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第1章 1 ~はじまり~
「ねえ里美、ストコー寄ってく?」
「あっ、行く」
私立名桜学園三年の戸田里美はクラスメイトの芦川弥生と共に進学塾を出ると、すっかり常連となったコーヒーショップ『ストール・コーヒー』に足を向けた。
時刻は夜の九時。外に出た途端に梅雨特有の湿った空気に包まれ里美は、思わず溜め息をついた。それでも弥生と共に人の流れに乗りショップへと向かう。周りで行き交う人たちは、サラリーマンやOL、そして様々な学生服が入り混じっていた。
何気なく視線を向けると、ビルの窓ガラスに映る自分と目が合った。天王山と呼ばれる夏休みまでまだひと月ある。受験本番はさらに半年以上も先だ。それなのに既にこの疲れ顔……。里美はまたため息をついた。
店内はいつも通りの賑わいだった。屋内外にテーブル席があるこの店は八十人ほどが収容でき、駅からも近く値段も手頃なので若者に人気がある。
屋外の席を確保した二人は座って数秒見つめ合うと、突然ジャンケンを始めた。
「最初はグー。ジャン、ケン、ポン」
里美がグーで弥生がチョキ。
「あーっ、負けたー」
「はーい。いつものよろしくー」
くやしがる弥生を里美は笑顔で送り出す。そしてひとりになると、何気なく周りを見回した。
隣の席には、カップの水滴が水たまりを作っているのにも関わらずスマホに夢中のサラリーマンがいる。反対側には、誰かの悪口で花を咲かせている女子大生らしい四人組。向かいの席では、長袖のブラウスを着た上品なお婆ちゃんが一人、本を読みながらホットコーヒーを美味しそうに飲んでいる。だが圧倒的に学生服が多い。
「お待たせ~」
二人分のフライドポテトとアイスコーヒーをトレイに乗せた弥生が戻ってきた。
「サンキュー。受験生はお腹が空くのよねぇ」
二人はポテトをつまみ、アイスコーヒーを口にした。
「で、模試どうだった? 里美は慶応でしょ?」
「ふふーん。偏差値三十からでも合格してみせるわ」
そう言ってVサインをする。
「ビリギャルかよ。ってか、もともと合格圏じゃん」
「模試は模試。本番で失敗したら意味ないし」
「だよねぇ……。でもまあ、里美には何がなんでも合格して、憧れの田辺先輩とキャンパスライフを楽しむっていう夢があるもんねぇ」
「なっ、またその話?」
顔を赤らめた里美は、弥生が手を伸ばしかけたポテトを先に奪うと、自分の口に放り込んだ。
「あっ」
「あれ? 弥生はダイエット中でしょ?」
弥生は頬を膨らませ目を細めて睨んだが、一転、悪戯っぽい表情で身を乗り出した。
「でもさ、合格したら田辺先輩に捧げるんでしょ? 里美の、だ・い・じ・な・も・の。うふっ」
「うふっ、じゃないし。勝手な妄想でおかしな方に話を持ってくな」
「えー、いいじゃん」弥生は背もたれに寄りかかった。
「それはそうと。サッカー部エースの倉橋から告られたのに、速攻断ったって?」
「え? そ、それは……まぁ」
「別にいいんだけどさ。ただ勿体ないかなって。里美は自分を分かってないんだよ」
「分かってないって?」
「他校の男子から〝名桜の姫〟って呼ばれているの知ってるでしょ?」
「それはその人たちが勝手に……」
「それだけのルックスとスタイルなんだからさ、いろんな男と付き合って、限りあるJKライフを謳歌すればいいのに。今どき一途だなんて、天然記念物ですか?」
「わ、悪かったわね。そんなことより弥生はどうなの? 広岡君と同じ大学狙いでしょ? 弥生こそキャンパスライフが楽しみなんじゃない?」
「そうよ。でも私は里美と違って、もうとっくに済ませてますから」
弥生はテーブルに両肘をつき、両手を頬に当てると首を傾げてウインクした。
「はいはい、そうですか。でもそんな余裕でいると、痛い目見るかもよ」
「せいぜい気をつけまーす。って、もうこんな時間。そろそろ出ないと」
「え? あっ本当だ。行こうか」
束の間の気分転換を終えた二人は駅へと向かった。
渋谷で弥生と別れた里美は、井の頭線に乗り換え最寄りの駅で降りた。あと十分ほど歩けば家に着く。しかし遅い夕飯と入浴を済ませたら部屋に籠って勉強だ。そして数時間の眠りの後に朝を迎える。
そんな毎日の繰り返しを考えると気が重い。
「痛っ」
首筋に痛みを感じたのはそのときだった。そして急に全身の力が抜けてその場に倒れ込むと、そのまま意識を失ってしまった。
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