会いに行くよ。

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会いに行くよ。

「別れよっか」 遠距離で一年付き合ってきた義隆と定期の電話でしゃべっているとき言われた。 突然の宣告に思考が止まった。 「だって会えないし」 「一ヶ月に一度は会えてたじゃない」 義隆が続けた言葉に反論する。 そうだよ。 一ヶ月に一度だったけど、会えてたじゃない。 義隆が来てくれることもあったけど、主に私が会いに行ってた。 だって。 会いたかったから。 会いたかったからだよ? 「俺はもっと会いたかった」 自然と過去形になっている言葉を聞かないふりをして蓋をしたかった。 でも。 「だから、もう別れよ」 一方的にシャッターがおろされ会話が強制終了になった。 残ったのは耳元に、ツーツーツーという機械音だけ。 * 好きで遠距離恋愛なんてしていたわけじゃない。 大学時代に知り合って付き合い始めたのだから。 互いに実家暮らしで、順調につきあっていた。 漠然と、結婚するならこの人かな、という未来を予想して。 義隆は就職先での異動のタイミングで転勤になっただけ。 私はそのまま地元の会社に残っただけ。 義隆の転勤があることは就職時になんとなくわかっていたけれど、はっきり聞かなかった。 ──こわくって。 大事なことを聞かずに胸にしまいながら過ごすのは悪い癖だってわかっていた。 だけど、義隆との確かな約束もなく地元を離れて再就職をする勇気もなくて。 とはいえ、遠距離で一年過ごして、互いの自由時間も大切にできることに気づき。 これもいいかもしれないと思い始めた矢先のこの別れ話。 「『もっと会いたかった』ってそんなのこっちのセリフだよ」 スマホにむかって声がでていた。 誰も聞いていないのに。 じんわりでてくる涙と鼻の奥のツンとした痛み。 「じゃあ会いにきてくれたらよかったのに」 今更言っても意味のない言葉がでてくる。 本当はもっと。 もっとはやく義隆に伝えないといけなかったの? それを言わなかった私が悪いの? ぐるぐると思考がめぐる。 * 「それはね、美穂子は悪くないと思う」 「う、ん。悪くないかな? それももうわかんなくて。会えないって言われちゃう私に魅力がなかったんだって結論になっちゃって。どう考えても」 「ちょっと待って、自虐的すぎる。そんな卑下してどうするの」 同じ部署の三原多美がお弁当のハンバーグを箸でつまみながら憤った声をあげた。 私は、うつむいて鼻をすする。食欲がない。今日もヨーグルトしか口にできない。 「美穂子を泣かせるとかだめでしょ。結構頑張ってたと思う。一年も通ってたじゃん」 「だって行かないと会えなかったから」 「そこ! 美穂子が行くことが前提だったでしょ? そんなの続かないんだよ。せめて真ん中で会うとか。あっちからも来てもらうとか。──そういう取り決めっていうか約束してた?」 沈黙。 そんな約束したことがなくて。だってこわくて。 言い出すことがこわくって。 「会いたいとか言い出したら迷惑がられるって思ってたんじゃないの?」 図星。図星をさされて奥歯をぐっと噛みしめた。自然と横に一文字になった口元に、多美が人差し指を押し当ててくる。そしてふうっと深く息を吐き、戻した指先でペットボトルを開ける。お茶を一口飲んで、多美が口を開いた。 「そのぎゅぎゅっとした口をゆるめて、会いたいって言ってたらよかったんじゃない?」 「だって。わがままって言ったらいけないと思ってて」 「言わずにいたから結局だめになったんでしょ?」 「言ってもよかったのかな」 「それはわからないけど。気持ちを押し殺したらだめ。どっちかがちょっとでも我慢してる未来なんてなんにも楽しくないじゃない?」 「がまん」 「そうだよ、少なくとも結婚考えるとき。小さな我慢も見過ごしたらだめだよ? それって大きな火種になるからね」 * 四歳上の既婚者である多美の言葉は耳に痛くて、胸にささった。 本当に、そう。 我慢なんてしないで。 はっきりと言いたいことを言って付き合っていればよかった。 