五 楽園の住人

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 いずれにしろ、だとしたらその正体を確かめられれば、安富達をもとに戻す方法もわかるかもしれないのだが、幸か不幸か実のほとんどは村人達に食べ尽くされ、わずかに残っていたものも燻る炎で樹ごと黒焦げになってしまった。  残念ながら、今やその正体は闇の中である……安富達の治療は、現代医学の進歩と医師の努力に任せるしかないのであろう。 「あの時、なぜ兄はあんなことをしたんでしょう?」  ずっと疑問に思っていた、安富が〝生命の樹〟に火をつけた理由を恵麻が問う。 「さあ……確かなことは言えないが、ひょっとしたら、わずかに彼の中に残っていた人の理性が、彼をああした行動に駆り立てたのかもしれないな……」  その問いに、太野は顎に手をやって宙を眺めると、少し考えてからそう答えた。 「無論、ただの気まぐれにしただけのことなのかもしれないが……ただ一つ言えることは、智慧の樹の実を食べてこその人間だということだ」  続いて太野はそう(うそぶ)くと、本殿の階段に腰掛けて惚ける、なんの悩みもなさそうな顔の羽田宮司と安富の方を見つめる。 「ま、知恵の樹の実を拒絶し、再び楽園の住人となった彼らの方が、知恵ある人間なんかよりもよっぽど幸せなのかもしれないがね……」  そして、自嘲気味に笑みを浮かべると、どこか羨ましそうな口ぶりをしてそう付け加えた。 「さて、そろそろバスの来る時間だ。私はこれで失礼するよ」 「道中お気をつけて。また、いつでも遊びに来てくださいね」  しばしの立ち話を終えた太野は改めて恵麻と別れの言葉を交わし、バス停へと向かうために踵を返す。 「さて、この俄かには信じ難き隠れキリシタンの新発見事例、どうやって学会に報告をしたものか……下手をすれば私が異端呼ばわりされかねないからな……」  そのまま鳥居を潜ると長い石段を下りながら、太野は学者ならではの、そんな悩みを人知れず口にした。 (そうだ、パライソさ行くだ! 了)
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