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何が起きたのか、理解できなかった。
突然現れた謎の少女。歪んだ視界。何処からともなく吹き荒んだ一陣の風。状況を整理しようにも、それぞれのピースの形が歪すぎて上手く当て嵌まらない。
あの子は何なんだ。どうして僕の名前を知っている。
ショルダーバッグのベルトを握りしめ、早足で教室を後にする。あの少女のことは何も知らない。さっき見た光景も、全部幻覚に違いない。先程まで眺めていた美術館の展示品がやけに大きく感じられるのも、恐らくパニックに陥って気が立っている所為だ。
大広間を突っ切り、あの真っ暗で長い廊下に差し掛かろうとする。こんな場所、一刻も早く抜け出さなければ。あの道さえ走り抜けてしまえばいい。
それで全てが解決する。そのはず、だった。
廊下の入口で突如白い物体が密集し、やけに生柔らかい感触が僕を後方へと退ける。
鼻先の鈍痛と、次いで来るお尻への衝撃。だらりと赤い液体を鼻から垂らした直後、即座に入ってくる視覚への情報に思わず戦慄した。
入口を塞いでいたのは、腕の集合体だった。他の腕と入り乱れながら、白い壁となって僕を威圧している。うようよと蠢くそれらは、狭い場所に密集するミミズを連想させる。幼少期にはっきりと焼きついた、耐え難いトラウマの一つだ。
ぞわっ、と悪寒が背中を駆け巡る。それからすぐに逃げる選択をしたのが正しかった。地面を蹴ったのと同時に、鈍い轟音が背後を劈いた。
後ろを振り返って、今度ははっきりと甲高い声が出た。ついさっきまで僕が尻餅を突いていた場所で、腕の壁が大きな戦鎚となって床にめり込んでいた。そこから更に派生して伸びてくる小さな腕達。もう廊下から離れる以外に、選択肢は残されていなかった。
腕に掴まれないよう、ジグザグに館内を逃走する。回避したすぐ横を腕が通過し、壁や柱に突き刺さる。その有様を目にする度に小さく悲鳴を上げる。あれに掴まれたら、もしくは身体を貫かれたらどうなるのだろう。したくもない想像が背中を冷や汗で滲ませる。
だが、地獄絵図はこれで終わりではなかった。
僕が足を踏み込むはずだった、数歩先の場所。そこへ横から巨大な花が伸びてきて、思い切り口を閉ざした。カツン、と硬い歯の音が足を止めた先で響き渡った。
その直後、今度は逃げてきた方角から乱暴な足音が聞こえてくる。徐々に大きくなる地響き。即座に振り返ると、足を生やした巨大な音符が意気揚々と飛び跳ねるようにこちらへ接近してきていた。
本能によるものか、脳内で閃光が迸り反射的に身体が動き出す。巨大な物音と、土埃が後方で二つ。なんてことだ。逃げるべき敵が二体も増えてしまった。
訳が解らない。僕が一体何をしたと言うんだ。
廊下から伸びる腕、口のついた巨大植物、足の生えた音符……処理し切れない頭の中で辛うじて結び付く共通点が一つ。
これらはみんな、さっきまで僕が観ていた美術館の展示品達だ。仕組みは判らない。襲う動機も理解できない。ただ、目の前で起きている事象の数々がそれを証明している。
先程までは生きている感じはしなかったのに、どうして急に?
考えられる要因は……あのアルビノの少女だ。
──早くわたしを迎えに来てよ、かなと。胸の奥底のもっと奥で、待ってるから。
彼女の言い残した言葉、あれが唯一の手がかりだ。胸の奥底、というのが引っ掛かるものの、この美術館の何処かに居るのはほぼ間違いない。きっとあの子を見つけて、僕のよく知る世界に戻してもらうしか生きて帰る方法はないのだろう。
となれば、行くべきは出口の反対方向……絶対にあの少女を見つけ出す。見つけ出して、事細かに情報を聞き出す。今思いつく解決策はそれしかない。
覚束ない足取りを確実な一歩へと踏み替え、美術館の奥へと身体を向けた。
止めどない期待と重圧感から逃避する──手の群れから逃げ続ける今の状況が、何故か頭の奥底に隠していた黒歴史を想起させた。
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