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ナサブは行くあてもなく列車に乗っていました。
窓の外は今ではすっかり闇に包まれ、時折りさびれた町の灯りが車窓を通り過ぎてゆきます。
ナサブは”どうして”と心の中で自問していました。
”どうして父さんは、オレを助けたりしたんだろう”
”病院から脱け出してまで?”
”どうして?”
”どうして、今日の”仕事”の事を知っていたんだろう…”
ポケットの中からクシャクシャになった紙切れを出して見つめます。
それはこの間、ナサブが握り潰して、そのままになっていた父親の似顔絵でした。
ナサブはそれをいっそ捨ててしまおうとして、結局捨てられなかったのです。
”父さんは、今じゃオレの稼いだ金をちょろまかして酒を飲んでいるんだ…”
”酔っ払って、その上ケガまでして、オレを追い詰めたのは父さんじゃないか”
”それなのに…”
クシャクシャになった父親の笑顔を見乍ら、ナサブは涙が溢れて止まりませんでした。
そういえば入院してからというもの、父親はただむっつりと黙り込んで、怒ったように病室の床の辺りをジッと凝視していたのを覚えています。
が、ただ単に、”病院では酒も飲めないから機嫌が悪いのだろう”とナサブは思っていたのです。
”なんで知ってたんだろう…”
今日の事は、誰にも何も言っていませんでした。
ナサブが良からぬ仕事をしているとは、うすうす感づいていたのかもしれませんが、それでも父親は見て見ぬふりをする筈だと、ナサブは思っていました。
酒を、金を持って帰りさえすれば、入院費を工面する事ができれば、父親は何も言わない筈だと。
どんな悪事にナサブが手を汚したとしても、構わない筈だと。
”なんで、助けたりしたんだよ…”
父親は今頃、警察に拘留されているでしょう。ナサブの身代わりに。
警官にケガを負わせ、ナサブを逃がした罪人として。
そしてナサブもまた、警察に追われる身の上です。
”この先、どうすればいいんだろう…”
泣き乍ら、ぼんやりと頭の片隅でそう思った時、誰もいない車内に足音が響きました。
ナサブは思わず身を強ばらせました。
が、そこに立っていたのは警官ではなく、白いワンピースの少女、ソラでした。
”なんでここに…? もう会えないって、この間言ってたのに…”
「お腹、空いてない?」
ナサブの向かいの席に座ると、ソラはハンバーガーの袋を差し出しました。
ナサブはギョッとして言葉を呑み込みました。
それはさっきナサブが持っていた袋―白いクスリの入った、ファストフードの袋だったのです。
ソラは袋から白い粉の包みを取り出すと、そっとお祈りする時のように、組んだ手の中にそれを包み込みました。
「見て」
ソラが組んだ両手をナサブの前にかざすと、組んだ指の隙間からボウッと青白い光が放たれ、そして次の瞬間、その光は消えていました。
ソラが組んだ掌を広げると、中にあった筈の白い粉の包みも、跡形もなく消えていました。
「あたしの、とっておきの手品」
少しだけ微笑んで、ソラは言いました。
「お巡りさんが持っていった袋には何も入ってないわ。ハンバーガーとポテトだけ。誰もケガもしてないし、パトカーの硝子も割れてない。お父さんも、じきに帰してもらえる。だから、何も心配しなくて大丈夫よ」
言い乍らソラは、袋から今度は本物のハンバーガーの包みを取り出し、ナサブに渡しました。
一体いつの間に、どうやって袋をすり替えたのでしょう。
渡されたハンバーガーを手にしたまま、呆然としていたナサブは、不意に周りが明るくなったのに気付いて、窓の外に目をやりました。
するとどうでしょう。彼の目に映ったのは、真っ青な空でした。
今迄闇に包まれていた筈の空が、白い雲を浮かべた真昼の青空になっていたのです。
町並みも何も無い、一面の空。まるで、宙に浮かんでいるような。
「あたしが、いつも見ていた世界」
地面の存在を確認しようとして窓を開けようとしたナサブに、ソラが言いました。
どうしたわけか、窓は開きません。
「あたしね、病院のベッドに眠ってるの。6年前からずっと―。動けないし、話も出来ない。目も閉じたまんま…。だけどね、時々分かるの。お母さんが、部屋の窓を開けたり、テレビをつけて見せたりしてくれるのが。気配でね、分かるの」
ソラが何を言っているのか、ナサブには俄かには理解できませんでした。
病院で眠ってる? 動けない? だって、今こうして、ここにいるのに…?
「あの日も、お母さんが来て、テレビをつけてくれた。それでね、聞こえたの。”夢なんか、あるわけないじゃないか”って、言う声が」
”夢なんか、あるわけない”
それは確かに、ナサブがあの日、テレビのリポーターに向かって言った言葉です。
それをソラは、病院のベッドの上で聞いたというのでしょうか?
そして、前に言っていた通り、ナサブに会う為に、この国にやって来たのでしょうか?
でも、どうやって?
動けない筈のソラが、一体どうやってここまで来れたのでしょう?