どうせ別れを切り出されてしまうんなら。 本音をはっきり、言えばよかった。 ──言いたい。 今からでも、言いたい。 義隆のところに行ったら、それこそ迷惑だろうか。 でも、会って、言いたい。 多美に言ったら絶対に怒られそうだ。 どうしよう。 会って、これで最後になってもいいから。 義隆のところに行きたい。 そうだ。こんなこと我慢したらだめだ。 最後、なんだから。 義隆のところに行こう。 そう決めた。絶対に行こう。 今週、有給をとれるタイミングはあさって。木曜日と金曜日だ。 有給申請を出して、自席の卓上カレンダーに大きく二つ、○を打った。 * 多美が広報をしたのか余計なことを言ったのか。 同じ部内の同僚、竹内くんが私の席にやってきた。 いつもは世間話なんてしないのだけど。 「笹井さん、ヨーグルト好きなんだって?」 「え? ああ、うん」 「ヨーグルトばっかり食べてるって聞いたけど」 「ああ、そうなの。うん、そうなの! そう。ヨーグルトにはまっちゃって」 失恋して食欲がないなんて言えず、『ヨーグルト大好き』を全面に押し出して明るい声でこたえてみせた。すると竹内くんが一歩、距離を縮める勢いで話し出した。 「じゃあさ、おすすめの商品おしえてくれない?」 「え?」 竹内くんの突然の提案。 「俺さ、飲み会の後でヨーグルト買うんだけど」 「そうなの?」 「そ。いつも買って帰るんだけど」 なんだろう。どんな会話の展開なんだろう。私は先の読めない会話に少しドキドキしていた。だって別にヨーグルトが特別好きってわけじゃないもの。 たまたま、義隆のことで食欲がなくて、他に食べられるものがないだけだもの。 「酒飲んだ後で食べるならどんなヨーグルトがいいかなって思って」 「えええ? えっと、お酒のあと、かあ」 困った。 飲み会の後でさらに何か食べたりしないもの。 甘いものとか買って帰ったりしないもの。 「んんっとねえ」 ここのところ食べているヨーグルトを頭に思い浮かべる。 右のこめかみに指をあてて考える。視線が宙をさまよってしまう。 「そうだ、いちごとかブルーベリーの入ったのはどう?」 「いいね、それって固めなの?」 「どうだったかな? えっとね」 目を閉じて一生懸命考えていたら、竹内くんがくすりと笑う声が聞こえた。 ぱっと目を開けて彼の顔を見る。口元を右手で覆って肩を震わせていた。 「あ、からかってるの?」 思わず声が出てしまう。もう。真剣に考えてたのに! 口をとがらせてしまっているのが自分でわかるのだけれど、竹内くんが今にも声に出して笑い出しそうで、私の咎める声もあとに引けなくなった。 「ごめんごめん、あんまり真剣だから」 「だって聞かれたから真剣になるよ」 「そういうとこ」 「え? どういうとこ?」 聞き返したけれど、聞こえなかったのかな。 竹内くんは顔の前でひらひらと手をふると、なんでもないよ、ありがとう、と呟いた。 * そういえば。 ヨーグルトのことを考えているとき、義隆のことを忘れている自分に気がついた。 竹内くんにはからかわれたけど、ちょっとよかったって思える。 翌日。水曜日。 ヨーグルトと小さめのおにぎりをお弁当として持ってきた。 朝出勤して、それを会社の冷蔵庫にしまっているとき。 「笹井さん、これ」 後ろから声がして、目の前ににょきっとコンビニのビニル袋が差し出された。 振り向くと、竹内くんがにこにこと笑っている。 「なに?」 「昨日のお礼」 「え?」 何かが入った袋を手にもたされる。 押し返すタイミングもみつけられなくて受け取ってしまった。 袋の中をガサガサと探ると、いちごやキウイ、ブルーベリーの入ったパッケージ。 そういうヨーグルトが三つも入っていた。 「これ、全部?」 「ん。どうぞ」 「ああえっと」 言葉を濁して、首を傾げる。 「ごめんね、せっかくだけど明日からお休みするの。木金で。だから、賞味期限が」 「二日も? っていうか土日もか。どっかいくの?」 「えっと」 「あ」 竹内くんが黙り込んだ。 眼鏡を少し押し上げながら、聞いてくる。 「彼のとこ、行くの?」 「あ、うん」 正解を言われ、ごまかすことも忘れて頷いた。 