たったひとつの空

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帰り道、ナサブは市場に寄って、パンと少しばかりの野菜を買いました。 『そんなもん、かっぱらっちまえばいいじゃん』とアリは言います。 わざわざお金を払って買うことはないと。 けれどナサブは、盗んだ物を家族に食べさせる事はしたくなかったのです。 ”これを買った金だって、盗んだのと同じようなもんじゃないか” 自分でも、皮肉に顔を歪め乍ら。 けれど、直接盗んだ物を家族に食べさせない事だけが、彼に残された僅かなプライドだったのです。 市場を歩いていると、真っ赤なリンゴが目につきました。 よく磨かれて美しい光沢を放ったそれは、見るからに新鮮そうです。 ナサブはリンゴが母親の好物だったことを思い出して、食べさせてあげたいと思いましたが、ポケットにはもう、それを買うだけのお金は残っていませんでした。 稼いだお金のうちナサブの取り分は3割で、あとは全部アリの懐ろに入ってしまうのです。 ”また今度にしよう…” 諦めてナサブが行きかけた時、すぐ近くで聞き覚えのある声がしました。 「おばさん、リンゴちょうだい」 あの少女でした。 この間と同じ白いあっさりとしたワンピースを着て、長い髪を緩く三つ編みにしています。 少女はリンゴを両手いっぱい買うと、一つだけ取って、あとは袋ごとナサブに渡しました。 「なんだよ」 押し付けられたリンゴの袋を、ナサブは睨み付けるようにして言いました。 「買ってくれなんて、言ってないだろ。余計な事するなよ」 すると、怒るナサブの言葉に、オウム返しに少女が言いました。 「言ってない」 「え?」 「あげるなんて、あたし言ってないわよ」 あっけらかんとしている少女に、ナサブは出鼻を挫かれて言葉を失いました。 「重たい物、持ちたくないの。だから代わりに持って」 「冗談だろ。なんでオレが…」 言うが早いか、ナサブの声を遮るように、少女はパンと野菜の入った袋を彼の手から取って、にっこりと微笑みました。 「代わりにこれ、持ってあげるから。ね?」 その笑顔に、何故かナサブは何も言えなくなってしまいました。 「どこだよ、おまえん家」 バツの悪さを隠すように尋ねました。 ホテルに泊まっているのか、それとも父親の仕事か何かで家を借りて長期滞在しているのか―は分からないけれど、とにかく家まで運んでやろう。そう思ったのです。 少女が「あっち」と言って指差したのは、ナサブの家と同じ方角でした。 ”こっちの方角に、この子が住むようなまともな建物、あったかな…” そう思い乍らも、ナサブは少女について歩き出しました。 ナサブの前を軽い足取りで歩き乍ら、少女はさっき一つだけ取ったリンゴをカプリと噛み砕きます。 夕風に乗って飛び散る微かなリンゴの香り。 甘酸っぱい、切ない匂い。 「あれ? 今日は一人じゃないのかい?」 頭の上のほうから聞き慣れた声がして、ナサブは足を止めて声の主を見上げました。 看板描きの、初老の男性です。 いつも通り掛かる度に、何気に自分を見ているナサブに気付いた彼が声を掛け、挨拶程度の会話はするようになっていたのです。 『お兄ちゃんね、すごく絵が上手いんだよ』という弟の言葉に、男性はほんの少し興味を示していましたが、ナサブは絵を披露しようとはしませんでした。 ”こんなオレに、一体何が描けるっていうんだ” ナサブはインチキな水売りをやっていた頃から、汚れてしまった自分を恥じていたのです。 ”今のオレが描く絵なんて、誰も褒めてくれやしない”と。 「おじさん、ナサブはね、凄く絵が上手いのよ」 「え…?」 黙り込んでいるナサブを、びっくりさせるような言葉を、少女が発しました。 ”なんで? なんでおまえが、そんな事知ってんだよ? オレの名前まで、なんで?” 「ああ、弟もよくそう言ってたな。でも、一度も見せてくれないんだよ」 男性は、豆鉄砲を喰らったような顔で少女を凝視しているナサブに言いました。 「最近弟と一緒じゃないと思ったら、誰だい? 妹じゃないんだろ? さては、彼女かな?」 「そ…っ、そんなんじゃねーよっ」 からかうような男性に、慌てて言い返します。 自分でも、体が少し火照っているのを感じます。 ”きっと今、オレの頬はリンゴみたいに赤くなっているに違いない” 「もう、暗いぜっ。無理すんなよ、年なんだからっ」 ナサブは気恥ずかしさから、わざと無愛想な顔で、足早にそこを立ち去りました。 「待って、待ってよ」 ナサブに追い越された少女が、必死について来ます。 「歩くの、速いよ」 肩で息をしている少女を見て、”変な奴”とナサブは思いました。 ”この間は、息ひとつ切らしていなかったのに”と。 『おまえ、一体なんなんだよ?』 『なんでこんな所にいるんだよ?』 『なんで、オレの名前まで知ってんだよ?』 『なんで…』 『なんで、オレに付き纏うんだよ?』 訊きたい事は、山程ありました。けれど、今ナサブが一番訊きたいのは―。 