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そして、別れ
「玉姫。俺と一緒に来ないか?」
花王は、手を差しのべる。しかし……いや、やはりというべきか。玉姫は小さく首を振った。
「あなたとは、生きている時間が違うのよ」
「また、それか」
「あら。あの頃は、私もたったの五十歳で、ピッチピチだったのよ? まだまだ、色んなことが知りたかったし、これから、この地がどうなっていくのかも見届けたかった」
そこで彼女は、一旦、息をついて、「それに」と、続ける。
「私自身、もっと注目されたかったし、もっと賞賛されたかった。たった一人に愛されるより、たくさんの人に愛されたかったのよ。今の言葉で言うなら、承認欲求というのかしら?」
承認欲求、分かる?
玉姫にそう尋ねられて、花王は老人扱いするなと返した。
「だから、あなたの手を取ることができなかった」
「なら、今は?」
「ご覧の通り」
玉姫は、背後の自分を振り返る。
「私に残された時間は、あと、わずか。花芽もたくさんあったのに……」
「だから、来た」
「そうね。あなたなら、私を延命させるくらい、造作もないことでしょうね」
「なら、」
言いかけた花王を、玉姫は首を振って制した。
「ねえ、花王。これも仕方のないことよ。私には、嵐に耐えうる力がなかったんだもの。あなたのその力は、他に使ってあげて」
玉姫は、ふわりと微笑む。それも、つかの間。一転、その頬へ手を当て、眉根を寄せる。
「……あぁ、でも、少し心配だわ」
「心配?」
「あなたは、私たちとは違う。この先も、ずっとずっと生きていかなくてはならないのよ? でも、あなた、何かと格好つけるでしょ。孤高を気取る必要なんてないの。それって、逆にイケてないわ」
まるで子供を諭すように彼女は言う。確かに見た目こそ母と息子のようだが、その実、花王の方が彼女よりも遥かに年上であった。
彼女の言いように、少々、むっとしながら、花王は言い返す。
「別に、気取ってるつもりはない。誰も寄りつかないだけだ」
「それはそうよ。私たちにとって、花神様は雲の上の存在。畏れ多いお方なんだもの。だから、あなたが歩み寄っていかなくちゃね」
「難しいな」
「あら、簡単よ。私を助けてくれたように、少し手を差し伸べればいいの。何か仲間が困っていたら、助けてあげて」
「俺が?」
「あなたは優しいから、結局、見過ごせないわよ。私の時もそうだったじゃない」
玉姫はふふふと笑う。
「君は幸せだったか?」
「えぇ。とっても」
うなずいた彼女の笑顔は、とても美しかった。
「たくさんの人が見に来てくれたのよ。映えスポットなんて言われたりね。私は、たくさんの人を、笑顔にすることができた」
そんな笑顔を見せられては、花王も「それは、よかった」と、答えるしかなかった。
「そうね。たくさんの人が、私を愛してくれた。でもね、最近、気がついたのよ。私も、たくさんの愛を降り注いでいたんだって」
話している玉姫の姿が、段々とぼやけていく。その指先から、はらはらと解け、花吹雪となって空に舞い上がった。薄紅色の欠片が、一枚、一枚と空に溶けていく。今にも消え入りそうなほど姿を失っても、なお、彼女は静かに微笑んだ。
「それじゃあね」
そして、花王はまた一人になった。
どこかで、ツクツクボウシが鳴いている。しばらくもしないうちに、その声も消えた。
花王は最後にもう一度、倒れた桜へ目を向け、歩き出す。そこからは、もう、振り返らなかった。
山門には、まだ住職がいた。
「お帰りですか?」
「はい。ご無理を言って、すみませんでした」
いえいえと、住職は首を振る。
「実は、玉姫さんは、三年前の台風で、一時は危篤状態だったんです。それがどういうわけか、持ち直しましてな。樹木医さんも驚いてましたわ。それから数は減りましたけど、毎年、ちゃあんと、花もつけてくれまして」
住職は、穏やかに微笑んで、境内を振り向いた。ここからは見えない桜を花王も見た。
「三年前……そう。玉姫さんが持ち直した、ちょうど、その頃から、どういうわけか、境内の草花も、弾んでると言いますか、生き生きしてると言いますか、一層、元気になったようで。もしや、花神様が訪れてくださったんじゃないかと、寺の者と、」
「ご住職」
たまりかねて花王が遮ると、住職はペチンと自らの頭をはたいた。
「あぁ。これは、いけませんなぁ。お寺で神様の話は」
「いや……」
そう言う話じゃない。心の中でツッコミながら、その一方で、侮れない奴めと感心する。ここで、探りを入れてくるとは。
「玉姫さんは、あんなことになってしまいましたが、たまには、顔を見せて下さい」
花王は「えぇ」とうなずく。もう、ここに来ることはないだろうと思いながら。にっこりと笑う住職も、もしかしたら、分かっているかもしれない。
「じゃあ」
笑顔で別れを告げ、花王は寺をあとにした。
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