たったひとつの空

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『そんなつもりじゃなかったの…。ごめんね』 ソラの声が聞こえたような気がして、ナサブはハッとして後ろを振り向きました。 今日で一週間、ソラは姿を現しません。 そこに誰の姿も無いのを見て、ナサブはほんの少し落胆しました。 もう近付くなと言ったのは自分なのに、実際に彼女の姿が見えなくなると、少し寂しいような、物足りないような気がします。 そんな自分に、ナサブはまた少し苛立ちを覚えました。 ”恋”という感情を、彼はまだ知りませんでした。 「なにイライラしてんだよ」 アリに言われて、ナサブは目の前の”現実”に引き戻されました。 「ほら、おまえの取り分だよ」 万引きで得た品物をお金に換え、アリはナサブに報酬を手渡しました。 二人の盗む物は、初めの頃に較べて大分高価な物になっていました。 ナサブも、今ではすっかりこの”仕事”にも慣れてしまいました。 そしてそんな自分を、またソラがどこからか悲し気な目で見ているのではないかと思って、時々フッと罪悪感に襲われるのでした。 「なぁ、もっといい仕事あんだけど、やらないか?」 アリにそう持ち掛けられても、ナサブはあまり気乗りしませんでした。 ”いい仕事”―それはつまり、”もっと悪い事”なのです。 このままいったら自分は一体どうなってしまうんだろうと、ナサブは内心危惧しました。 母親や弟達には、ちゃんとした仕事だと嘘をついていますが、このままいけば、いつかは自分の悪事が露呈してしまうのではないかと危ぶみました。 「悪いけど、今はまだ…やめとくよ」 「ちぇっ、意気地がねぇな。まぁいいや。その気になったら、いつでも言えよ。こんないい仕事、滅多に無いんだから」 アリの言葉に「ああ」と頷き乍らも、ナサブは自分が”その気になる事”が無いよう、心の中で祈っていました。 これ以上は、悪事に手を染めたくない。家族を悲しませるような事にだけは、したくない。 そんな思いで、最後の一線だけは越えないよう、必死で自分を制止しました。 が、そんな或る日の事です。 ナサブがいつものように仕事帰りに市場で買い物をしていると、彼を捜していたらしい弟が、慌てた様子で駆け寄って来ました。 「お兄ちゃんっ、大変だよっ。お父さんが…っ」 酒に酔った父親が、近くの河原で岩場から足を踏み外して、大怪我をしたというのです。 ”河原!? なんだってそんなとこに…!?” そう思い乍ら、急いで町に唯一ある小さな病院に行くと、父親は頭や腕に包帯を巻いてベッドに起き上がっていました。 「何やってんだよっ、こんな大怪我して…っ。だから酒なんてやめろって、何度も言ったのに…っ」 ナサブの言葉に、父親は憮然とした表情で黙り込んでいます。 「お父さん、足を骨折してるから、暫く入院になるね」 傍らにいた医者が、ナサブにそう告げました。 「入院…!? そんな…そんな金…」 そんな金、ある訳ない。どうしろっていうんだ。 困惑するナサブに、父親が言いました。 「入院なんか、しなくても大丈夫だっ。今日の治療費も、オレが自分でなんとかするっ」 「なんとかって、無理に決まってるだろっ。なんとかならないからオレが…」 『オレが、こんな仕事する破目になったんじゃないか』 咽喉元まで出掛かったそんな恨み言を、ナサブはなんとか呑み込みました。 「オレが…なんとかするよ」 恨み言を言ったからといって、今更どうなるというのでしょう。 入院などしない、家に帰ると言う父親を、医者や看護師が宥めすかすのを、ナサブは諦めに近い気持ちで虚ろに見ていました。 「この間の話なんだけど…」 おずおずと、ナサブはアリに切り出しました。 「なんだよ? やる気になったのか?」 待ってましたとばかりに、アリが身を乗り出します。 「ああ、金が要るんだ。まとまった金が…」 「OK。そうこなきゃ。じゃぁ明日、詳しい段取り説明するよ」 アリはそう言って、その日はいつものように”小さい仕事”をして、二人は別れました。 ”ソラを色に例えるとしたら何色だろう” ナサブはぼんやりと、そんなことを思いました。 白―。きっと白だ。なんの汚れも無い、まっさらな白。優しい、ほんの僅かクリーム色を帯びた暖かい白。 ソラがいつも真っ白なワンピースを着ていたせいではないけれど、それこそソラに最もふさわしい、彼女の色だと思いました。 春の青い空に、ぽっかりと浮かぶ白い雲。そんな感じ。 ふわふわしてて、摑みどころがなくて、追いかけても届かない―。 ”そう、オレとあの子とじゃ、住む世界が違うんだ” ”何もかもが、違い過ぎるんだ” 説明のつかない自分の気持ちに、ナサブはそう言い聞かせていました。 『ケンケン、パッ』 また、ソラの声がどこからともなく聞こえてきたような気がして、ナサブは足を止めました。 この間、ソラが石で落書きした辺りです。 ナサブは、やっぱりいつもと同じように、市場で家族のための食料を買って帰るところでした。 父親は、なんとかおとなしく入院しています。 ナサブがソラの声に引き寄せられるように、まだ落書きの残っている狭い路地を覗いても、ソラの姿はありません。 「バカだな。何を期待してるんだろう、オレは」 独りごちて引き返そうとしたら、思いがけず耳元で「わっ」と声がして、ナサブは驚きのあまり、一瞬身を引きました。 見ると、声の主はソラでした。 幻でもなんでもない、本物のソラです。 ふふふっと、イタズラっぽい笑みを浮かべて立っています。 「驚いた?」 ソラの問いに、ナサブは表に出そうになった喜びを無理矢理引っ込めて渋面を作ります。 