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序章
そうだ、美術館に行こう──何の前触れもなくそう思った。
ただの美術館じゃない。現代美術で、それでいて昭和後期から平成初期の間に作られたような、独特な雰囲気を醸し出した作品を観に行きたい。世間への怒りや畏怖というか、幼少期の写真をひっくり返した時の郷愁感というか、上手く言語化できないあの空気の欲求を、僕は今すぐにでも満たしたくなった。
善は急げだ──その一心でバスと電車を交互に乗り継ぎ、一番近所の現代美術館へ足を踏み入れる。
入場券を握りしめて先を進むと、そこには長く薄暗い廊下が伸びていた。左右には額縁の中から生えた石膏の手。まるで客を絵の世界へ引きずり込むように、目一杯こちらへと伸びていた。一瞬ぞくっとしたものの、本物じゃないと判れば流石に怖くない。
廊下を抜けた先は、展示品が幾つか点在する大広間だった。足の生えた音符。蔦を渦巻き状に巻く口の付いた花。二立歩行の犬と、目の前に置かれた人間の檻。作品達から発せられるどこか不気味な空気は、肺の辺りをきゅっと締め付けて、じんわりと全身に広がる。
隣の部屋は、驚くことに夕陽色の教室だった。一定の距離間で机が設置され、上に花瓶が置かれたり、椅子に妙な形の石像を座らせたりしている。これも何かの暗喩だろうか。部屋全体を見渡しながら、頭の片隅でそんなことを考えた。
その時、だった。
黒板のかかっている方角へ、不意に人の気配を感じ取った。
固唾を呑み、振り返る。
白いワンピースを身に纏った、十二歳程の容姿の少女。
人形のようなその長髪は、アルビノだった。
「……へえぇ、ちょっとビックリしちゃった。まさか本当にまた会えるなんて」
驚いたように少女は目を見開いた。瞬間、自分の見ている世界がぐにゃりと歪み、思わず足がよろけてしまう。倒れる──そう自覚したところで、背後の壁に手をついた。
「うふふふ、結構嬉しいかも。けど、このままだとまだ満足できないかな」
突如、周囲に旋風が巻き起こる。
反射的に腕で顔を覆う。おかしい。この部屋には確かに硝子窓が付いているけどあくまで絵画であって本物じゃない。空調はあるものの強い風が入り込む余地なんて一切ないはずなのに。
「早くわたしを迎えに来てよ、かなとくん。胸の奥底のもっと奥で、待ってるから」
遮られた視界の先で、少女の声がやけにはっきりと響いた。
それから間も無く、しんと風が凪ぐ。目の先に広がっていたのは、夕暮れの教室を模した先程と同じ部屋だった。唯一の違いを見せつけるように、机の足元で一つの花瓶だったものが破片の混ざった水溜まりを広げていた。
偽物の硝子窓の向こうで、夕焼け空がより一層大きくなった気がした。
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