11人が本棚に入れています
本棚に追加
犬のみる夢
「こがな遠いとこに来てもえがったがか?そーまくん」
「別にいい。お前はあそこにいたら、悪く言われるだけだから……」
「まあ、そやけど……そーまくんはげにわぁのことようにしてくれるんね?こじゃんと好き。そーまくんだけがわぁに優しいけ、げにまっこと好きやきね?」
「軽々しく、そんなに女がそう言うものじゃない。はしたない……」
「はしたない?何ちゅう意味がぁ?そーまくんはええ学校いっちゅうきに、東京言葉ばっかり使いゆう。げにずつないちや。げにのうがわるい」
遠く遠くに青黒い海が広がる。不気味ではなく、空とは絶対に溶けあわない違う深い青。黒潮が遠くまで広がり真っすぐに青空の中に直線を引き、浜辺に寄るにつれ真っ白な飛沫を散らす。浜辺には夕刻の影が落ちて、隣の少年は自分の手を握って顔を伏せている。顔が見えない。
「……おまはんは、げにあがいなはちきんやの。昔っからそないなけ、家があんな統いうて出まかせ言われゆうぜよ。俺はおまはんとそないな迷信から、一緒にこの海通って逃げていきたい思ちょったがよ……ずっと」
「アハハ、そーまくんもこっちの言葉使えるやない。何や東京もんになったみたいで寂しかったんやき、わぁと一緒の時くらいはこっちの言葉つこうてちや」
ざざざ、と波音がする。もうすぐ満ち潮だけどここまでは波が来ない。この海を通って出て行こうとしたのは坂本龍馬さんだ。龍、といえば、私達のうしろには龍神宮の鳥居が静かに立っている。私達を龍神様が見ているみたいに。この浜辺には龍神様がいたのかな。
私は龍神様には汚く見えるのかな。
「わぁは犬神統やき、はよういんだほうがええちや。さっきから、後ろから龍神様が見よる気がしていかん。のうがわるい。知っちゅうがか?村の人らが、わぁの家のもんは血が濁っちゅういうて。普通は赤色の血ぃがやろ?けど、わぁの血ぃはもっと汚い色をしちゅうがやと。見たことないけんど。そないなんは、わぁらの血が犬の血やきいうて言われちゅう。犬の呪いがかかった血やけ、いうて太夫さんが」
彼はかぶりを振った。
「やちもない。えいきかまんき。都会には、太夫やら犬神統みたいな迷信はない。少なくとも、俺が通いゆう学校では言うても馬鹿にされるだけぜよ。俺らの土地がおかしい、開発が遅れちゅうがよ。学校の歴史の先生に聞いたが。犬神統ゆうんは正しいんかいうて。ほいだらがいに怒られたぜよ。そないなのうがわるい話は『ミブンサベツ』『ブラクサベツ』や言うて。『迷信』言うて」
彼は本当に怒っているようだった。彼の先生も本当に、本気で怒ったに違いない。でも、それが出来るのは村の外に出ているからだ。村の中に入って、村の一部になってしまえばそれも出来なくなる。あの中に入れば、私を「犬神統」と認めて見下げ果て、「太夫様」を崇めるようになる。あの土地にはそんな力が働いているような気がする。
私も分からなくなる。あの太夫の縛りの中に入ると、気が立って、人が変わったようになってしまう。今のように喋れはしない。ケダモノの声ばかり出てしまう。
だから、どれほど私の父母が勉学を積んでも、認められずあの家に軟禁され、私があの小屋に閉じ込められることが決まってしまっているのだ。父母がどれほど村一番の博学者でも、町役場のお偉いさまにはなれないように「決まっている」。自分たちはあの太夫に「犬にされてしまう」。父母も太夫の声一つで、普段の博学はどこへやら、「犬」になってしまう。
自分たちの血は穢れている。
「わぁの父ちゃんも母ちゃんも、龍馬さんや板垣さんや牧野さんみたいに頭のええ人がやろ?けど、仕舞いにはいっつも犬になっちゅう。太夫様にはかなん言うて、口もきけん四足の……みんな言よるやろ?グズになるちや。それはわぁら統の血が濁った犬の血やけ、て太夫様が言よった」
「その太夫の血の色も俺は見たこと無が。都会の医者にいっぺん見せてみたらええ」
「そがいなこと、言うもんやない。そーまくん。あの村で太夫様は絶対やき、そーまくんでも逆ろうたらいかん人なんよ。あんね、こないだわぁが草刈りしよってな、そしたら裏の古味の婆さんが熊やと思てわぁのこと鍬ではり回されたんよ。これ、でこに傷。血が出たちや」
