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その変な旅行代理店を見付けたのは、会社帰りのいつも道だった。
常態化した残業を終えて、満員の終電に飛び乗る。
押しつぶされながら、イヤホンで好きなアーティストの歌声を耳栓代わりにして、指で濁流のような情報をスクロールしながら30分耐えしのぐ。
人をかきわけるようにして、駅でおり、改札を出るころには身も心もよれよれだった。
マンションから一番近いコンビニであまり食べたくもない弁当を無理矢理選び、帰宅する。
手と顔を洗って、部屋着に着替えて、動画を流しながら弁当を食べる。
満腹とともに訪れる睡魔と戦いながら、シャワーを浴び、ベッドにもぐりこめばあっという間に朝である。
ただ、その繰り返し。
別に不満はない。
仕事だって嫌いなわけじゃない。
平日は残業続きでも、土日はきちんと休めるし、夏と冬の長期休暇も交代制とはいえ、1週間はとることができる。
給料もまあまあいい。
結構恵まれている方だと思う。
それでもたまに、ふと、どうしようもなく、自分が空っぽのように感じることがある。
いつの間にか見知らぬ街に迷い込んでしまったかのように、心細くなる。
一体、自分は何処に行こうと思っていたのか。
目的地さえ、思い出せない、迷子。
たまにある、そんな日を、自分は「落とし穴」と勝手に名づけている。
いつも通りにすごす日常を歩いてたはずなのに、気が付いたら落っこちている穴。
こんな時はジタバタしても始まらない。
SNSで見かけて気になっていた新しいカフェにでも行くか、それとも友人にでも連絡するか。そうしてやり過ごしているうちに、いつの間にかに穴から這い上がっている。
その旅行代理店の前を通りかかった時も、絶賛「落とし穴」の中にいた。
そうでなければ、あんな怪しい店に入ることはなかったはずだ。
駅からマンションまでの住宅街の中、時代に取り残されたようなレトロな建物があるのに気付いた。
レンガ作りに、アルミサッシの引き戸という組み合わせは、妙に懐かしさを感じさせた。
引き戸の上に木製の古びた看板がかかっていた。
「うみやま旅行代理店」
そう書いてある。
開け放してるドアの向こうをそっと覗いて見る。暗くてよく中は見えない。
「どうぞおはいり下さい」
奥から低い声が聞こえ、びくりと体をすくませた。
物珍しさに足をとめただけだった。通り過ぎるつもりが、素通りすることもできず、気まずい想いを抱えながら、暗がりの中に足を踏み入れた。
外からの光で真っ暗ではないものの、小さな電灯しか点けていない室内は薄暗かった。
だから最初はわからなかったのだ。
ぬっと奥から現れた影を、随分身長の高い人だなと思っただけだった。
うながされてカウンターの椅子に座ると、丸いころんとしたグラスに入った麦茶が出された。
お礼を言おうとしたところで、叫び声を飲み込んだ。
だって、グラスに添えられていた手は人のものではなかったから。
黒くて毛むくじゃらで、長くて太い爪。
恐る恐る顔を上げる。
熊だ。
目をつぶってもう一度見ても、やっぱり目の前でお茶出ししているのは熊だった。
多分、首回りが白いから、ツキノワグマ。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。
熊が、なぜ? お茶を?
