幼馴染

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 今日は高校時代の友人の七周忌だった。僕らはお寺で七回忌の法要を済ませると、そのまま友人の家族たちと一緒に彼の自宅へ向かった。ご両親がせっかくだから家によってくれと誘ってきたからだ。僕らには誘いを断る理由はなかったが、ただ一人だけ確認が必要な人間がいた。友人、つまり亡くなった花山智の生前の恋人だった三村佳代子だ。僕らが佳代子を見て表情を伺うと、彼女はそれを察したのか、顔を上げて笑顔を作ると「私行くよ」と僕らに言った。  七回忌に来たのは智のご家族と、彼の友人だった僕、片岡康介と彼の生前の恋人だった三村佳代子と、あとは僕とともに智の友人であった田崎と清水だ。昔はもっと人数がいたけれど、やはり年月の流れとそれぞれの事情が重なって年々参加者は減り、今年は僕らだけの参加となった。  智の家へそれぞれの車で向かった。やがて車が家に着いて、ご家族が先立って家に入った。それからご両親が玄関に出てきて車を止めて待っていた僕らを、さぁいらっしゃいと手招きをして家に入れてくれた。  お茶の間に着くとご両親は僕らに座るように言って、僕らが座ると妹さんがやってきて僕らに飲み物を出してくれた。ご両親と飲みものを飲みながらいろいろと話をしたけど、二人は智が生きていた頃と全く変わらず接してくれた。彼らは僕らの近況を尋ねて、それに答えて僕らが各々の近況を話すと、両親は笑顔を見せてこう言った。 「田崎くん、結婚おめでとう!智が聞いたらびっくりするわね。あなた達が結婚する年になったなんて!」  そうご両親から祝福された田崎は、顔を真赤にしてそのでかい図体を丸めて頭をポリポリ掻いていた。  ご両親はすっかりあの傷から立ち直ったように僕には思えた。やはり時がすべてを解決してくれたのかも知れないとも思えてきた。だけどそんな推測は極めて危険なことだとも思う。何故なら彼らはもしかしたらそういう演技をしているだけかも知れないからだ。こちらがちょっと踏み込んで余計な事を言ってしまったら、たちまちのうちに隠していた傷がさらけ出されてしまうことだってありうる。僕らにはあの日以降ご両親がどんな事を考えて生きてきたのかはうかがい知れない。確かに僕らはあの日深い傷をうけた。だけどそれは実の家族を失ったご家族の比ではない。そして隣の佳代子も……。ここまで言ったところで察しのいい人は智の死因がわかるかも知れない。そう、僕らの友人花山智は自殺したのだ。  ご両親は智が亡くなってからの事をいろいろと話してくれた。智が突然いなくなった時はショックで何も手がつかなかった。だけど時間が経つにつれてようやく立ち直れた。多分この子がとお母さんが妹さんの方を見て続けた。 「多分この子がいたから私たちやってこれたのよ。この子はまだ幼かったのに泣いてばかりいた私たちを必死に慰めてくれたの。泣いたってお兄ちゃんは戻ってこないんだし。前を向いて生きるしかないって」  そう言い終わるとご両親は涙を流して俯いた。すると妹さんが二人に近づきハンカチを出しながら慰めた。 「ホラホラ泣いたりしない。今日は笑顔でお兄ちゃんを追悼しようって言ったでしょ!」  ご両親は妹さんの言葉にウンウンと頷き、やがて僕らの方を向くとすみませんと謝って来た。僕らはいいえとんでもないですと畏まって返事をしたが、僕らもご家族の会話に智の事を思い出して目頭が熱くなり、特に涙もろい田崎に至っては涙まで流していたけれど、隣の佳代子を見ると彼女は無表情でずっと黙ったままだった。 「よかったら智の部屋見ていかない?まだあの時のままなのよ。せっかくだから智に会ってあげて」  お母さんが突然言い出した。