さよならを告げる為に

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「そうだ、あの湖に行こう」 そう提案したのは僕だった。 あの湖……それは、妻がまだ恋人だった時に二人で旅行した場所だった。 3年前の夏の日、そこで僕は彼女にプロポーズをした。 彼女は微笑んでそれを受け入れてくれた。 あの頃は幸せだった。 何も知らなかったから。 何も知らないままでいられたら、今でも僕は幸せだったんだろうか。 ──否、全てはもう過去のことだ。考えても仕方ない。 僕は、妻と別れる決心をしたのだ。 妻は、外見はとても美しい人だった。 軽く微笑むだけで、容易く男を誘い込むことができる。 そんな彼女が、暗くて冴えない僕と結婚してくれるなんて本当に夢のようだった。 彼女に釣り合う男になろうと、僕は必死で頑張った。 寝る間を惜しんで働き、たくさんお金を稼いだ。 その上、掃除も洗濯も食事の用意も僕がやっていた。 しんどい日々だった。 でも、妻に喜んでもらえたらそれで良いと思っていた。 それぐらい、僕にはもったいない高嶺の花だと思っていたから。 でも、1ヶ月前のことだった。 ある日の昼過ぎ、体調を悪くした僕は仕事を早退して家に帰った。 そこで出くわしてしまったのだ。 妻の、不貞の現場に。 それからは最悪だった。 言い訳のできない状況だったからか、妻は相手の男と共に開き直った。 「貴方とは最初からお金目当てで結婚したのよ」 「彼とは5年前から付き合ってるの。むしろ、貴方の方が浮気相手よ」 「いいえ、貴方を愛したことなんて無いんだから、浮気ですらないわ」 「貴方みたいな不細工な人、稼ぎが良くなかったら口も聞いてないわ」 「私ほどの美人が妻になってあげたんだから、むしろ感謝するべきよ」 「そうだ、彼との子を私達で育てましょう。  貴方に似て不細工に生まれてしまう方がよっぽど可哀想でしょ」 身勝手で無茶苦茶な言葉を悪びれもなく並べていた。 これまでは可愛いワガママだと思えていた彼女の言動が、 ひどく悍ましいもののように思えた。 相手の男はひたすら土下座して 「どうか妻と会社には黙っていて下さい」と繰り返すのみだった。 なんと情けない男だろうか。 確かに、外見こそ形良く整っているが、中身の下劣さに呆れた。 もはや、話すことなど無かった。 相手の男のことを片付けた後、僕は妻ともう一度話し合うことにした。 酷い女だとは思ったが、それでも一度は愛した女でもある。 話し合い、関係を再構築できないかと小さな希望を捨てきれずにいた。 だが、無理だった。 とてもじゃないが、まともに話し合うことが出来なかった。 仕方ない。僕は彼女と別れる決心をした。 完全にお別れをする前に、二人の思い出を辿るように旅行をした。 緑豊かな美しい森。 その迫力に圧倒される滝。 エメラルドグリーンが印象的な渓谷。 海に臨む丘。 一面に芝生が広がるだだっ広い公園。 そして、この林道を抜けた先にある湖。 「今までありがとう」 最後だからか、僕は思わず強く彼女の手を握ってしまった。 もう、何の意味も無いのに。 「さようなら」 別れの言葉を述べて、僕は彼女の手を離した。 「…………」 彼女はもう居ない。 静かなものだった。 この湖の景色も、僕の心も。 「さて、帰ろう」 少しばかりすっきりとした心地で踵を返す。 すると、そこには数名の険しい顔をした男たちが立っていた。 「何ですか、貴方たちは」 「警察の者です。実は、バラバラにされた女性の遺体が全国各地で発見されまして。  調べた結果、遺体の身元は貴方の奥様であることが判明しました。  署まで同行してお話を伺いたいのですが、宜しいですか?」 男の一人が警察手帳を見せながら迫ってくる。 どうやら逃げ場はないらしい。 僕は素直に彼らに従った。 そんな中、刑事らしき男が僕に問いかけた。 「ところで、奥さんの左腕だけがまだ見つかってないのですが、  お心当たりはありますか?」
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