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第4章 4 ~敵討ち~
「この階段を降りた先になるけれど、本当に大丈夫?」
佐伯の問いに真代は黙って頷いた。隣で大樹と圭が心配そうに見守っている。
とある大学病院。遺体安置室へと続く階段の前。同行している病院のスタッフに案内され、佐伯を先頭に三人はいた。
「突然こんな無理を言って、すみません」
「いいんだ。それより君に全部押し付けるようで申し訳ないと思っている」
真代は無言でゆっくり首を横に振った。実は今でも人違いであって欲しいと思う気持ちが強かった。
「必ず犯人の顔をこの目で見てきます」
「真代、絶対に戻ってこいよ」
「頼むぜ、真代」
「うん」
大樹と圭が真代を見て頷くと、真代も頷き返した。
「じゃあ行こうか」
大樹と圭は応接室で待機することになり、佐伯と真代がスタッフと共に階下へ降りて行った。
遺体安置室の中はひんやりとした空気に包まれていた。
白いコンクリートに囲まれた二十畳程の広さの部屋には窓が一つもない。正面の壁際にはベッド大のキャスター付きテーブルがあり、左右の壁には高さ1メートルくらいの位置に1メートル四方のロッカーのような銀色の扉が五つずつ並んでいる。
スタッフが右側の壁に並ぶ五つの銀扉のうち、真ん中の扉の前にキャスター台を移動させてピタリと壁に縦付けした。台の高さは扉の下側と同じ高さになっている。扉が開けられると同時に、ドライアイスの白い気体が淵からこぼれ落ち台の上に広がった。そして引き出しのような取っ手を引っ張ると、袋に収まった遺体を乗せたトレーがスムーズにキャスター台の上へとスライドしていった。
押し出されたドライアイスの冷気が足元に纏わり付く。
次にスタッフは真代たちの反対側にまわり、袋のチャックを引き始めた。その中から現れたのは、両目に包帯を巻かれた結の変わり果てた姿だった。
「結……」
途端に真代の目から涙が溢れた。両手で口を押さえながら嗚咽し、崩れそうになったところを佐伯に支えられた。
「大丈夫か?」佐伯が真代の両肩を抱いた。
「結っ、ゆいっ、いやああっ!」
人違いであって欲しいという願いは粉々に打ち砕かれた。そして心が悲鳴を上げた。真代は佐伯の胸の中で泣き叫んだ。
「しっかりするんだ」
佐伯の言葉に真代は、胸から顔を離すと唇を強くかみ締め涙を拭いて頷いた。それから深呼吸をして、振り返りキャスター台の上の結を見た。
眼球部分が窪み、血の気と表情を失った結。再び涙がこぼれ落ちる。
スタッフがさらにチャックを引き下ろした。すると、両鎖骨のすぐ下に解剖によるものと思われる生々しい縫合の跡が現れた。
真代は無言でスタッフの手を止め、首を振った。
その気持ちを察したのか、スタッフもチャックからそっと手を離した。
結もこんな姿をこれ以上人目に晒されたくはないはずだ。
佐伯がスタッフに目で合図をして退室してもらった。
真代は涙を拭うと胸元から手鏡を取り出し、左手に握りしめた。そして変わり果てた結をしっかり見据えてもう一度深呼吸をすると、右手で結の肩にそっと触れた。手に伝わる冷たさとこみ上げてくる悲しみと共に、真代は意識を失った。
遺魂の海の砂浜。
起き上がり服についた砂を払うと、手鏡を両手で握り締めた。そして目を閉じ深呼吸をしてから、手鏡の水晶玉を海に向け両手を真っ直ぐに伸ばす。そして心の中で結を呼んだ。
水晶玉がオレンジ色の光を放ち、海の遥か遠くを一筋の光となって示すと、そこから引き寄せられるかのように白い靄のような塊が近付いてきた。
だがそれを見た真代は訝しがった。砂浜に下りたそれは、梢や瀬戸の時と違って人の形を成していなかったからだ。まるで等身大のアメーバーのようだ。
「結……なの?」
真代はそっと、その靄の一端に触れてみた。
その途端、凄まじい轟音が耳を貫いた。驚いて耳を塞いだが、その雷鳴のような、その暴風が唸るような轟音は、頭の中で容赦なく反響して鳴り響く。そして足元の砂浜が崩れ上下の感覚が失われると、底なしの闇へと落ちていった。
「きゃーっ!」
落下しながら結の魂は、真代に襲いかかってきた。
「痛っ!」
靄の一部が真代の左肩に触れただけで激痛が全身を走った。それと同時に頭の中にはコマ落ちした映像が流れ込んできた。
窓一つないレンガ造りの薄汚い部屋。そこに結はいた。大きな台の上に両手両足を拘束具で固定され、仰向けに寝かされている。
「結っ!」
すると結が目を覚ました。そして怯える目で真代を、いや、真代の後ろに視線を向ける。
その視線を追って振り向いた真代は衝撃を受けた。そこにいたのは梢や瀬戸の記憶にもいた、あの黒いローブ着た女だったのだ。これまで以上にフードを深く被っている。
さらにもう一人、小太りでジャージ姿の中年男がいた。坊主頭に丸顔で無精髭のその男は素顔をさらけ出し、女の背後から興奮した目で結を見ていた。
結の魂が真代の右膝を打ち払った。
「痛っ!」
断片的な記憶の映像が、激痛とともに真代の頭の中でぐるぐると回転する。
結の右脇腹がメスで切り裂かれた。
「いやーっ」真代は叫んだ。
女はその切り口に両手を押し込んで、力任せにこじ開ける。
激痛に狂ったようにもがき苦しむ結。
