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『彼ハ、味方ジャナイヨ』
使い古してちっぽけになったクレヨンを見乍ら、ナサブは少女の言葉を反芻していました。
『モウ、付キ合ワナイホウガ、イイヨ』
クレヨンは12色セットで、ずっと昔、父親が近所の雑貨屋で買ってくれたものです。
どこにでもある安物でしたが、それでもナサブはとても嬉しくて、毎日毎日それで絵を描いたものでした。
『おまえは絵が上手いからな』
そう言って父親は、裏に何も印刷されていないチラシや書き損じの紙を、どこからか持って帰ってくれたものでした。
まだ父親が工場に勤めていた頃の、幸せだった頃のことです。
ナサブは、よく赤や黄色を使って花畑を描きました。青い空を描きました。
クレヨンは火で炙って溶かすと、まるで油絵の具のようで、ナサブは手や服が汚れるのも構わず夢中で描いたものでした。
そしてそれを、みんなが褒めてくれました。
”あの頃はいっぱい色があったのに…”
ナサブは思いました。
貧しくても、自分の心の中にあった沢山の色。
それが一体いつの間に色褪せて、寒々としたグレー一色になってしまったのか。
ナサブは昼間の、路上に描かれたイタズラ書きを思いました。少女が持っていた白い石を思いました。
もしかしたら、描く場所なんて、道具なんて、なんでもいいのかもしれないと。
でも何を? 何を描く?
今のナサブには描きたいものなど、何も思い浮かびませんでした。
『彼ハ、味方ジャナイヨ』
けれど、味方とは一体なんなのでしょう。
あの頃ナサブの見方だった父親は、今はもう味方ではありません。
「お兄ちゃん…? 何してるの…?」
部屋の隅から洩れてくる明かりで目を覚ましたのでしょう。
眠そうな目を擦り乍ら起き出してきた妹が、ナサブのクレヨンを見るとパッと目を輝かせて言いました。
「お兄ちゃん、絵、描くの!? 何描くの!?」
「お花描いて」と言う妹の乞いを、けれどナサブは請け負いません。
紙が無いのです。
ガサガサとその辺を探し回る妹に、ナサブの心は悲しく軋みました。
どこにも無い紙を懸命に探している様はどこか滑稽で、まるで今の自分のようだと思ったのです。
『やめろよ』
そう言って妹を止めたのは、しかしナサブの声ではありませんでした。
「こんな夜中に、何してるんだっ」
酔い潰れて眠っていた父親が、ナサブのクレヨンに気付いて、それを奪い取ります。
「こんなものっ」
力任せに床に叩きつけられて、ただでさえ小さくなっていたクレヨンは悲鳴をあげて粉々に砕け散ります。
ナサブは自分の心の中でも、その時何かが一緒に砕けてしまったような気がしました。
「くだらない絵なんか描く暇があったら、もっと働いて稼いで来いっ」
傍らで泣き叫ぶ妹の声をどこか遠くに聞き乍ら、ナサブはぼんやりと考えていました。
”味方って、なんなんだろう”と。
その夜、ナサブは夢を見ました。
あの少女が、ポケットから沢山の物を取り出す夢。
それはお金でもなければ食べ物でもない、何か小さな水晶のような、両掌にすっぽりと収まる程の、透明な丸いカプセルでした。
それはキラキラと輝き乍ら少女の手を離れ、まるでシャボン玉のように宙に浮かんでいます。
そしてよく見ると、その中には様々な”光景”が詰まっていました。
貧しい乍らも、みんなで囲んだ幸せな食卓。
母親が編んでくれた、弟や妹とお揃いのセーター。
一度だけ家族旅行で行った川辺の風景。
工場の小さな保養所から、川まで続く草むらで見つけた赤い蟹。
赤や黄色の花に、揺らめく陽炎。
さんざめく蝉の声に、白い入道雲。
頭上に、どこまでも果てしなく広がる空―真っ青な。
そして、それを描いているナサブの手。
クレヨンで描いた、絵日記の思い出。
まだナサブが、学校に通っていた頃の―。
夢の中で、少女は静かに微笑み乍ら、ナサブが忘れかけていた思い出を、大事そうにポケットから取り出しては宙に浮かべます。
けれどナサブの周りを漂っているその光景は、今となっては彼を苦しめるだけでした。
目覚めると、ナサブの頬を涙が一滴伝っていました。
どんなに殴られても泣くことのなかったナサブが、久し振りに流した涙でした。
「ヘイッ、チップ!チップ! たったの10ディラハムだよっ。安いよっ」
車の運転席に向かって、アリが大声でまくし立てるように言いました。
この国では車を持っている人は、ごく限られた人だけです。
その人達が信号待ちで止まっている間、車のボンネットを申し訳程度に掃除して、チップをねだっているのです。
「ヘイッ、チップ!チップ! マネー、プリーズ!」
再三の催促にも拘らず、窓を固く閉ざしたまま、信号が変わるのと同時に行ってしまう人も少なくありません。
「ちぇっ、金持ちのくせにシケてやがるっ」
車が行き過ぎる瞬間、アリは腹立ち紛れに思い切り車のボディを蹴飛ばしました。
中にはそんな逆襲を怖れて、言われるままチップを渡す人もいます。
高級品である車に傷を付けられるよりはマシだと思っているのでしょう。
もとより彼等には、10ディラハㇺなんて端下金でしかないのですから。
車に取り縋り、強制的に、半ば暴力的に”お恵み”を乞う姿は、メインストリートでは至る所で見られました。
美しい夕暮れを背景に浮かび上がる、その薄墨色の光景は、なんて無様で悲しいのでしょう。
そしてその悲しさとは裏腹に、威勢のいい掛け声が、まるで朝の市場のように活気づいているのです。
ナサブは音の出る絵を見るように、自分とは隔絶された世界を見るような目で、夢うつつにその光景を眺めていました。
最近ナサブは、ぼんやりすることが多いのです。
現実感が無くなるような、そんな感じ。
”現実逃避、ってやつかな…”
実際、このところナサブはとても疲れていて、何もかも面倒臭くて、何もかもどうでもよくなっていたのです。
お金を稼ぐのも、生きるのも、何もかも。
「おいっ、なにボーっと突っ立ってんだよっ。おまえもやって来いよっ」
「見本見せてやったんだから」とアリにせっつかれて、ナサブは信号待ちで徐行して来た車に近寄りました。
自分一人だったら、どうだっていい。こんな仕事をしなくても。
けれど家には、弟や妹がいるのです。
ナサブはおずおずと手を伸ばし、緩慢な動作で車の表面の汚れを拭いました。
すると驚いたことに、その車の主はナサブがチップを催促するまでもなく、少し開いた車の窓から、投げ捨てるように、数枚の紙幣をナサブに向けて撒き散らしたのです。
微かな風を受けてヒラヒラと足下で舞うその紙幣を、ナサブは拾う気にはなれませんでした。
ひどく、惨めでした。
「何やってんだよっ、バカっ」
なかなかお金を拾おうとしないナサブをこずくようにして、アリが屈み込んで紙幣を拾い、車の主に愛想笑いをしています。
車の主はそんな二人を一瞥だにせず、信号が変わると何事もなかったかのように、車を走らせて行きました。
灰色の煙を、二人に吹き掛けるようにして。
「バカっ。ぼさっとしてたら他の奴等に横取りされちまうだろっ。しっかりやれよなっ」
ナサブはこれから幾度となく自分に吹き掛けられるであろう煙を思って、喉がむせ返るような痛みを覚えました。
それは今迄、インチキの水を売りつけて殴られた時よりも、もっともっと強い、屈辱の痛みでした。
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