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目に見える星はもう少ない
目を覚まして、真っ先に気付いたのは自分が悪夢に対してかなりのショックを受けていることだった。夢の中で自分は緑色の芋虫となっていて、頭上には雀がいた。もこもこの毛をまとった雀はとても腹を空かせていたのか、しきりに嘴を僕に振り下ろしてきた。皮膚やその奥の内臓にダメージが入る感覚まで疑似体験していたように思う。しかも反撃しようにも芋虫である僕にできることは何もなく、文字通り手も足も出ない。逃げようとしても身をくねらせるという、何とも非効率的なやり方でしかできない。心臓に嘴が届くと意識したときにようやく悪夢から抜け出ることができた。
あまりにも鮮明だった死のイメージに脳がうまく動かず、しばらく金縛りにでもあったかのようにベッドに寝転がっていたが、やがて胃の方が空腹であることを音で伝えてきた。思えば晩御飯を食べていない。どっぷりと疲れきっていたせいで、飯を炊く気どころか冷蔵庫を開けて中身を確認する気も起きず(どうせ何も入っていないから確認したところで無駄だが)、帰宅後すぐにベッドに身を投げたのだ。次いで暑さにも気づく。冷房をつけるのも忘れていたせいで、部屋の中には湿気と熱がこれでもかと言わんばかりに満ち満ちていて、不快だ。もしかしたらこの暑さのおかげで、夢から覚めることができたのかもしれないが。
そうだ、コンビニにでも行こう。冷房も効いているし、食事もしたい。いつまでもベッドの上で固まっているわけにもいかないし、何よりも自分の体のコントロール権を早く取り戻したかったので、そんな風に自分に言い聞かせる。悪夢のショックで感覚のなくなっていた手足に意識して力を入れていく。自分が芋虫でなく、手足を持つ人間であるという当たり前の事実を脳に思い出させてみると、何とか身を起こすことに成功した。のろのろと亀のような速度で移動し、キッチンの冷蔵庫を開ける。思った通りほとんど空だったが、日本酒の瓶だけは入っていたので、それを取り出して中身をコップに注ぐ。お猪口なんて上等なものはこの家にない。
つまみもないのでほんの少しだけ飲んでみると、腹の中がかっと熱くなって意識がしっかりしてきた。ついでに熱中症予防で水も飲んでみる。同時に頬に涙が流れたとき特有の湿り気があることにも意識が及ぶ。コンビニに行くだけにしても、このまま出るわけにもいかないので、洗面所に移動して顔を洗う。洗顔後、鏡に映った自分の顔を見ると決して美しくはないが、少なくともそれなりに見れる、歩道を歩いていても職質されないぐらいの顔にはなっていた。実際に行動を起こす気力がなくなる前に、財布と鍵とスマホだけをズボンのポケットにねじ込み、ボロボロのスニーカーを履いてから外に出た。
最寄りにある駅近くのコンビニに向かって歩いていると、次第に視界に入る人達が増えていく。本当に都会というものはすごい、と上京してからこれで何回目になるか分からない感想を抱く。街行く人はおろか街灯さえも少ないから、夜歩く時は親から懐中電灯を渡されていた昔のことを思い出す。すれ違ったサラリーマンから濃いタバコの匂いがした。ストレスと不健康を象徴するような匂いがしみ込んだ背広姿、そんなものに対してすら、今は嫉妬心を抱いてしまう。
(やっぱり疲れてるな…)
しゃんとしようと、自分の左こめかみに軽く拳骨を入れた時、ポケットに入れていたスマホが震えた。手に取って画面を見てみる。今日、いや、昨日までは恋人だった女からの着信だった。何だよ今更、と愚痴りながらそれでも心の中ではほんのわずかな期待が生まれてくる。別れ話は気の迷い。もしくはドッキリだった。そんな都合のいい可能性だってほんの僅かには存在している。斜に構えた気持ちが9割、期待が1割、そんな心持でメッセージを確認する。
『私物を部屋に取りに行きたいんだけど、いつなら行っていい?』
知るか。常識で考えろ。永久に来てほしくないに決まってるだろ。