「ふうん」 それきりまた竹内くんは黙ってしまった。 何? なんだろう? 空気が冷えた気がする。 さっさと離れよう。 私は、じゃあ、と会釈して竹内くんの横をすり抜け自席へ戻った。 * 義隆に連絡をしようと思ったけれど、できなかった。 どうせ別れるのなら嫌われてもいいと思ったけれど、でも。 でもそこまで振り切れない自分もいる。 連絡をして、返事がこなかったら? 来るなって言われたら? こわいこわいこわいこわい。 いつも義隆のアパートに行ったら泊まってきていた。 けれど今回はさすがに無理だろう。 でも。 もしかしたらの可能性を信じお泊まりの用意もして荷物をつめる。 連絡もしないで行くなんて、一年間で、ううん、大学時代から考えたって数えるほどしかなかった。いつだって私から会いたかっただけだった。 好きなのは私だけだったのかもしれない。 * 有給の理由を問いただされ多美にだけは渋々教えた。 案の定怒った顔で多美が声を荒げる。 「ばかね、ほんとに行くの? あいつ待ってないよ?」 「……そんなにはっきり言わないで。わかってるもん。わかってるけど」 ぐさっと胸に突き刺さる多美の言葉は、もちろん予想したとおりで。 自分自身でもシミュレーションして、十分傷つく準備をしていたはずなのに。 やっぱりきつい。苦しい。 わかっていることだから、余計に苦しい。 でも。 「でも、行きたい。はっきり言いたい。もっともっと会いたかったって。会いにきてほしかったって。ちゃんと言いたい。もう別れることは決まったことかもしれないけど、これだけは、行って顔を見てちゃんと伝えたいの」 多美の目をまっすぐに見る。 じいっと見つめ合って目をそらさずにいると、多美が大きな大きなため息をついた。 「傷つくだけじゃない?」 「いいの」 少しかぶせるくらいの勢いで答える。 そう。いいの。 これくらいの気持ちでいないと、足が止まってしまう。 だめだ。 足を止めたらだめ。 義隆とちゃんと向き合わないと。 向き合わないと、ずっと私、止まったまま迷子になってしまいそう。 「しょうがないなあ。いっておいで。骨は拾ってあげるから」 「やだ、死なないよ」 「あたりまえだよ、ふてぶてしく大きくなって帰っておいで」 「ふてぶてしくって。もう!」 私たちは二人で目を合わせて吹き出した。 優しい励ましに胸がぎゅっとなる。 * 『ヨーグルト用意しておくから』 『ありがとね。いってきます』 翌日の木曜日の昼。 多美と文字で会話をして、私は家をでた。 ヨーグルトか。食欲なくて心配かけてるからな。 あ、そういえば竹内くんのヨーグルト、賞味期限大丈夫かしら。 そんなことを考えて電車に乗る。 車窓から見える景色が緑の田畑からビルにかわる。次第に高層のビルばかりになってきた。 何度も通ったな。 きっと、今日が最後。 義隆に会いに行くのは、きっともう最後。 景色を目に焼き付ける。 こんな恋愛をしていたことを忘れないように、ちゃんとおぼえていられるように。 もしも次に恋をしたときに、同じことにならないように。 しっかりと目に焼き付ける。 * 義隆が仕事から帰るころを見計らって、私は義隆のアパートで彼を待った。 アパート入り口の郵便受けの前でうつむいて立つ。 もう義隆の部屋の前にいてはいけない気がして。 人が来たように感じ、はっとして顔を上げた。 義隆じゃない。別の部屋の男性か。 ほっとして胸を撫でる。 ほっとして? ほっとしている自分に苦笑する。 ほっとするくらいなら来ないほうがよかったんじゃないの? 何度も何度も自分に聞いて、でも帰れなかった。 彼のところに来たかったのだから。 そうして静かに何人かの背中を見送ったころ。 「今日は煮込みハンバーグにするよー」 「それいいね、楽しみ」 男女の明るい声で私ははっと顔を上げた。 聞いたことのある声。 私の前を通りすぎていくカップル。 男性のほうは確かに私の彼だった、義隆本人だった。 彼はちらりと私をみて驚いた顔をした。 まるで幽霊をみつけてしまったみたいな目で。 そんな視線、ほしくなかったけれど。 