのように、真由子が眉を顰めた。 「野球、続けられるといいね」  奥は眉を上げてみせるにとどめた。返事の代わりに、聞き返す。 「狭山さんは、どうするんですか」 「わたし?」  今はじめて思いついたというように、真由子は目をしばたたいた。 「わたしは……そうだなあ、また地道に就職活動かな」 「結婚はしないんですか?」  奥としてはなにげない会話のひとつとして口にした言葉だったが、真由子の顔からはさっと血の気が引いた。 「すみません。よけいなお世話ですよね」  奥が慌てて身を乗り出し、真由子は手を振ってみせた。 「いいのいいの。どうせ、貰い手がいないんだから」  そんなことはないでしょうといいかけた口元を引き締める。一見涼しげな真由子の横顔には、慰めの言葉のいっさいを拒絶する強さがあった。  沈黙。真由子は奥から目を逸らすように、若者たちの烈しいダンスを見つめていた。自然と奥の視線もそちらの方向に向いた。 「巧いよね」 「ダンス?」 「あの子」  真由子が示した先には、縮れた金髪の少年。地面に両手をついて逆立ちに近い体勢をとると、眩しいほど白いタンクトップが胸までまくれ上がった。 「ものすごく練習しているんじゃないかなあ。ずば抜けてる」 「やってたんですか」 「ヒップホップじゃないけどね」  真由子は照れたように肩を竦めた。 「イメージ的には、社交ダンスっぽいですけど」  奥が正直にいうと、真由子はますます照れた。軽い調子で否定した。 「ちがうちがう。チア」 「チアですか」  神奈川ヴェルヴェッツにも、「Vシスターズ」なる専属チア・ガールの集団が所属している。スーツに包まれた真由子のバランスの取れた見事なスタイルは、現役の彼女たちにも決してひけをとらなかった。 「あの頃はよかったなあ」  真由子が遠くを見る。呼びかけられているのか独白か、判然としなかったので、奥は無表情でいた。  ふだんなら、内心で笑い飛ばしていたはずの、感傷的にすぎる言葉。しかし、今は、それこそ他人ごとではない。  こんなはずではなかった。奥と真由子の間を、同じ思いで沈んだ空気が流れた。 「そうだ」  突然、真由子が顔を上げた。 「奥くん」  よそよそしい敬称をつけるのは躊躇われたらしい。親しげな口調で、真由子は奥にいった。 「チア、やらない?」
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