第1話 持ち家の男

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第1話 持ち家の男

 築7年、軽量鉄骨構造3階建4LDK、カーポート2台分付き。  これから俺が住むのはこんな家だ。築浅の中古物件を買って、いよいよ来週引っ越しである。  36歳、独身、会社員の俺が、ひとりで。そう、で。  近所の人はきっと新婚さんや小さい子供のいるファミリーを想像しているに違いない。俺だって新婚家庭を想定して買ったのだ。そう、を。  いや、ダメだな。言い方が卑屈になってきてる。ちょっと落ち着こう。  俺には結婚する予定の彼女がいた。以前働いていた営業所の同僚で5歳年下の子だ。彼女とはその営業所に転勤になってすぐに付き合い始めて、もう8年になる。  去年、俺が今の営業所に異動になったタイミングでプロポーズをした。両家の顔合わせや諸々も済ませて、来月には結婚式を挙げている筈だったんだ。  それなのに先月、招待客を決める辺りで突然の破局。訳が分からない。  嘘、嘘。訳は分かっている。俺がこの家を買ったからだ。  彼女の同意を得ずに買った訳でも、無理やり買った訳でもない。一緒に新居探しをして、彼女もこの家を気に入ってたんだ。  それなのに。  ローンの額、日々かかる光熱水費、固定資産税。経済的な不安が大きいと言い出した。  玄関の方角、トイレの方角、寝室の形。風水的に自分には凶だと騒ぎ出した。  いずれは俺の両親を呼んで同居・介護だろうと疑い出した。  近所づきあい、公園デビュー、ママ友カーストが嫌だと泣き出した。  俺は彼女がマリッジブルーになったのかと思って、それなりに彼女を思いやったつもりだったのだが…… 「妊娠しちゃって。  そっちの相手と結婚するから」  マタニティブルーかよ!  マリッジじゃなくて、マタニティの方ね!  そうだ。破談の理由は家を買ったからじゃない。家を買った事にあれこれケチを付けて、どうにかして別れようとしてた訳だよ、あの女。  2か月後には結婚式っていう段階で、家のローンの審査が通った段階でだよ?  いきなり『安定期に入った』って。随分前から浮気されてたって事だろ?  俺はきちんと避妊してた。つまりそう言う事だろ?  ま、色々ぶっ飛び過ぎて、呆れて腹も立たなかったけどね。向こうの両親が物凄い土下座で謝ってたよ。気の毒なほど。  結納金も5倍になって返ってきたから、ま、いいよな。慰謝料のつもりなんだろ。  ただ、寂しいよ。ひとりで引っ越しして、ひとりで暮らすんだな、って思ってしまったから。  はあ、引っ越しの荷物作ってたら色々と考えてしまったなあ。悩んでも後悔しても来週には引っ越しなんだ。現実を見よう。地に足を着けて頑張ろう。  そしていよいよ明後日が引っ越しという金曜日に、思わぬ事態になったんだ。 「お疲れ様です。  あの、ちょっとお時間頂けますか?」 「あっ、いいですよ?  会議室使います?」 「いえ、もしお弁当でないのでしたら、お昼食べに行きませんか?」 「うん? いいっすよ?」 「じゃ、昼休みに玄関で待ってます」  隣の部署の女子社員に誘われた。これはどう解釈したらいいのかな。いきなり昼飯に誘われた……マルチ商法か宗教か?  まず告白って事はないだろう。結婚が破談になった事は全然隠してないから誰もが知ってる筈だし。別れた彼女が業者とデキ婚したってのも噂が広まってるし。  うちの会社、市町村ごとに営業所を置いてるし行き来も頻繁だから、噂が回って来るのも早いんだよ。 「あの、図々しいお願いで申し訳ないんですけど、新居に居候させて頂けませんか」 「えっ」  えええええええええええっ!?  いきなりどうした! 大丈夫か、君! 「や、急にお昼誘われて、何だろうとは思ってたけど。  居候? 俺ん家に?」 「はい。戸建てにおひとりと聞いてます。  もちろんお家賃はお支払いします」 「いやいやいや、俺ん家じゃなくて不動産屋さんに行きなよ」 「それはそうなんですけど……  事情がありまして……」  昼飯を食いながら話を聞いた。彼女の話を要約するとこんな感じだ。  ・彼女は入社四年目の営業アシスタント  ・大学の奨学金を返しながら実家に仕送りもしており生活が苦しい  ・現在住んでいるアパートの更新が今月中で、家賃が値上げ、更新料も値上げになる  ・実家は瀬戸内海の島なので自宅通勤は不可能(そりゃそうだ)  ・新しいアパートを探しても、契約諸費や引っ越し代も捻出できそうにない  いよいよ月末が迫り、藁をも掴む思いで『事故物件』の俺に声を掛けたって訳だ。 「家賃が入るのは俺も助かるけど、一軒家でこんな年上の、隣の部署のおっさんと同居だよ?  風呂もトイレも洗濯機も共同だよ?  大丈夫?」 「はい、ご迷惑にならないように気を付けますから。  お掃除とかお洗濯とか、あとお料理とかも引き受けます。  あ、でも、あの、もし彼女とかできた時には色々と自重してお邪魔にならないよう努めますので」  ああ、年齢に合わないこの喋り方。本当に真面目な子なんだろうなあ。仕事ぶりも真面目そうだし、実際に良い評判は時々耳にしている。  顔だって可愛いんだから、自分に彼氏ができた時の事も想定しなよ(笑)  いや、問題はそこじゃない。 「あのさ、俺が君と間違いを起こす危険性も考えなよ?  年はこんな上だけどさ、独身男性だからね?」 「あっ、えっと、……そうですよね」  ここで時間切れ。  話の続きは終業後に、この子のアパートでする事になった。  いきなり女の子の部屋なんて遠慮すべきなのは当然分かっている。しかし、自分の困窮具合を見て同情してくださいとストレートに頼まれてしまったのだ。 「今お茶用意しますから」 「ありがとう」  テイクアウトの夕飯を広げながら、部屋の様子を窺う。確かに質素な暮らしをしているようだ。急に人を招いても大丈夫なくらい部屋を綺麗にしているのも大したもんだ。 「大学は国立だったんですけど、やっぱり一人暮らしは両親にも大きな負担で」 「だよね」 「奨学金と教育ローンでもういっぱいいっぱいに」 「ああ、なるほど」  経済的な不安を抱えるのはしんどいよな。俺だって車のローンを抱えてる上に住宅ローンだもんなあ。  この子を居候させて、多少の家賃をもらったとして、ローン返済の足しになるんだろうか。人が増えれば経費も掛かる。なにか上手くシミュレーションできないもんだろか。  いやいや、ダメだろ、恋人でも何でもない若い女の子と同居なんて。 「経済的に立ち直ったらちゃんとアパート探しますから。  期限を決めてもらっても構いません。  副業でも何でもして頑張りますから。  お願いします」  ひたすら頭を下げて頼み込まれてしまった。  どうする俺。どうすりゃいい俺。 「うん、わかった。  因みにここの家賃はいくらなの?」 「管理費込みで6万2千円です」 「うーん……  じゃあ……家賃3万円、管理費光熱水費込みでどうかな」 「いいんですか?  ありがとうございます!  本当に、本当に、ありがとうございます!」  床におでこをこすりつける勢いで感謝されてしまった。  いいよ、会社の後輩を助けたと思えば。 「やましい理由で同居するんじゃないし、会社には隠さないからね、俺。」 「はい。」 「きちんと転居の手続きを市役所だけじゃなくて会社にもする事」 「わかりました」 「ご両親にも、会社の先輩の家に世話になるって、ちゃんと伝えるんだよ」 「はい」 「まあ、独身男って言うと心配したり反対するかもしれないから、その辺は任せるけどね」 「はい」  結局、居候を受け入れる事にした。掃除と洗濯、この2つに心が揺れたってのが本音だ。  トイレと洗面台は各階にあるから使い分けりゃいい。それぞれの個室も2階と3階に分ければ間違いもないだろう。  明後日、俺の引っ越しが終わったらそのままレンタカーの2トン車でここまで来て、この子も引っ越しする事に決めた。この短時間で荷造りするのも大変だろうけど、頑張ってもらおう。  さあ、明後日からはどんな生活になるんだろうか。  ひとりであの家に住むのか、って言うどんよりとしたイメージはもう消えた。親しい間柄ではないけど、一緒にいてくれる人がいるってのは嬉しいもんだな。  引っ越しが終わったら、この子にはお礼を言おう。  勇気を出して声を掛けてくれてありがとう。
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