全く以て器が小さいな、と頭の中の理性を司る部分では呆れながら、しかし怒りはとめどなく湧いてくる。感情に任せない形で返信ができるようになるまで時間がかかりそうだったので、後回しにすることにした。着信履歴が他に2件ほど来ていたので、それを確認してみる。1件は親からで、体は大丈夫か、ちゃんと食べているか、こちらは元気である、彼女さんとの結婚はまだか、という内容で、もう1件は旧友が結婚を決めたという内容だった。旧友の方にはおめでとう、とだけ返しておく。親に関しては、深夜なので起こしたくないし、何より会社をクビになった、そのせいで5年付き合った彼女から昨日別れを切り出された、と伝えるのは流石に立つ瀬がなさすぎる。
自然と涙が出そうになるのをこらえたかったので、立ち止まって上を向く。古い歌を参考にした行動だったが、別に何の効果もない。涙が一粒、右頬を垂れていった。すれ違ったOLの集団がこそこそ何か話していたが、気にする余裕はなかった。誰にどんな風に評価されようと少なくとも今は知ったこっちゃない。見上げた先にある都会の夜空は寂しいものだった。涙で見えづらくなっているのが拍車をかけているのかもしれないが、月と、あとほんの僅かばかりの星だけしか確認できない。田舎ならあんなに沢山見えていたのに。上京のデメリットの1つだ。
星もほとんど見えなくなるほど人間が夜働いているのなら、24時間営業の厄除け神社があってもいいよな、とふっと思ったので、反射的にスマホで調べたくなる。だがその欲求を僕はすぐに理性で潰す。もう厄に襲われた後なので意味はない。会社をクビになって、彼女に振られて、挙句の果てにはそんな現実を反映してできたような悪夢にうなされる。厄除けに行くんだとしたらそんな諸々に襲われる前に行くべきである。
神様だってタイムマシンは持っていない。
自分自身に諭すように優しく心の中で呟いてみると、何となくしっくり来て、僕は上に向けていた顔を通常通り、視線が地面と平行になる位置に持っていき、再度歩き始める。眼球にまだ湿り気が残っていたが、すぐに乾きそうなレベルではあった。
僕のいた田舎ですらあったチェーンのコンビニは、都会で地価が高すぎるせいか広さでは田舎のそれと比べて負けている。時間が時間だけに店内に人は2人しかおらず、客はイートインコーナーに少しだけみすぼらしい格好をした老人が座っているだけだった。20代前半ぐらいで茶髪、気だるそうにレジに立っている店員はそんな老人に対して鬱陶しそうな視線を向けていた。
過剰なぐらいにピカピカに照らされた店内を移動し、入店時に手に取ったカゴの中に菓子やおにぎり、カップ麺を入れていく。何となく厳しい現実から気を逸らしたかったので、雑誌コーナーに立ち寄って、良さそうなものがないか数冊手に取ってみる。だが、他人の浮気や恋愛ネタばかりで、すぐに辟易とした。心底くだらないし、何より出版社側が読み手側の薄暗い欲望、悪意に似たものを見抜いたうえで作っているかのような気がして、今の僕には癒しになりそうもない。世間の冷たさが凝り固まった存在にすら思えてくる。
背中に視線を感じたので振り返ってみると、レジの若者がこちらを見つめていた。さっさと出ていってくれ。そんなことを言いたげな顔だった。不安になったので物色していた雑誌の状態を確認するも、気を付けて手に取ってはいたので別に傷ませてしまった感じはしない。まあ、でも、確かにマナーとして良くはないので僕は雑誌コーナーを離れて、買い物を続行する。足りなくなっていたので洗顔クリームや、髭剃りもカゴに入れる。普段ならドラッグストアで、しかもなるべく安売りの時に買うようにしているので散財している気もするが、今は便利さと手軽さに寄りかかってみたかった。
レジにカゴを置くと、店員はいかにもやる気がなさそうに挨拶をし、バーコードを読み取っていく。イートインスペースで飲食する際は申し出ろ、という内容の紙がレジに貼られていたのが目に見えたので、僕は初めてカップ麺を店内で食べる旨申告してみる。店員がほんの少し嫌そうな顔をしたのが見て取れて、申し訳なさを一瞬覚えたが、次いで楽しさに近い感情も生まれてきた。僕は何も悪いことはしていないのだ。堂々とすればよい。