「言ったでしょ?遠い所へ行かなきゃならない、って。元々あたし、治る見込みなんてなかったから…。だから、心の中でお祈りしたの。”このコに、せめて一度だけでも会わせて下さい”って。”その為なら、死んだように眠ってるこの体なんか要りません。今すぐ死んでも構いません”って」
「それで、魂だけ脱け出して、オレに会いに来たっていうのか…?」
「気味が悪い?」
気味が悪いとは思いませんでした。怖いとも。
ただナサブには、どうしてそこまでしてソラが自分に会いたかったのか、まるで分かりませんでした。
「あたしも同じだったの」
ナサブの心を読み取ったように、ソラが言います。
「あたしもずっと夢なんてなかった。だってそうでしょう? いきなり事故に遭って、生きてるか死んでるかも分からないようになっちゃって…それ迄思い描いてた夢も未来も、全部消えて無くなった…」
悲し気なソラの顔を見て、ナサブは思いました。
ソラの、深い絶望を。
それは、ナサブが今迄感じてきた彼自身の絶望と、ピタリと重なりました。
先の見えない暗闇。一筋の光も無い―。
「でも…でもね…」
ソラは言葉を続けました。
「あの時、”夢なんか無い”っていうのを聞いて、凄く悲しくなった…。お金が無くても、ちゃんと生きてるのに…って。学校に行けなくても、他の人に出来ないような凄い事が出来るかもしれないのに…あなたにしか出来ない事があるかもしれないのに…って」
「綺麗事だって、考えが甘いって、思うかもしれないけど…」
そう。綺麗事だ。
今迄のナサブなら、そう思ったでしょう。
でも、今は…。
今は、彼には何も言えず、ソラを見つめているだけでした。
「それをね、一言、どうしても言いたかったの…。他の誰にもない、凄い力が自分にはあるって、信じてほしい…負けないでほしいって、伝えたかった…。どうしても…」
「だからね、これがあたしの夢」と、ソラは微笑み乍ら言いました。
「最後のね」と。
ナサブはたまらなく悲しくなりました。
”最後の、夢…? 最後の…? オレに一目会うことが? ”夢を捨てるな”って言う事が…?”
「あたしが家に行った時、妹達だって言ってたよ。”お兄ちゃん、凄く絵が上手いんだよ”って」
”オレのことなんか、どうだっていいじゃないか”
ナサブは思いました。
自分だって、本当はもっと他に夢があるんじゃないのかと、心で問いました。
本当は、”生きたい”と願っているんじゃないのかと―。
「あたしも、絵、見たかったな…。妹が言ってた、お花畑の絵―」
「だったら、見ればいいじゃないかっ」
堪えていたものが一気に迸るように、ナサブの口から言葉が溢れ出しました。
「だったら、もっと生きて、見ればいいだろっ。絵なんか、いくらだって描いてやるよっ。生きてれば…生きてれば、いくらだって」
「だから生きろよ」とナサブは言いました。
「生きて、今度は本当の…元気になった体でオレに会いに来いよっ」と。
ソラは虚をつかれたように暫く目を瞠っていましたが、やがて諦めたようにポツリと、「無理よ」と言いました。
「あたしが決める事じゃないもの。どうしようもできないわ」と。
それでもナサブは訴え続けました。
ここに来たのは、おまえの力じゃないのか、と。
おまえが強く望んだから、ここに来れたんじゃないのか、と。
けれどソラは、力無く笑って言いました。
「神様の力よ」と。
自分の力ではないのだと。
外は相変わらず、窓一面の青空です。
四角い窓枠に縁取られたその空は、どこか虚しく、作り物めいていました。
こんなんじゃなくて本当の空を、本物の空を見たい筈なのに…病院の窓越しでない空を見たい筈なのに…と、ナサブはソラの気持ちを思って叫び出したい衝動に駆られました。
が、ソラは静かに「ありがとう」と言い、最後に一言、「雲の上から見てるから、お花畑の絵、いつか描いて見せてね」と言い残して、蝋燭の火のように、その姿はボウッと揺れ乍ら、やがて消えてしまいました。
後にはただ、ソラが今迄そこにいた気配だけが、微かに漂っています。
ナサブはその気配を、そっと両手で抱きしめました。
それはまるでソラの亡骸のようで、今この瞬間に、病院で眠っているソラの命の灯も消えてしまったのではないかと、怖ろしいまでの喪失感をナサブに与えたのです。
不遇な家庭に育ち、失う物などもう何も無いと思っていたのに。
”世の中なんてこんなもんさ”と、諦めるのには慣れてしまっていた筈なのに。
”お花畑の絵、見せてね”
ソラの声が、耳許でまだ囁いているかのようです。
”お花畑、見せてね”
見せてやる。いくらだって、見せてやる―。
ナサブは我知らず、声に出して呟いていました。
「雲の上から見てるだって? 散々人を振り回しておいて、オレをこんな気持ちにさせて…勝手に自分だけ消えるなよ…」
「夢や希望を、一番捨てたくないのはおまえだろ…っ」
「だったら死ぬなよ…っ、生きろよ…っ」
「生きろよ…!」
ナサブは叫びました。
無気力だった彼の、どこにそんな力があったのかと思う程、強く。
「生きろよ…!!」
それは彼自身に向けられた言葉のようでもありました。
「生きろよ…!!」
「生きろよ!!」
と、その時です。
列車の窓に映っていた空からカッと強い稲光が走って、窓硝子を突き破りました。
瞬時に硝子の割れる激しい音がして、割れた破片が四方八方へと飛び散り、列車も轟音と共に激しく揺れ動きました。
青かった空は漆黒の闇に変わり、それ迄宙に浮いているかのようだった列車は、あたかも飛行機が墜落するかのように急降下していきました。
魂が抜けそうになる程の猛スピードで、暗闇の中を。
その怖ろしいまでのスピードと暗黒の世界に呑み込まれるように、ナサブの意識も次第に遠のいていきました。
深く深く、沈み込むように。
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