冥界体験ツアー

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 冥界にでも行くか。  彼女と別れて暇を持て余していた俺は、近年新し物好きのあいだで話題になっているという「冥界体験ツアー」なるものに申し込んだ。なんでも人間が死後に行く場所として、長年天国や極楽に人気が集まりすぎた結果、そろそろ両者は受け入れ困難になっているらしく、冥界や地獄の魅力を知ってもらい死者人口を分散しよう!というムーブメントがあるらしい。  俺は決して善人ではないので天国や極楽に召されることは強く望んじゃいないが、かといって地獄行きは勘弁してほしい。冥界を見学してみて許容範囲なら、死後にそこに行くのも悪くないだろう。普通に綺麗なホームページから申し込みメールを送ったときは、そう軽く考えていた。  集合場所に(おもむ)き、そこからバスで移動するうちに眠りこけ、気づいたときには冥界のひんやりした地面に倒れ伏していた。  ばらばらに目覚めた二十人ほどの参加者を前に、青白い顔をした引率者が「皆さん!」とその陰気な顔色に似合わない快活な大声を上げる。 「冥界へようこそお出でくださいました。ここでは自由行動をして頂けますが、体験するにあたっていくつか注意事項がございます。冥界の食べ物は口にしないこと、怪しい人影や生き物の言うことに耳を貸したり信用したりしないこと。以上お気をつけ下さいませ」  男の言葉が終わるか終わらないかのうちに、静かな歓声を上げながら参加者たちがほの暗い洞窟めいた通路の奥へと進んでいく。彼らの背中を無言で見つめていると、引率の男が声をかけてきた。 「せっかく冥界まで来たのに、あなたは行かれないので?」 「……ひとつ気になったことがあってな。あんたさっき、『冥界までようこそ』って言っていただろう。そんな言い方をするってことは、あんたは冥界の住人だ。違うか?」 「よくお気づきで。そうですよ」相手はにんまりして素直に首肯する。 「だったら、注意事項を口にしたあんた自身も怪しい人間だ。すべての言動は信用ならない。――俺はこう思ったんだよ。これは冥界の体験ツアーなんじゃなく、奥へ行った人間はもう生きて帰れないんじゃないかってね」 「ほう。だとしたら、あなたはどうします?」  思わず舌打ちした。否定しないのなら肯定と同じだ。たぶん、俺の足元はまだ冥界の入り口で、引き返せば元の世界に戻れるはず。この目の前の男だって、ツアー参加者を問答無用で死者の仲間入りさせるするほど卑怯ではないだろう。こいつは性格が悪そうだから、自ら取り返しのつかない状況へ突っ走る生者を観察してほくそ笑んでいるのではなかろうか。  俺は(きびす)を返した。「……帰る」 「然様ですか。では、お気をつけて。その道を光の方へ進めば現世へ帰れますから」  俺は返事もしないまま歩みを進める。内心ではホッとしながら。  数メートルほど戻ったところで、「あ!」と男のやや焦った声が聞こえた。  反射的に振り返ると、焦燥の色などどこにもない、にやあといやらしく笑った男が俺をじっと見ていた。 「ひとつ言い忘れていたことがありました。冥界からお帰りになる際は、決して振り返ってはいけません。日本神話にもある教訓ですが……ご存じなかったみたいですね」  嗚呼。なんてことだ。俺は大声で悪態を吐いた。つもりだったが、声にならなかった。死者の世界で振り向いちゃいけないことくらい、俺でも知っている。騙しやがって、ふざけるな。そう言い募りたかったが、俺の体は意思とは無関係に、ずるずると冥界の奥へとものすごい力で引っ張られていく。 「今日からあなたもお仲間です。冥界へようこそお出でくださいました」  男が言う声がかすかに聞こえて、それきり俺の意識は真っ黒に塗り潰された。  今では現世の記憶も薄くなって、冥界での暮らしをそこそこ楽しんでいる。  俺は目の前に集った人たちに向かって笑顔で声を放った。 「本日は冥界へようこそお出でくださいました。いくつか注意事項がございます――」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加