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俊介は沙耶と付き合い出した頃、よく言っていた。
「お前といると、安心できるからかな。よく、眠れるんだ」
そう言って、眠る姿が好きだった。男性にしては長いまつ毛を眺めたり、かすかな呼吸音に耳を澄ませたりした。
今、その時のように俊介は横たわっていたけど、呼吸音は聞こえなかった。朝の光を浴びて、神々しい姿にも見えた。目を大きく見開いたままなので、手を伸ばしてまぶたを閉じた。思ったより、簡単だった。しばらくまつ毛を眺めていたが、ピクリとも動かなかった。
どうやら、俊介は死んだらしい。救急車を呼んだら、蘇生できるのかもしれない。そうしたら、殺人犯にはならずに済む。
沙耶は首を振った。
俊介が死んだままの方がいい。殺人犯でいい。
そうだ、逃げなきゃ。どこへ?
かくまってくれるような人がいればこんなことにはならなかった。結婚したとたん、変わってしまった俊介のことを説明しても誰も信じてくれなかった。
「大げさ」「いい人じゃない」「暴力を振るわれたわけじゃないんでしょ」「夫婦喧嘩は犬も食わないって」
自由がなく、監視され、家事に不満があれば正座で説教されること三時間。何度も何度も繰り返されても自分が悪いからだと思っていた。
なぜ、逃げ出さなかったんだろう。
朝ご飯がパンでなかったというだけで、首を絞められた。逆らうつもりはなかった。ただ、苦しくて暴れていたら、手に灰皿が触れた。重たいガラスの灰皿を掴んで、俊介を叩いた。その打ちどころが悪かったらしい。動かない俊介を見ていると、鎖から解放されたような気分だ。
「そうだ、北海道にしよう」
新婚旅行に行きたいと言ったら、お金がもったいないと却下された。結局、二人で旅行をすることなく、終わってしまった。
スマホで「死体の隠し方」と検索しようとしてやめた。できるだけ早い方がいい。
リュックに下着を1セットと長袖のシャツとカーディガンを入れた。女らしくないと言われて履いてなかったジーンズに履き替えた。首に痕が残っているので、ストールを巻いた。ありったけの現金を財布に入れると、何だかおかしくなった。いくら使っても文句を言われることはない。
最後にエアコンの冷房を強にすると、沙耶は足取りも軽く、羽田空港に向かった。
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