隣のお父さんはそんなお母さんに向かって、「この子達も忙しい間をぬってわざわざ来てくれてるんだ。あんまり引き止めてはいけないよ」と諌めた。だが僕らは別に忙しくはなかったし、何度も遊びに来た古い友人の部屋は是非見ておきたかった。僕らはご両親に向かって逆にこっちから見せてくださいとお願いした。すると両親はありがとうと再び涙ぐみながら礼をいい、また妹さんになだめられていた。  部屋へは妹さんが案内してくれた。彼女と会うのも久しぶりだ。だけど当たり前だけど年月のせいで僕らが会っていた彼女とはまるで別人みたいだった。僕らは彼女の成長ぶりに戸惑い、智の部屋に向かう途中なかなか話しかけられらなかったが、昔から妹さんと仲良くしていた清水のやつが彼女に話しかけた。 「あの、久しぶり。随分かわったね。今は大学いってるの?」 「うん。あの頃と全然かわったでしょ。あの頃はまだ小学生だったし」 「なんかホント大人っぽくなったっていうか。まあ俺らも別人みたいだろ?」  「うん・あ……ゴメンね。おじさんになったとかそういうことじゃなくて」 「ハハハ、まあ俺らも二十代半ばを超えてるし、おっさん扱いされてもしょうがねえや!」 「やだなぁ、人の揚げ足取りなんかやめてよ。でも私の場合周りがすごく大変だったから。実は今でも大変なの。私一人二役やらなきゃいけないから、お兄ちゃんの分までね」  彼女の言葉を聞いて清水も僕らも黙り込んだ。一見明るく生きてそうな彼女にもやはり智の死は暗い影を落としているのだ。彼女は黙りこくった僕らを和ませるためか笑顔でこんな事を言った。 「でも大丈夫だよ。そうやってお兄ちゃんがやってたかも知れないことをやってると、私の中にまだお兄ちゃんが生きてるって感じがしてくるの。でもおかしいよね。お兄ちゃんもう私より年下なのに。あ、もうお部屋だね。お兄ちゃんと会ってあげて」  彼女はそう言って智の部屋の戸を開けて僕らを入れた。  智の部屋は高校時代と全く変わっていなかった。勉強机も本棚にある単行本や漫画もあのときのままだ。僕はここだけは変わらないな、なんて陳腐極まりないことを思わず口に出しそうになったが、田崎の奴が先に口走っていた。 「全く、ここは時が止まったみたいだぜ!アイツと一緒だ」  僕は佳代子を見た。彼女は田崎の言葉に笑みで答えていた。佳代子はこの七年間で傷は癒えたのだろうか。それともまだ智を失った悲しみから立ち直れないのだろうか。僕がそう思いに耽っていると、突然清水が「おい!」と声を上げたのでハッと我に帰り清水を見た。清水は立て掛けてある写真を見ながら言った。 「これってさ、俺達がキャンプ言った時に撮ったやつだよな」  そうだった。あれは高校時代最後の夏の、そして二度と行われることの無いキャンプ旅行の写真だった。写真の中心には肩を寄せて抱き合う智と佳代子がいて、その周りには申し訳程度に僕と田崎と清水が立っている。このキャンプの三ヶ月後に智は自宅の物置で首を吊ったのだ。遺書はなかった。ただ物置に彼の変わり果てた姿があるだけだった。写真の中の智は三ヶ月後に自殺する人間とは思えなぐらい眩しい笑顔で写っている。隣の佳代子も智と同じように笑っている。この流れゆく世界の中で写真の智だけは永遠に変わらずそこにいる。僕は写真を眺めながら変わらぬ智とすっかり変わってしまった自分を比べて妙に切ない気持ちになった。田崎のように結婚とまではいかないけど、僕にも彼女がいてもう二年ぐらいの長い付き合いだ。僕以外はどうなんだろう。結婚予定の田崎は別として、清水や、そして佳代子は。その時田崎のやつがため息を突きながらこう言った。 「ホントにコイツだけは変わらねえよな! 俺たちが色々苦労しながら生きているのによ!」  田崎のため息交じりの言葉に少し驚いた僕は彼に尋ねた。 「どうしたんだよ。