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「―分かったか?これを売るんだ」
そう言って渡されたのは、小さな袋に入った白い粉でした。
「あそこの交差点のとこ。ファストフードの店の前で。”クスリあるよ”って、一言囁けばいい。欲しがってる奴は噂を聞きつけてやって来た連中で、キョロキョロしてるからすぐ分かる。そいつらの耳許で、一言囁けばいいのさ。”欲しい物はここにあるよ”ってな」
アリの言葉を、ナサブはうわの空で聞いていました。
”行っちゃダメ”
ソラの声が、今更乍ら重く大きくのしかかってきます。
”行っちゃダメ”
いつか話に聞いたことがある。あの辺に行けば売人がいると。
ナサブは初めて見る白い”クスリ”を前に、こんな物を買うのは一体どういう人なんだろう、と考えていました。
快楽を求める人、ただ単に好奇心を満たしたい人、何かから逃れたい人…。
いずれにしても、自分達よりは恵まれている。
そんな気がしました。
だって彼等は、それを買うだけのお金を持っているのだから。
食べ物を買うにも事欠くような自分達とは、根本的に違うのだから。
”そうさ、別に悪い事じゃない”
ナサブは自分に言い聞かせるように、胸の内で呟きました。
”オレ達が食べる物を手に入れる為に、これを売ったって、誰も責めることなんてできやしない。だってあいつらは、食べ物を買っても有り余る程の金を、この白い粉に注ぎ込もうっていうんだから”
ゼイタク病の奴等がどうなろうと、知ったこっちゃない―そうさ、中毒になって廃人になろうがどうなろうが、オレには関係ない。こんな物を、欲しがる奴等が悪いんだ―
ナサブは、そう自分を納得させました。
交差点に立つと、埃っぽい空気が充満していました。
車から吹き上げる排気ガスが、鼻や咽喉に侵入して噎せ返るようです。
もう夕暮れ時だというのに、押し迫る暗闇に抵抗するように最後の力を振り絞って照り付ける太陽に、ナサブは目が眩みそうになりました。
生暖かい乾いた風が、頬を撫でていきます。
”キョロキョロしてるから、すぐに分かるさ”
そうアリは言ったけれど、それらしい人物は今のところ見当たりません。
ナサブは何故か、少しホッとしました。
そして、その安堵の溜め息に、自分の意気地の無さを感じ取って、今度は逆に腹立たしい気持ちになりました。
さっき、あれ程自分に言い聞かせたのに、と情けない思いで一杯でした。
”良心なんか持ってたら、こんな世の中で、どうやって生きていけるっていうんだ”
ナサブはキッと前を見据えました。
自分が持っている白い粉を、”欲しがっている人”を見つける為に。
何気ないふうを装って道往く人を物色していると、一人の男が近付いて来ました。
所在無さ気に、道端に立ったまま煙草をふかしていた若い男です。
灰色のシャツに、黒いズボン。
その、痩せてとんがった印象の男は、まるで待ち合わせでもしていたかのように、ナサブの前に立つと、「やぁ」と声を掛けてきました。
「あれ、持ってるかい?」
ナサブはゴクリと唾を呑み込みました。
「…持ってるよ」
乾いた声で辛うじて答えると、男はナサブを狭い路地へと導きました。
「幾らだい?」
ナサブに言われた金額を、なんの躊躇いもなく男は懐から取り出し、差し出します。
ナサブは、すぐには受け取る事ができませんでした。
「どうした?これでいいんだろ?早く出せよ。誰か来たら、まずいじゃないか。ほら、早く」
男に促されて、ナサブはやっとのことでお金を受け取り、それと引き換えに、ファストフードの袋に忍ばせた”白い粉”を渡そうとしました。
と、その時です。
突然ガッチリと強い力が、ナサブの腕を捕らえたのは。
見るとガタイのいい男が二人、ナサブ達に張り付くように立っています。
「袋の中身、調べさせてもらおうか」
警察です。”客”の男も、あっという間に別の警官に捕えられ、必死に何か喚いています。
「オレはただ、ハンバーガーを分けてもらおうと思っただけだよっ。他に何が入ってるかなんて、知ったこっちゃねぇっ。オレは何も関係ねーよっ」
全ての責任を、ナサブ一人に被せようというのでしょう。
”最近、取り締まりが厳しくなってきてるんだ。気を付けろよ”
そう言ったアリでさえ、結局はナサブを利用しただけなのです。
取り締まりが厳しくなっているから、自分では街頭に立たない。
危ない橋はナサブに渡らせて、自分はその利益だけを吸い上げるつもりだったのです。
ナサブには初めから分かっていました。
”フッ”
ナサブの口元が僅かに歪んで、悲しくも皮肉な笑みが零れ落ちました。
”結局、そうなんだ”
”貧乏クジを引くのは、いつだってオレ達貧乏人じゃないか”
”オレ達は、一生ここから這い上がれないんだ”
”そういう仕組みになってるんだ。世の中ってのは”
「ほらっ、さっさと来るんだっ」
警官に引き立てられ乍ら、ナサブはいつだかの、テレビのリポーターの言葉を思い出していました。
”君の夢は、なんですか?”
”君の夢は、なんですか?”
”君の夢は―”
ナサブの目から、涙が溢れてきました。
夢なんて捨てた。夢なんて何も持ってない。
それなのに、何故その一言が、今こんなに彼の心を悲しく締め付けるのでしょう。
俯いたまま、警官に引っ張られるようにしてパトカーに乗り込もうとするナサブを、道往く人は遠巻きに見ていました。
恐らくは、アリもどこかから、ただの通行人としてこの光景を見ているのでしょう。
パトカーはナサブを乗せて走り出そうとしました。
が、その時、突然耳許でガシャンと激しい音がして、窓硝子が砕け散りました。
ナサブが座っているのと反対側、警官のすぐ側の窓が、何者かによって外側から破られたのです。
飛び散った破片を顔に受けて、警官は頬を押えて呻き声をあげました。
「逃げろっ、早くっ」
ナサブに向かってそう言ったのは、しかしアリではありませんでした。
それは入院している筈の、ナサブの父親でした。
父親は、車の窓硝子を割る為に使った松葉杖を握っています。
ケガをした足で、よろけそうになり乍らも、大声でナサブを追い立てました。
「何してるんだ!? 早くっ、早く逃げろっ!」
父親の声に弾かれたように、ナサブはドアを開けて車から飛び出し、一目散に駆け出しました。
”どうして…!?どうして父さんが…!?”
心の中で、そう叫び乍ら。
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