「暑い中、足をお運びいただきありがとうございます」
熊が喋った。
しかも、いい感じのテノール。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
人間、驚きの許容量を越えると、順応するらしい。
お茶はびっくりするほど美味しかった。
「それで、どちらに行かれますか?」
熊が尋ねる。
特に何も考えていなかったため、言葉に詰まって、壁を眺めれば、一枚のポスターが目に止まった。
「そうだ、ふるさとに行こう」
ポスターにはそう、書いてあった。
「京都じゃないんかい」という内心突っこみつつ、このコピー著作権的にOKなのか?などと余計な心配をする。
視線に気付いた熊が、「ああ、こちらのツアーのお申込みですか」と言って、何やら店の阿奥に向かって呼びかけた。
「いや、あの、そういうわけでは…」
誤解を解こうと立ち上がったところで、固まる。
猫だ。
今度は書類を持った猫が出てきた。
三毛猫。
「熊谷さん、どうぞ」
そう言って、猫がすました様子で熊に書類を渡した。
ああ、この熊、熊谷っていうのか。
よく見ると制服らしき右胸に、「熊谷月子」と印字された名札が付いていた。
「三上さん、ありがとう」
そう言って、猫から熊は書類を受け取って、カウンターに広げた。
我に返る。
「いや、あの、まだ行くとは…」
「あら、いやだ、飛田さーん、書くもの持ってきて」
熊がまた奥に向かって叫んだ。
「はいはい、待ってね。朝にはちゃんと置いておいたのに。三上さんね~使って戻さないのは」
高音でけたたましく登場したのは、オウムだった。
オウムからボールペンが差し出される。
オウムと熊が、こちらを見ている。
考えてみて欲しい。
そんな状況で、いや、旅行なんて行く気なんかこれぽっちもないんです。
ただ、冷やかしに入っただけなんです。
って言える度胸のある人間がどれだけいることか。
オウムと熊だ。
それも、キャラクター的なかわいい奴じゃなくてリアル熊とオウム。
ぬいぐるみを抱えてリアル熊を動物園で見た幼稚園児は泣く。
山で熊に会ったら死んだふりだろう。多分。
そんなわけで、泣いたり死んだふりをする代わりに、粛々と書類に記入することになった。
「ありがとうございました。よいご旅行を」
熊と猫とオウムに見送られて、旅行代理店を出た。
一拍二日のふるさとツアー。
3万3千円。
安いのか高いのか分からない、行先も「ふるさと」としかわからない。
そんな謎のツアーに行くことになったのは、夏休みの初日である。
*
出発日の前日、引き出しを開けて安堵ともあきらめともつかない気持ちになった。
あの、ふるさとツアーの申し込み書類は、そこにあった。
変な旅行代理店は夢ではなかったのだ。
まあ、いいか一拍二日だし。
翌朝、必要最低限の荷物をカバンにつめて、指定の集合場所まで向かった。
半信半疑のまま迎えのバスを待つ。
場所はいつもの駅のバス乗り場の50番乗り場とある。
あり得ない。
何故なら、バス乗り場は1~30番までしかないのだ。
仕方がないから、一番最後の30番のバス停の隅っこで待っていた。
何本もバスを見送るうちに不安が募ってくる。
これ、書類の不備なのではないか?
なんせ、猫が持ってきたやつだし…。
問い合わせてみようと、電話番号を探すが、いくらめくっても見付けられなかった。
もうこれは、騙されたんだろうかと、半ば諦めて、何処かでモーニングでも食べて帰ろうか
とまで考えるうちに、そのバスは来た。
バスの正面の行先に「ふるさと」と書いてあるから間違いない。
恐る恐るバスに乗り込み、窓際の席に座る。
そのうちにバラバラと何人か乗り込み、バスはゆっくりと発車した。
駅前通りを抜けて、国道に入って、高速に乗る。
見慣れた景色は遠ざかる。
やっと、「旅行」なのだと思え、少しテンションがあがった。
田畑が増えて郊外に入り、シルエットでしかなかった山が目の前に迫ってきたころ、長いトンネルに入った。
オレンジ色のライトを眺めているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。
シューっというバスのドアが開く音で、目が覚める。
周りを見回すと、すでに他の客は下りてしまったようで姿がなかった。
慌てて荷物を抱えてバスを下りた。
「わあ…」
思わず声が漏れた。
目の前には白く乾いた一本道。
両側は一面の田んぼが何処までも広がっている。
風が吹くたびに稲穂がうねり、緑色のさざ波のようだった。
遠くにはこんもりとした山が見え、その上は青い夏空。
積乱雲をちぎって投げたような、小さな白い雲がいくつかのんびりと浮かんでいる。
静寂を埋めるのは絶え間ない蝉の声。そして足元からは蛙の鳴き声もする。
視界を軽やかに突っ切っていくのは、蜻蛉だ。
大きく息を吸って吐く。
頭や心に付いていた煤のような汚れが落ちていくようだった。
祭りがあるのか、微かに笛の音がした。
間違いなくここは「ふるさと」だった。
行ったこともなければ、知らないところだけれど。
名前を呼ばれた気がして顔を上げる。
見知らぬ懐かしい人が手を振っていた。
私も、力の限り手を振り返し、歩き始めた。
おわり
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