腕を組んだ彼女のほうが義隆の顔をのぞき込み、私と見比べた。 「知ってる人?」 「いいや、ぜんぜん」 その返答ですべてが終わった。 終わったことがわかった。 立ち止まりもせず振り返りもせずに、二人はアパートに入っていった。 顔がかあっと紅潮しているのを感じた。 頭に血が上るってこういうことか。 「もういい! 私ばかみたい! さよなら!」 二人の背中に向かって大声で叫ぶ。 こんなことを叫んでしまって、あとで修羅場になるんじゃないか。 そんな考えがちらっと浮かんだけれど。 もういい。 どうにでもなれ。 目頭が熱い。 くるりと踵をかえし、走り出す。 もう二度と、絶対に、会いになんてこない。 * 土日は家で膝を抱えてすごした。 月曜日、待ち構えていた多美に曖昧に笑ってみせた。 一応先に『ヨーグルトお願い』って連絡はいれていた。 だからいろいろ予想していてくれたと思う。 それこそ最悪なこと全部。 最悪中の最悪なこと。 『新しい彼女ができていたから私なんてもう用済みだった』ってこと。 『もっと会いたかった』なんてただの別れる口実だったってこと。 お昼休みにさらりとそう伝えると多美は目を白黒させて怒ってくれた。 「もーう、最低! 美穂子そんなやつと別れて正解! 正解だったんだからね!」 ヨーグルトを一口食べながら、多美のあまりの勢いに吹き出してしまった。 「ありがと。きっと私よりも怒ってくれると思って。ちょっと悲しいけど大丈夫。だって多美がいてくれるから」 悔しくて悲しくてせっかく会いにいったのに、決定打を見せつけられて逃げ帰ってきて。 考えて考えて、やっぱり悲しかったけれどもう戻りたいとは思わない。 もう義隆の中で終わったことになっていて、私なんて義隆の中にいないんだってよくわかった。私を見ているのに、知らない人を見る目だった。あの時の義隆の目。 あんなふうに腕を組んで可愛く甘えられる女性が好きなんだ、本当は。 私とは違うタイプの女性が、本当は。 そう思うと少しすっきりした。タイプが違うんだから仕方ない。もう、仕方ないんだ。 好きだった気持ちを涙と一緒に出してしまった。ほんとはもっと会いにきてほしかった、なんて未練がましい言葉も全部。涙と一緒に出ていった。 家で涙をいっぱい出し切ってきたから、職場ではもう流す涙もでてこない。 そうは思っていたけれど、多美が怒ってくれて少し鼻の奥がツンとした。 でもこれはもう、悔しいとか悲しいとかじゃなくて。 多美へのありがとうの涙。 「ありがと、ほんとうに」 ヨーグルトも多美が持ってきてくれたのだ。 食欲だけはまだ回復しなくって、どうしてもヨーグルトしか食べられない。 そう伝えていたから。 「あ、そのヨーグルトはね。私じゃなくて竹内くんが」 「え」 竹内くん? まさか、あの時のヨーグルト? 「ちがうちがう、先週の分はもう私がもらって帰ったの。だからこれは今日、竹内くんが新しく用意してきてくれたの」 「なんでそんな親切、私に?」 「さあ? ヨーグルトのお礼のヨーグルトって言ってたわよ」 お礼のお礼? なんだかよくわからないけれど、まあいいか。 いちごが入っていておいしいヨーグルトだった。 おいしいと思える。 だから、私は大丈夫。 「そうだ、竹内くんのところにお礼に行こう」 ヨーグルトを食べながら呟くと、多美がうんうんと頷いた。 「うん、行ってあげて。喜ぶから」 「そうなの? 喜ぶの?」 そんなにお礼を待ってるのかな? じゃあはやく行ってあげよう。 「ほら、すぐに行っておいで」 「うん、そうだね」 多美の言葉に背中を押されて私は席をたった。 竹内くんに、ありがとうおいしかったよって伝えるために。 そうだ。 『どのヨーグルトが気に入ったの?』 これも聞いておこう。 今度は私がお礼のお礼をするために。 喜んでくれる竹内くんの顔を想像してみる。 おお。 想像の中で、眼鏡の奥の細い目がますます細くなった。 ──結構、可愛いかもしれない。 なんて思って。 私はくすっと笑ってしまった。
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