そんなため息なんかついて。だってお前結婚するんだろ? 今幸せの絶頂じゃないか」 「と、思うだろ? 他人から見れば確かに幸せの絶頂だよ。だけど違うんだよなあ。結婚が近づいて来るたびにいろんな事を考えちまうんだよ。これでいいんだろうかって。この先俺は一生結婚相手と生きていかなきゃいけない。そして子供が出来たらそいつらも抱えて生きていかなきゃいけない。そういう事を考えたらな。急に未来が真っ暗に思えてきて、自分はこれでよかったのかって後悔の念に囚われるんだ。まぁ自分でも無責任で馬鹿げた考えだと思うよ。でもなぁ、こういきなり何もかもが押し寄せてきて、俺に早く決断を迫ってくるんだ。いやこっちの事情なんか無視して勝手に何でもかんでも押しつけてくるんだよ。まったく逃げ出したくなるぜ!」 「俺はまだ結婚は考えてないからわからないけど、人生ってのは結局そんなもんじゃないか? なんとかやり過ごすしかないんだよ」  僕が田崎にこう言うと、彼は舌打ちして言った。 「そんな事はわかってるんだよ。結局なるがままにしかならねぇってのは。だけどな。バカバカしいかもしれないけどさ。今、無性にあの頃に戻りたいよ。バカでなんも知らなかったあの頃にさ」  そして田崎は智の写真を見て独り言のように呟いた。 「俺はコイツが羨ましいよ。コイツは一番いい時に死んだんだから」  田崎の言葉を聞いて僕らは一斉に田崎を見た。田崎は自分で自分の発言に驚き慌てて口を押さえた。僕は佳代子が心配になって見たが、彼女は目を剥いたまま震えていた。田崎は慌てて僕らに謝り、さらに佳代子に重ねて謝った。その田崎に佳代子は心配ないよと笑顔で答えた。それから僕らは平常に戻り昔話に花を咲かせたが、僕は佳代子が気になってずっと彼女を見ていた。  僕らはそれからしばらく智の部屋で話し、それからご両親と妹さんに挨拶をして帰宅する事になった。ご両親は別れ際に今日は来てくれてありがとうと僕らに向かって涙ながらに頭を下げた。妹さんはそんな両親を泣いたらみんなに失礼でしょと懸命に慰めていた。  帰り際に突然佳代子が僕に話しかけてきた。彼女は僕に少し時間があったら散歩に付き合って欲しいと言ってきた。僕は何事だろうと思ったけど、佳代子を見ていると何か放っておけないように思えた。僕は佳代子に向かって頷くと、田崎と清水に自分と佳代子は別で帰るからと言った。  車で帰る田崎と清水を見送ると僕は佳代子と並んで歩いた。道すがらこうして二人で並んで歩くのって久しぶりだね、と佳代子が言った。たしかに久しぶりだ。僕と佳代子は中学まではずっとこうして並んで歩いていたのだ。 「ねぇ、あのマンションがあった所にに行ってみない?」  とまた佳代子が言ってきたから僕はいいよと頷いた。あのマンションとは僕と佳代子が中学時代まで住んでいた古い賃貸マンションだ。言ってみれば僕と佳代子は幼馴染になるわけだ。そこのマンションで僕らの家族と佳代子の家族は同じ階に住んでいて時々一緒に御飯を食べたりした。小学校から中学を卒業するまで僕らは一緒に学校に行っていた。高校に入ると同時にマンションの取り壊しが決まり、僕と佳代子はそれぞれ別の場所の戸建て住宅に引っ越したのだ。たしかに僕らはよく一緒に学校に通い一緒に遊んだが、別に付き合うとかそういった事は一切なかった。僕と佳代子の関係はただの幼馴染。よく話せる友達以上の関係を越える事は決してなかった。 「この辺かな?」と佳代子にしたがってあちらこちら適当に歩いてると、過去の記憶にぶつかって、その度に僕らは立ち止まった。この通学路は昔から変わっていない。相変わらず古い住宅に挟まれた狭い路地だった。両脇の家々に植えられている木の枝は、路地を昔と変わらずドームみたいに覆っていた。佳代子は何かを見るたびに僕に向かってここ覚えてるとか、まだあったんだとか声をあげた。