レジ袋を手首に引っ掛けた状態で容器のフィルムを剥がしながらポットを探し当て、残り少なくなっているお湯を容器に入れていく。容器の手触りが子供のころのそれと変わっていることに意識が向いた。プラスチックから紙に変わったのはいつのことだったのか、はっきりと思い出すことができない。だが世界、社会が前向きなのか後ろ向きなのかは分からないが確かに変わり続けていることだけは読み取れて、それが何となく僕に焦りを覚えさせる。用意されている座り心地の悪い椅子に座りながら、時代の流れや自分の年齢のことを考えていると、あっという間に3分が経つ。蓋を開けて割り箸で啜り始めると、味だけは昔から変わっていなくてほっとした。次いで熱いスープを体の中に流し込んでみると、自分の体がいかに冷えていたのかが分かった。まだ夏なのに指先は冷たくて、スープを飲むにしたがってその冷たさは剥がれていった。悪夢のショックがまだ抜けていなかったのかもしれない。
普段なら途中で残すスープを今日は全部飲んでしまう。塩分過多だとは分かっていたが、イートインスペースを使うのが初めてで、どこに捨てればいいのかも分からなかったためだ。ゴミ箱にカップと箸を入れるべく席を立った時、燃えるゴミ専用のゴミ箱の横にラーメンの汁を捨てるためのバケツが用意されていることに気がつく。自分の不注意を指摘されたみたいで軽く落ち込んだが、まあ、この程度のことはよくあることだとため息1つで気持ちをごまかす。こういうやり過ごしの技術だけは年を取ることで自然と習熟してしまっている。そのおかげでメンタルに大ダメージを負った今でも、こうしてコンビニに来れているので悪いことばかりではないが。
子供のころしょっちゅう罹っていた風邪も、大人になるとかかりにくくなる。同じように自分の至らなさや人生のうまくいかなさにも慣れていってしまっているのだろう。それを成長と呼んでもいいような気はした。
コンビニから出ると、相変わらず真っ暗でスマホで時刻を確認してみると、夜明けまではまだ随分あった。その事実を前に何故だか胃のあたりがキュゥと締め付けられるような感覚を覚える。食べたばかりのラーメンを道にぶちまけるわけにもいかないので、その感覚が去るのを僕はひたすら待つ。吐かないように上を向いていると、また夜空の寂しさに気づいてしまう。かつて見たあの見事なまでの星空には遠く及ばない。それがまるで若いころには確かにあった無限の可能性とやらが、少しずつ無くなってしまった結果のように思えて辛い。現実という雀は着々と僕を弱らせることに成功していた。
左太ももを思いきりつねる。しっかりしろ。顔の角度をまた上向きから水平に戻す。街灯に照らされてはいるものの、所々見えづらいところが残る道を歩いていく。店員の鬱陶しそうな視線、旧友の結婚の連絡、家族からの期待、何より彼女からの冷たい態度、それら全てが脳にヘドロのようにへばりついている。
うざい。邪魔だ。
まだ結婚できてないの。
孫の顔は見れそうにないのか。
あんたなんか、いらない。
自分で作り上げた想像上の彼ら彼女ら。そんなものをいつまでも振り払えずにいると、また指先が冷たくなっていく。背筋に何かが這うような悪寒まで走る。それでも半分惰性で脚は家に向かって全力で動いている。その場で蹲らずにそんな行動をとれること自体が実は凄いことなのだ、と自分を慰めた。少なくとも夢の中での何もできない芋虫の状態ではない。いつも通りぐらいの時間でアパートにたどり着けただけで、達成感が湧いてきた。自室の鍵を開けながら、これからやることを考えてみる。
まずは再度ちゃんと食事をして腹を満たし、そして再就職先を見つけるために色々ネットで情報を調べる。
余裕ができたら彼女に連絡する。
疲れたら寝る。もしくは遊ぶ。
とりあえずはたったこれだけでよい。そう思うとこの大したことない、ちっぽけな自分でも何とかこなせる気がする。30歳をとうに超えてできることがそれしかない、というのは情けなくもあったが、それで十分なようにも感じられた。
「人に迷惑をかけんまま、人生を全うできればそれだけでいい」
多分に人生に対する諦めの気持ちもこもった独り言を呟き、その次に歯を軽く食いしばってから、自分の部屋へと入る。扉が閉まる音を背中で受け止めた。
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