黙ったまま、何も言いません。 「…怒ってるの?」 不安気にナサブの顔を覗き込むソラから、目を逸らします。 じっと見られたら、自分の全てを見透かされそうな気がして。 ソラに対する、この淡く切ない気持ち。 そして、自分がこれからしようとしている悪事。 何もかも、全てを―。 「ごめんね…。もう近付くなって言われたけど、あたし…最後にもう一度だけ、会っておきたくて…」 「最後…?」 ナサブは訝しげに顔を上げました。 けれどソラは、すぐには何も言いませんでした。 少し困ったように首を傾げて、頭の中で言葉を探しているようです。 「帰るのか? 日本へ」 痺れを切らして尋ねたナサブに、やっとのことでソラが口を開きました。 「そう…だけど……そうじゃない……」 あやふやな答え。 「もっとね、遠い所へ行くの…。もっとずっと遠い所…。だから、もう多分、会えない……」 思いもかけなかった言葉に、ナサブはギュッと胸の奥を鷲掴みにされたような痛みを覚えました。 二度ト、会エナイ―。 それはナサブが、自ら望んだ筈のことでした。 けれど今になって、彼に投げ出されたその言葉が、激しく彼を動揺させているのでした。 動揺を隠して、努めて平静にナサブは言います。 「会えないって…そんなこと、今更オレに言いに来なくたって……」 何故、言葉は自分の思い通りにならないのでしょう。 ナサブが思っているのはこんなことじゃないのに、いつも心とは裏腹の事ばかり言ってしまいます。 いつもいつも。 子供の頃から。 それは欲しい物を欲しいと言うことに罪悪感を抱くようになった頃のことです。 『ごめんね…。買ってあげられないのよ…』 昔、油絵の具が欲しいと言った時に、とても悲しそうな顔でそう言った母親の言葉を思い出します。 『ごめんね…。ごめんね……』 あの時から、ナサブは”自分の欲しい物”を口にすることをやめました。 何が欲しいかと考えることすらやめました。 ”欲しい”と思うことが、母親を、そして自分自身をも悲しませる事を知ったからです。 ”手に入らない物は、最初から欲しがらないほうがいい” ”どうせ、何を望んでも無駄なんだから” ナサブは”夢”を見ようとは思いませんでした。 その日その日を暮らしていけるだけのお金が手に入れば、それでいいと思っていました。 分不相応な望みは抱くまいと。 ナサブにとっては、今目の前にいるソラもまた、分不相応なものだったのです。 ”綺麗な青空なんて、オレには一生見られないんだ” ナサブの目に映る空は、いつも灰色に曇っています。 たとえ晴れて、澄み渡った青空が広がっていたとしても、頑なな彼の目に、それは色を失ってしまいます。 本当の気持ちを何ひとつ言えないまま黙り込んでいるナサブに、ソラが意を決したように言いました。 「明日、行かないで…」 「え…?」 「行っちゃ駄目だよ…。言ったでしょ…?彼は味方じゃないって…」 ”なんで、おまえが明日の事まで知ってるんだよ” そう思い乍ら、ナサブはソラの”手品”を思い出していました。 ポケットから無尽蔵に出てくるお金や、ナサブの名前や絵が上手いことまで知っていたこと。 家の近くで忽然と姿を消して、いつの間にかナサブの家の中に、まるで当たり前のように入り込んでいたこと。 ナサブは、自分の家の在り処を教えていなかったのに。 ナサブには、分からないことだらけです。 なのに、頭の中はこんなにもソラのことで一杯なのに、臆病なナサブは何も訊くことができません。 「あたし、何か助けになれば…って思ってしたことなのに、結局傷付けてばかりで、ごめんね…。でも、お願いだから、明日行かないで……」 「明日、行っちゃ駄目…。行かないで…。絶対よ…」 繰り返しそう言うと、ソラの姿は次第に輪郭を淡く滲ませて、いつしか闇に溶けていってしまいました。 目の前で消えてしまったソラの残像を、ナサブはただ呆然と闇の中に見つめていました。 ”もしかしたら、これは夢なんじゃないか” ナサブは思いました。 自分はずっと、長い長い夢を見ているのではないかと。 ソラに出会う前からずっと、醒めない夢を見ているのではないか。 だったら、どんなにかいいだろう。 アリと一緒にしてきた悪事も、全て夢の中の出来事だったら―。 けれど、そんな一縷の希望を打ち消すように、ソラがいた場所には沢山のお金が残されていました。 「―なんだよ…これ…」 「こんな金、使えるわけないだろっ…ふざけんなよっ…」 ”ふざけんなよっ…ふざけんなっ…” 説明のつかない憤りが、ナサブの頭の中で渦巻いていました。 と、不意に、ズボンのポケットの中に何か入っているような気がして、手で中を探ってみると、一枚の紙切れが入っていました。 それはナサブがうんと小さい頃、父親が集めてきてくれたチラシの裏に、ナサブがクレヨンで絵を描いたものでした。 絵は、父親の絵でした。 絵に描かれた父親は、暖かい色をして、優しく笑っています。 けれど、ナサブはそれを手の中で握り潰しました。 思い切り、強く―。 今のナサブにとって、父親はただのお荷物でしかないのです。 ”これも、きっとソラの仕業だ” ナサブは思いました。 自分を思いとどまらせる為に、優しかった頃の父親を、ソラが見せたのだと。 しかしそれは、むしろナサブを苛立たせ、逆の方向へと気持ちを駆り立てました。 ”思い出なんて、邪魔なだけなんだよ” ナサブは、やり場のない悲しみをぶつけるように、心の壁に言葉を吐きかけました。 ”思い出なんて捨てちまえ”  ”思い出なんて捨てちまえ”と。
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