女は開腹したところに顔を突っ込み、臓器を喰い始めた。
口から泡を吹き、全身を大きく痙攣させて悶える結。
「止めてーっ!」
真代は目を閉じ耳を塞いだが、その忌まわしき映像は一方的に流れ続けた。
手足の拘束具が外され、小さく痙攣している結。その目は真っ赤に充血し、飛び出さんばかりに見開かれていた。脇腹にはぽっかりと空洞ができ、どろりとした血塊が台に広がっている。
メスを手にした女が結の顔を覗き込む。
「いや、もう止めてーっ!」
真代の叫びもむなしく、結の両眼球は刳り抜かれてしまった。
「ああ……あ……」
「さあ、運び出しなさい」
女が男に命令した。男は名残惜しそうに結の亡骸を見つめたが、女の視線に気圧されたように慌てて結の亡骸を肩に担いだ。そのまま部屋を出ようとする二人。背に担がれた結のぽっかりと開く二つの窪みと目が合ったとき、真代は霊安室に戻ってきた。
真代は跪き、堪えきれずにその場で嘔吐した。そして体を震わせ、呼吸もままならない状況で、両手で自分の肩を抱き嗚咽した。佐伯に声を掛けられたがその声は届かない。
そんな状態で応接室に連れて来られると、二人は驚きの表情で駆け寄ってきた。
「大丈夫か?」
「顔が真っ青だぜ」
真代は虚を見るような焦点が定まらない目で、震えながら何一つ答えようとしなかった。
「今は休ませた方がいい。この部屋はしばらく使わせてもらえるから横になってて。自分はすぐに戻るから、みんなも一緒にいてくれ」
真代はソファーで震えながら丸くなった。
どうして結が? どうしてあんな惨い殺され方を?
真代の心は、誰の声も届かない闇のさらに奥へと突き落とされた。心が張り裂け、音をたてて崩れた。そして硬く閉ざした深淵の底で一人蹲った。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
暗闇の中で真代は、胸元に伝わるほのかな温かさに気が付いた。あの手鏡だ。胸元から取り出すと、ボロボロになった心を癒そうとするかのように水晶玉が暖かなオレンジ色の光を放っていた。手鏡を胸に抱きしめ、声にならない嗚咽と共に大粒の涙を流した。
覚えのある気配を感じたのはその時だった。
いつの間にか部屋に大樹たちの姿はなく、辺りも暗くなっている。あれから寝てしまい、そのまま夜になってしまったようだ。窓から差し込む月明かりだけが部屋を青白く照らしている。
ゆっくりと上体を起して腰掛けた。
みんなは別の場所で今後の事を話し合っているのだろう。こんなことになってしまったのだ。いくら悔やんでも悔やみきれない。そして実際の死というものに直面して怖くなったのだろう。当然のことだ。
真代はゆっくり背後を振り向いた。
そこにいたのは、やはりあのモンペ姿の少女だった。部屋の隅で俯き佇んでいる。
「あなたは一体誰なの?」
少女は顔を上げた。そしてその頬に涙が伝い落ちると姿が消えそうになった。
「待って。お願い、行かないで」
水晶玉の淡いオレンジ色の光が強まり、部屋中に拡散した。
すると消えかけた少女が姿を戻し、その光をじっと見つめて、
「……サチエ」と呟いた。
「サチエちゃんというのね。私は真代」
しかし次の瞬間、部屋の角に突如闇が現れた。それは瞬く間に大きくなると、巨大な黒い手となってサチエの体を鷲掴みにした。
「サチエちゃんっ!」
恐怖で引きつった顔のサチエが手を伸ばした。真代はその手を掴もうとしたが間に合わず、サチエはあっという間に闇の中へと引きずり込まれてしまった。
一瞬の出来事だった。サチエの姿はもうどこにもなく、代わりに大樹の呼ぶ声がした。
「――大丈夫か? おい、真代?」
ハッとして辺りを見回した。まだ明るい部屋。二人が心配そうに覗き込んでいる。真代は大丈夫だよと仕草で答え、体を起こすと視線を床に落とした。
眠っていたようだ。体中がだるくて心も疲れ切っている。
ちょうどそのとき佐伯が戻ってきた。上着を脱いで袖を捲っている。吐物を掃除してきたのだ。病院の関係者とも少し話をしてきたという。
真代は佐伯に一言謝ってから、悲しみと怒りの感情のまま、見てきたことを伝えた。
疲れているなどと言ってる場合ではない。あの女が結を殺したのだ。今度は間違いなく殺害現場を見た。それに女の顔は見ることは出来なかったが、一緒にいた男の顔ならはっきりと覚えている。
大樹と圭の表情も見る見る強張り、やがて怒りへと変わっていった。
佐伯は書き取ったメモを読み返してから携帯を取り出し、誰かにその内容を伝え始めた。
「……はい。肝臓は摘出されたという訳じゃなくて、つまり……女に食べられたということです。これまでの被害者の傷口から検出されていた口紅や唾液は、そういうことだったんですよ。……そうです。この事はまだ公表されていません。……ええ。検死の結果とも完全に一致しています」
佐伯が一通りの説明を終えると、さっそく真代が見た中年男の似顔絵を作成することになり、警視庁から徳田という一人の警官がやって来た。
真代にとっては断片的な映像から記憶を手繰るという作業だったが、徳田にはかなりの絵心があるようで、出来上がった似顔絵はまさにあの小太りの中年男そのものであった。
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