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「おまえら、そこで何やってるんだ!?」
店内に怒声が響いて、ナサブはハッとして息を止めました。
「ヤバいっ、逃げろっ」
言うが早いか、アリは戦利品を懐に、もう店の外へと飛び出して行きました。
ナサブもそれを追うように駆け出そうとしましたが、一瞬凍りついていた彼の足は思うように動かず、鬼気迫る形相で近付いて来た店員に、あっという間に捕らえられてしまいました。
「この野郎っ、万引きするなんてふてぇ奴だっ。警察に突き出してやるっ」
ナサブの手から、握り締めていたお菓子やパンの袋が、バラバラと床に零れ落ちてゆきます。
『おまえは初心者だからな』
そう言ってアリは手始めに、この小さなストアーで”練習”するよう、ナサブを連れて来たのでした。
今ナサブは、頑健な体格をした店員に首根っこを摑まれて、身動きひとつできません。
『警察に突き出してやる―』
それはナサブにはなんでもないことでした。
ただ、それを知った時の母親の気持ちを思うと、彼は一瞬、罪の意識に苛まれました。
「ほらっ、こっちに来いっ」
引きずられるようにして店の奥の事務室へ連れて行かれるナサブの背後で、その時とても美しい、透き通るような声が聞こえました。
「おじさん、彼を許してあげて」
振り向くと、異国の少女が立っていました。
長い黒髪。黒い瞳。色白で、白いワンピースを着た、華奢な体。
ナサブと同い年位に見えるその少女は、どうやら東洋人のようでした。
「お金だったら私が払うから…」
そう言ってポケットから紙幣を取り出します。それはナサブが、いつかどこかで見たことのある日本のお金―しかも一番高額な紙幣でした。
「銀行で、この国のお金に換えてもらえるでしょ?」
「か…っ、金を払えば済むってもんじゃねぇーんだよっ」
乱暴に言い放つ店員に、少女はまた紙幣を取り出してみせます。
3枚、4枚、5枚…。
沢山の紙幣が、宙を舞います。
小さな服の内ポケットに、一体どれだけのお金が入っているのだろうと思われる程、それは次から次へと溢れ出してくるのでした。
手品のような少女の芸当に、店員も呆気に取られて見入っています。
と、その僅かの隙をついて、合図するかのような少女の眼差しで我に返ったナサブは、店員の腕を振りほどき、一目散に走り出しました。
まるで魔法が解けたかのように。
「あっ、待てっ。この野郎ーっ」
後ろから、覆い被さるような店員の声が聞こえてきます。
けれどその声は、ナサブを追っては来ませんでした。
床に散らばった紙幣を、拾い集めるのに必死で。
ハァ…ハァ……。
裏通りの狭い路地でナサブが荒い息をついていると、いつの間にか、さっきの少女が目の前に立っていました。
ナサブの後をついて来たのでしょうか?
でもそうだとしたら、余程足の速い女の子なのでしょう。
ナサブは無我夢中で、それこそ全速力でここまで走って来たのですから。
不思議なことに、息ひとつ切らしていない少女にナサブは言いました。
「なんだよ…」
「なんだよ…おまえ」「なんでオレの後、ついて来るんだよ」と。
少女は何も答えません。
ただ少し困ったように微笑んでいるだけです。
ナサブはその笑顔に、何故だか自分がバカにされたような気がして、くるりと背を向け、少女から遠去かろうとしました。
その時です。
「テレビで、観たの」
唐突に、その少女が言ったのは。
「この間、テレビのリポーターに質問されて、答えてたでしょ?」
「あれ、あたし観てたの」
ナサブには、意味がよく分かりませんでした。
”テレビで観た? オレを? それで、わざわざここまでやって来たっていうのか? 日本から? 嘘だろう?”
そんな疑問が、彼の頭の中でグルグルと渦を巻きました。
”だとしたら、相当な物好きだ。でも一体なんの為に? いくら暇で金を持て余していたとしても、日本の子供はギムキョウイクってのがある筈だ。休み中でもないだろうに、どうしてこんな所まで来ることが出来るんだろう?”
「単なる旅行よ」
と、ナサブの心を見透かしたように少女は言いました。
「あたし、人には見えない翼を持っていて、どこにでも自由に飛んで行けるの」
”冗談だろう?”と思い乍らも、ナサブはさっきの、ポケットから無尽蔵に出てくるお金のことを思い出していました。
”この子はきっと、人をからかって面白がっているだけなんだろう”と思いました。
何か仕掛けがあるに違いない、と。
テレビを観たなんてこじつけで、元々何か用事があってここに来たんだろうと。
或いは。
ナサブは少女が流暢にこの国の言葉を話すのを聞いて思いました。
もしかしたら、もう何年もここに住んでいるのかもしれない。
日本でテレビを観たというのは嘘で、自分が取材されていたのを、どこか物陰から見ていたのかもしれないと。
どっちにしても、ナサブは自分がからかわれているという思いを拭うことはできませんでした。
「金持ちは、何考えてんだかさっぱり分かんねーや」
皮肉混じりに呟いて彼が行き過ぎようとすると、少女は小走りに後を追って来ました。
「これ」
そう言って、手に握った小さな白い石を差し出します。
「さっき、そこで拾ったの。これ、絵が描けるんだよ。知ってた?」
見ると、少女が「そこ」と言った辺りには、地面に下手な文字や絵が雑多に描かれています。
立ち止まってそれらのイタズラ書きを眺めているナサブに、少女はしゃがみ込んで、両足が入る位の輪を描き乍ら言いました。
「うんとずっと小さい頃、やらなかった? こういうの」
幾つかの輪を連ねて描くと、それを片足で跨いだり両足を着いたりし乍ら、少女が歌うように言いました。
「ケンケン、パッ。ケン、パッ。ケン、パッ。ケンケン、パッ」
振り向いてにっこり笑う少女に、ナサブは胸が切なくなりました。
こんな笑顔を、昔自分もしていたことがある―そう思って。
今、目の前で初夏の光のように笑う少女はとても眩しくて、彼をより一層惨めにするのでした。
「これ、知らない? 日本の遊びなんだけど…。この国にはこういう遊び、ないのかな?」
「…バカみてぇ」
ナサブは投げやりにそう呟くと、少女の前から逃げるように、でも、それとは分からないよう、努めてゆっくりと歩き出しました。
心なしか地面を蹴るように。
行き場の無い苦い気持ちを、吐き捨てるように。
「彼は、味方じゃないよ」
不意に、少女の声が追い掛けるように言いました。
「さっき一緒にいた男の子…付き合わないほうが、いいよ」
ナサブは一瞬だけ振り返りましたが、それ迄の笑顔とは打って変わって真剣な眼差しで自分を見つめている少女に何も言えずに、そのままそこを立ち去りました。
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