僕はそんな彼女を見て智が死ぬ前の無邪気だった彼女を思い出して少し嬉しくなった。  僕らは路地を抜けて開けた所に出て、そこから自分たちの住んでいたボロいマンションを探したけど、やはりマンションを見つけることは出来なかった。マンションがあった場所には住宅が並んでいて、その家さえ新築の家ではなく、遠くから見てもところどころ汚れが目立っていて、それが年月を感じさせた。僕と佳代子はしばらくその場に立ってマンションのあった場所を眺めていたが、ふと佳代子がこう呟いた。 「本当に無くなっちゃったんだね」 「まぁ当たり前だよ。マンション取り壊すって言って俺たち追い出されたんだぜ」 「だけど……なんか寂しいな」  それから佳代子は僕に向き直って言った。 「あの、コーちゃん。よかったらもう少し付き合ってくれる?」  佳代子にコーちゃんなんて言われたのはずいぶん久しぶりだった。佳代子は僕のことを小学校から中学校までずっとコーちゃんと呼んでいた。だけど彼女は智と付き合い始めてからいつの間にか僕をただ片岡君と呼ぶようになった。別にその事で今更どうこう言うつもりはない。ただ今久しぶりにコーちゃんと呼ばれてふとその事を思い出してしまっただけだ。僕はまだ智と出会う前にずっと佳代子と遊んでた日々を思い出して少し切なくなった。そう、中三の時たまたま佳代子と同じクラスになった智が彼女に告白して付き合い出す前は僕らの距離は近かったはずだ。たしかあの時困った佳代子の相談に乗ったんだっけ?どうしたらいい?なんて佳代子が聞くから。あの時確か僕はこう言ったはずだ。「自分に正直になれよ」と。それから佳代子は智と付き合い始めた。佳代子はあの時僕に向かって何度も感謝してたっけ。コーちゃんが背中を押してくれなかったら智と付き合えなかったって。 「土手に行きたいんだ」  と佳代子が言った。空を見るともう日は傾いている。僕は佳代子の顔を見て胸が詰まりそうになった。そこにはさっきまでの明るい表情はなく、何かを訴えたいような、泣き出したいようなそんな表情の佳代子がいた。僕はうなずくしかなかった。 「いいさ」  僕は佳代子にとってずっと気軽な相談相手だった。多分恋人だった智よりも佳代子の気持ちを知っていたはずだ。なぜなら彼女は僕には遠慮なしになんでもかんでもぶちまけたからだ。僕は佳代子の壁役だった。佳代子と智に何かあるたびに彼女は僕を土手に呼び出して延々彼女の泣き言や愚痴を聞かされていた。智が自殺するまでは。  土手に登った僕らに傾きかけた太陽の光がまともに当たった。僕と佳代子は思わず目を閉じる。佳代子は僕に向かって眩しいねと言い、僕は笑ってうなずいた。そして僕らは土手に座った。だけど座ると同時に二人とも急に無口になってしまった。佳代子は時々何かを言いたげに僕の顔を見るけど話す勇気がないのか、すぐに顔を背けてしまう。僕もおんなじで彼女に聞くこともできずひたすら前を向いていた。恐らく佳代子は智の事を話したいのだろう。だけどそれは彼女にとっては勿論僕にとっても辛かった。その時佳代子が突然伸びをして深呼吸してから僕に話しかけてきた。 「あの、コーちゃんさぁ。さっき智の部屋で田崎くんが言ってた事なんだけど……」  僕は田崎の言葉を思い出してハッとして慌てて佳代子に向かって田崎の弁護を始めた。 「佳代子も田崎の性格知ってるだろ?別に悪気があって言ってるんじゃないんだよ。ただあいつは無神経なだけなんだよ。脳筋っていうかバカっていうかどっちも同じ意味なんだけど……」 「そうじゃないの。田崎くんが悪気があってああいう事を言ってるんじゃないって事は私にだってわかってるよ。ただ彼の言っていた事を聞いて、こうして今あらためて思い返してみてハッとしたの。