少年は恐る恐る私の前髪をかき分け、額の傷を確認した。傷はふさがっているはず。血ももうでていないはず。不思議と、私の筋の人間は傷の治りが早い。相変わらず空は夕凪の薄暗い青色で、ズッと海の向こうまで続いている。
ずっとこのままならいいのに。
犬には戻りたくない。あの家には帰りたくない。べたべたと、太夫の人形で縛られた家には。
「出てきゆう血ぃ見よったがか、色がちっくと濁っちゅう。そーまくんらぁの血ぃに比べて、黒い変な血ぃが出よったがよ。犬神統に憎まれゆう家の金物はちゃがまるいうて聞くけぇ、せっかくやけ古味の婆をいじくそ悪いほど憎んじゃったちや。ほいだらあちゅう間に鍬も鋤も鋏もぜーんぶちゃがまってしもたがよ。まっことえいちや。わぁの顔は血が垂れたところの皮ふが荒れてしもたけど、お父もお母も皮ふが荒れてボツボツがあるき家族の証拠ちや」
「えいが、――ちゃん。」
「何ね、そーまくん。顔がげに恐ろしいで」
「もうそがな話はせんでええ。全部あの村だけでしか通用せん『迷信』やき。今な、土佐から出た有名な精神学者の『森田先生』言う人の『太夫』と『犬神』の心の研究の本を読みゆうきに、捨て鉢になられんや」
「別になっちゅう訳やないがよ。けえど、血が濁るいうんは……」
「えいが、人間の血ぃいうんは、肺を通る前と後とで色が違うぜよ。おまはんの血がたまたま黒かったんは肺を通る前の酸素の少ない血ぃが出たけぇよ。犬神なんか関係あるかや」
海の遠く遠くで何かが跳ねた。鯨だろうか。何の鯨だろう。私は「化け鯨」っていう妖怪の――私の仲間?を知っているけれど、彼はもっと海の生き物に詳しいから「何が化け鯨じゃ、のうがわるい。ありゃゴンドウクジラぜよ。ハナゴンドウか、オキゴンドウか……」いうて説明してくれゆうやろ。
なんて綺麗な海なんだろう。戻りたくないよ。前に彼が差し入れてくれた偉人の本で、坂本龍馬さんとお龍さんが一緒に薩摩に行ったのが今の新婚旅行の始まりだって書いてあった。私も彼と遠く、ずっと遠くに行きたい。彼は本当に出来た人だから、私なんか釣り合わないのはわかる。彼は綺麗、わたしは血も魂も醜い。彼のさらさらした前髪の間から切れ長の目を覗くと、淡い色の目がきらきらお星さまみたいにきれい。
「そーまくんは、きらきらしちゅうがよ。そーまくんだけ、ええとこ行って、わぁのことは野良犬が往んだ思て忘れてや……許してつかあさい。そーまくんは、苗字でもきらがわ、ゆうてきらきらしちゅうやろ。ピアノ弾きゆう時もきらきらしちゅうよ。でもわぁは、なんもきらきらしちょらんき……」
君のきらきら星みたいな目は、私をいつも責めるみたいに見る。何も言わないけど、私を責めるように、怒るように。悲しそうに。
「おまんは犬とは違うがよ。何度も言いゆうに、何で伝わらんがか?父上様も母上様ものうなって、あの村から出よう思わんか?おまんも、おまんの家の人らも、みんな血が濁っとるなんて大法螺や。俺やちおまんのこと、ずっときらきらして見えちゅうよ。水族館で見たどの魚よりも、綺麗な人魚姫じゃ。犬は犬でも可愛い子犬じゃ。俺をきらきら言うんやったら、おまんの名前もほうやろ。おまんのなまえにも『きらきら』入っとるやろ。
おまんの名前は――」
壮馬君は……の名前……でくれ……んだ。どう……て、どうして、思い……せない……この……中……どう……て……あの……女の子……困らせ……私は……誰……。
今日もグズは汚らしい檻の中で目を覚ます。今日は全体的に空気が重い。湿っている。頭が痛い。遠吠えをしたからだろうか。遠くで雨の匂いがするから、そろそろ雨が降るのだろうか。
次、あのみれいという女の子はいつ来るのだろう。もう来ないかもしれない。私の怖いところをたくさん見せてしまったから。今までも、色んな人達に助けを求めてきた。でも、みんな私が犬の姿を見せると逃げてしまった。壮馬くんも、きっとそう。
だから、みれいというあの子も、もうきっと来ない。
雨の匂いが強くなる。グズはきつくきつく体を丸めて眠った。
最初のコメントを投稿しよう!