『名前、なんていうんだよ?』 ”そんなこと、どうだっていいじゃないか” が、思うよりも早く、それは声になってナサブの口から零れ出ていました。 「名前…―」 何故そんなことを訊いてしまったのでしょう。 少女は意外そうな顔で振り向いたまま、黙ってナサブを見ています。 が、やがてナサブの言葉の意味を察したのでしょう。ポツンと一言、呟くように言いました。 「―ソラ」 「え?」 一瞬意味が分からなくてポカンとしたナサブに、少女は真っ直ぐ上に伸ばした手で、宙を指差しながら言いました。 「日本語で”空”っていうの。今は宵闇のブルー。暗い色だけど、やがて星やお月様が輝き始める。昼間は真っ青な空。白い雲が浮かんでたり、お陽様が我が物顔で威張ってたり―。その時によって色々姿を変えるけど、空はいつもそこにある。あたし達みんなの上に、平等に―。そう思って付けたんだって、お母さんが言ってた」 みんなの上に、平等に。 だから、もし今、真っ黒い雲が出て冷たい風に吹かれていたとしても、いつかきっと、綺麗に晴れた青い空が見える―少女はそう言いました。 微笑むように、優しく。 けれどナサブは、そんな言葉を真っ直ぐ素直に受け入れることはできませんでした。 ナサブはあまりにも不幸でした。 そして少女は、彼の目には、苦労など何も知らない幸せなお嬢さんに見えました。 「おまえに何が分かるっていうんだよ」 ”平等なんかじゃないっ。世の中は平等なんかじゃないっ” 俯いていたナサブが、反駁しようとして顔を上げた時、けれどそこに、もう少女の姿はありませんでした。 後にはただ、パンと野菜の袋が残されていました。 ナサブの腕には、少女から預かった赤いリンゴの山。 そして気が付いて見てみると、そこはもうナサブの家のすぐ近くだったのです。 「なんなんだ…あいつは…」 ”足音も残さず消えてしまうなんて、これじゃまるで魔法使いみたいだ”と。 この間の、ポケットから出てきたお金といい、ナサブにはまるで訳が分からず、少女の存在がとても不思議でなりませんでした。 家のドアを開けると、弟や妹がリンゴの袋を見て目を輝かせて言いました。 「わぁっ、美味しそうなリンゴ」 「それ、食べていいの!?」 けれどナサブは、心を鬼にして言いました。 「駄目だよ。これは兄ちゃんのじゃないから」 あの少女―ソラがどこに住んでいるのか、今度いつ会えるのかも全く分からないけれど、とにかくこのリンゴを食べることは出来ない、とナサブは思っていたのです。 「でも、あのお姉ちゃんが食べていいって…」 「え?」 弟の視線を目で追うと、部屋の隅っこ―丁度ナサブの死角になっていた寝床のほうに、母親の側に寄り添うようにして、ちょこんとソラが座っていました。 「薬、飲ませてもらったのよ」 母親の側には、ナサブが買いたくても買えなかった高価な薬がありました。 ナサブはそれを見た時、そして弟や妹が嬉しそうに袋からリンゴを取り出しているのを見た時、何故か前にも増して惨めな気持ちに襲われました。 お腹の底からカッと熱いものがこみ上げてきて、気が付くと弟や妹の手から、リンゴを乱暴に奪い取っていました。 勢い余って床に転がり落ちたリンゴが、ゴトンと鈍い音を立てて、虚しく床の上を滑ってゆきます。 赤い体を、美しく回転させ乍ら。 「何するの?ナサブ。せっかくこのお嬢さんが親切で…」 うろたえる母の声を制して、搾り出すような声でナサブは言いました。 「なんで…なんで、こんなことするんだよ…」 母親にせめて薬を飲ませてあげたいとは、ナサブだって前々から思っていたのです。 けれど、こんな形ではない。自分の力で、自分の稼いだお金で飲ませてあげたかった。 人から施しを受けるのは、真っ平ご免だと。 リンゴだって、やっぱり最初から恵んでくれるつもりだったんだろうと、そう思いました。 「人に恵んでやって、さぞいい気分なんだろうな」 弟や妹の泣き声が、理不尽な怒りを駆り立てます。 それは本来なら、ソラに向けられるべきものではないことを、ナサブは心の片隅では分かっていました。 彼は自分自身に腹を立てていたのです。 「…出てけよ」 押し殺した声で、ナサブは言いました。 「ここはおまえが来るような所じゃない。もう二度とオレに近付くな」と。 リンゴの入った袋を、ソラに突きつけて。 ソラは取り乱した様子もなく、ただ一言、静かに言いました。 「…ごめんね」 「そんなつもりじゃなかったの…。でも、ごめんね」と。 そうして、やはり静かに、そっと部屋を出て行きました。 後にはただ重苦しい空気と、弟達の泣き声だけが響いています。 ナサブは、何故自分がこんなに苛立っているのかと考えました。 憐れみを受けたことが? プライドを傷付けられたことが? それとも…彼女にこんな惨めな自分を、家族を見られたことが? 全てがないまぜになった混沌の中で、ナサブは唇を噛みしめ、その場に立ち尽くしていました。
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