智はきっと田崎くんのいう人生というものに絶望して自殺したんじゃないかって。多分智は人生というものについて考えてそれで全てにうんざりして全てを投げ捨て自殺したのよ。この私も含めて」 「佳代子、そんなに自分を責めるなよ。佳代子は何も悪くはないんだから」 「待って、違うのよ。自分を責めるとかそんなんじゃない。私、智が自殺してからずっと彼の自殺の理由を考えてきたんだから」  僕は思わず佳代子の顔をまじまじと見た。そして思わず彼女に聞いた。 「ずっとって?」 「そうずっとなの」  再び僕は佳代子の顔を見た。彼女は眉間にシワを寄せて思いつめた表情で僕を見ている。佳代子は思い切ったかのように軽く息を吐いてから僕に言った。 「あの、コーちゃん。私の話し全部聞いてくれる?」 「いいよ。昔みたいに何でも話せよ。全部聞いてやるから」  佳代子は僕の返事を聞いて安心したようだった。それから彼女はゆっくりと喋りだした。 「智が自殺したって知った時私はもう錯乱して何がなんだかわからなかった。ただ辺り構わず泣きわめいたりして、コーちゃんにも、田崎くんにも、清水くんにも、他のみんなにもいっぱい迷惑かけたよね。みんな私が智の後を追うんじゃないかって心配してたことも知ってる。あの時はああ喚く以外に自分でもどうすることも出来なかった。だってあんなに訳がわからないってことってないじゃない。アイツ自殺の前日に笑ってまた明日なとか言ってたんだよ。なのになんで死んじゃうのよ!ありえないよ!で、自分がようやく落ち着いて来てからあらためて智が自殺した理由をいろいろ考えてみたの。初めはやっぱり自分のせいかなとかそんなこと。でもだって私が嫌になったのなら別れればいい話じゃない。でもおかしいよね。だってどんなにうざくても別ればきれいサッパリ出来るじゃない。私は何度も智に聞いたよ。私が嫌いで自殺したのって。でも当たり前だけど答えてくれないよね。一言お前が嫌だったとでも言って貰えればこっちは少しは楽になれるんだけど」 「そんなはずないだろ。だってアイツおまえと一緒にいてホント楽しそうだったじゃん。智何度も俺に言ってたぜ。俺、佳代子なしじゃ生きて行けないって」 「智は私にも何度もそんなこと言ってたよ。自殺する三日前だってお前と一緒に入られてほんとに良かったって。でもわからないよ。人の考えなんて。自分でさえ自分の考えていることわからないじゃない。アイツだってそうよ。あんな脳天気な顔して本当は一体何を考えていたのかなんて今も全くわからないんだよ。もしかしたら影で苦しんでたのかもしれない。その苦しみを私は気づくことさえ出来なかった。もしかしたら智はさっきの田崎くんみたいなことを考えていたのかもしれない。人生自体嫌になってあんなことをしたんじゃないかって」 「そんなこと考えたって結局答えなんか出ないんじゃないか。だって智はもうここにはいないんだぜ」  口に出した瞬間自分でもマズいことを言ってしまったと思った。だけど僕には耐えられなかったのだ。佳代子が智の自殺について自分を責めているように思えて辛かったのだ。僕は昔の彼女に戻ってほしかった。そんなことは智だって望んではいないはずだと思ってつい余計なことを口走ってしまったのだ。  佳代子は僕の言葉を聞いてビクッと震えてこちらを見た。そして突然僕に向かって叫んだ。 「そんなことわかってるよ!いくらこっちが智の自殺の原因を考えって答えなんかわからないってことぐらい!それにいつまでも智のことなんか引きずってないで先へ進めってことも!私だってそうしたいよ!そして実際にそうしようとしたよ!だけど出来ないんだよ!私には出来なかったんだよ!智のことは歳月が流れれば過去の思い出になるって私だって思ってた!あれから何人かの人と付き合ったし、智のことを過去にできそうな気がした時だってあった!だけどダメだったんだよ!私がこれで未来へ進めるって思った時絶対に智が現れるの。そして自分を忘れないでって泣き言いうの!もう病気だよ!あんなヤツのことなんか忘れたいのに忘れることが出来ないんだよ!智は私の中に今も生きていて離れようとしても離れてくれないのよ!理由も言わないで勝手に死んどいて、自分を忘れないでくれって?ふざけんなよ!私どうしたらいいの?どうしたら智を忘れられるのよ!教えてよ!」  僕はずっと佳代子が好きだった。彼女が智と付き合い出してからもその気持は変わらなかった。佳代子のことは智なんかよりはるかに知ってるし、智よりもずっと多くの時間を彼女と一緒に過ごしてきた。だけど僕はその気持をずっと隠して佳代子の良き相談相手を演じていた。彼女が智に告白されて相談に来たときも、僕は彼女も智も好きだということを知りながら相談に乗った。僕は佳代子が智と付き合い始めたと知ったときも笑顔で良かったねと声をかけた。僕は何があっても佳代子の良き相談相手を演じていた。それが僕の彼女に対する精一杯の思いだった。もし、僕に勇気があって智よりも先に佳代子に告白したらどうなっていただろう。僕は佳代子を救いたかった。佳代子を苦しめている智から彼女を奪って逃げ出したかった。もう一度あの頃に戻ろう。僕は今目の前で震えて立っている佳代子を抱きしめたかった。抱きしめて僕が君を守るって言って上げたかった。僕は佳代子を見た。佳代子も僕を見る。しかし佳代子は急に平静に戻ると僕に向かって笑った。 「コーちゃん。そういえば彼女いるんだよね。どんな人?」  いきなりの質問に僕が戸惑っているところに佳代子は続けて言った。 「彼女に心配かけられないよね。もう日が落ちるし早く帰らなきゃ」  それは佳代子の無意識の徹底的な拒絶だった。彼女は今も智が自殺したあの頃の世界にいる。そして今も智の自殺について自分を責めている。僕は佳代子との間に深い断絶があるのに気づいた。もう僕はあの頃に戻れないし、もし戻って佳代子を智の手から救おうとしても二人の姿さえ見つける事はできないだろう。なぜなら智のことは僕にとっては過去の思い出になってしまっているし、今や智の顔の輪郭さえハッキリと思い浮かべることができないのだ。人間は常に自分の都合のいいように記憶を改変するとはよく聞く話だ。僕もまたそれと気づかず智の記憶を自分の都合のいいように改変し続けているのだろう。僕にはもう佳代子のようにあの頃の智を見ることはできない。ただ自分に都合よくこさえた記憶の中の智を思い浮かべるだけだ。 「ホントにおじさんとおばさんのとこには挨拶にいかないの?」 「この間も寄ったし、今言ってもまた来たのって言われるだけだよ。佳代子は寄ってくの?」 「うん、今日は自宅に帰るつもりだったけど、久しぶりに来てみたら懐かしくなってもう少しいたくなっちゃった」  駅へと向かう道すがら僕と佳代子はこんなたわいもない会話をした。そして僕らは駅に着き僕が改札に入ろうとした時佳代子が僕に向かって言った。 「彼女を大切にするんだよ。絶対浮気したらダメなんだから」  僕はいつものように佳代子に向かって笑顔で応えた。  もうすっかり日が暮れた駅のホームに僕は入り、まだ改札の向こう側にいる佳代子を見た。しばらく待ってると電車が来たので僕は佳代子に手を振って電車に乗った。やがて電車は動き出して家へと帰る僕とここに残る佳代子を引き離していくだろう。電車からはもう彼女の姿は見えない。こうしてあらゆるものは目の前から去り、いずれただの思い出になってしまうのだろう。佳代子の姿もやがて思い出になり、そして全てが消えていく。 《完》
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!