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「君の夢は?」
どこかの国のテレビのリポーターがマイクを差し出して訊きました。
「君の、将来の夢はなんですか?」
通訳の人の声を耳許に聞き乍ら、少年―ナサブは不思議そうな表情でリポーターを見つめていました。
この人は一体何を言っているんだろう?
夢だって? 将来何になりたいかだって?
それをオレに訊くなんて、どうかしてる。
「夢なんて、ないよ」
醒めた目でナサブは言いました。
「夢なんてあるわけない。学校にも行けない貧しいオレが、一体何になれるっていうんだ」
そう、オレは何にもなれないんだ。
ナサブの中のもう一人のナサブが、諦めたように悲し気に、そう呟いていました。
「このインチキ野郎っ!」
大きな手が、ナサブの頬を体ごと列車の床へと張り飛ばしました。
「ミネラルウォーターだなんて言って売りつけやがって、こりゃただの水道水じゃねーかっ」
列車の壁にぶつかって倒れ込んだナサブを、大きな手は尚も捕らえようとします。
「やめてっ、お兄ちゃんをぶたないでっ」
駆け寄る小さな弟にも、容赦なく平手が飛んできます。
「兄弟してグルになりやがって、ふてえ野郎だっ」
「やめろよっ、弟は悪くないっ。オレの言う通りにしてるだけなんだっ。弟は悪くないんだっ」
弟を庇って、ナサブは何度も何度も振り下ろされる怒りの拳を受け止めていました。
ただじっと、体を打つ激しい痛みに耐えていました。
そうする以外に何が出来るというのでしょう。
悪いのは自分達だと、ナサブには痛い程よく分かっているのです。
「おいっ、何してるんだ!? もう列車が出るぞっ」
騒ぎを聞きつけた駅員の声で、ナサブはやっと解放されました。
投げ捨てられるように列車を降ろされ、地べたに座り込んだまま、ナサブは遠去かって行く列車の音を、そこから吐き出される乗客の黒い罵声を、惨めな思いで聞いていました。
”こんなの、今に始まったことじゃない。いちいち気にしてたって、しょうがないじゃないか”
―しょうがない―
それはナサブが物心ついた頃から、ずっと呪文のように唱え続けてきた言葉でした。
”貧しい家に生まれたんだからしょうがない”
”国が貧しいんだからしょうがない”
”学校にも行けないんだからしょうがない”
”夢なんて、希望なんて持ったってしょうがない”
そうやって、ずっと自分に色々な事を諦めさせてきたのです。
そうする以外に、彼に何が出来たというのでしょう。
”オレに出来るのは、空のペットボトルに水道水を詰めて、ほんの僅かな金を人から巻き上げるだけなんだ。しかも、オレ達とたいして変わらない貧しい人間から”
「お兄ちゃん、もう帰らないとお父さんに叱られるよ」
弟に促されて、ナサブはやっとのことで重い腰をあげました。
”どのみち叱られるのは分かってる”
ナサブはポケットの中の幾つかのコインを握り締めました。
それは家族みんなが充分な食事をするのには到底足りないような端下金です。
”このままどこかへ逃げ出してしまえたら…”
何度そう思ったことでしょう。
けれど小さな弟や妹を置き去りにして、病弱な母親を捨てて、自分一人だけ家を出る事は、ナサブにはどうしても出来ませんでした。
ナサブは諦めたように、もう暗くなり始めた埃っぽい道を、重い足取りで家へと歩き始めました。
家に帰ると、父親は狂ったように怒り、ナサブに殴りかかりました。
「一日中外にいて、たったこれだけしか稼げないのかっ。この役立たずがっ」
止めに入った母親を突き飛ばし、その手で粗末な木のテーブルの上に並んだ空の酒瓶を薙ぎ倒します。
が、次の瞬間、父親は震える拳を握り締め、テーブルの上に突っ伏してしまいました。
肩を震わせ、傷付いた獣のように微かなすすり泣きの声をあげています。
ナサブには分かり過ぎる程分かっていました。
殴られた自分よりも、殴った父親のほうがずっと深く傷付いていることを。
”どうしてこんなふうになってしまったんだろう…”
以前は父親はこんなふうではなかったのです。
貧しいけれどもちゃんと真面目に働いて、僅かな賃金でも食べることさえ出来ればと、満足していたのです。
それなのに―。
父親は突然、仕事をクビにされてしまったのです。
『不景気だから』と小さな町工場の主は言いました。
『もう給料が払えないんだよ』と。
その工場は以前から経営が火の車でとうとう閉鎖され、父親も他の工員も、最後には給料さえ貰えず放り出されてしまったのです。
父親はなんとか新しい職を探そうとしましたが、どこも彼を雇ってくれる所はありませんでした。
この貧しい国では、彼のような貧しい労働者は有り余る程溢れていて、年取った彼が入り込む余地など、どこにも無いのです。
”金さえあれば…”
ナサブは思いました。
金さえあれば、父親も元の優しい父親に戻って、みんなお腹一杯食べられる。
母親を医者に連れて行ってやることだって出来る。
”金を…もっと儲かる仕事を……”
ナサブの耳に、つい先日囁きかけられた言葉が、鮮やかに甦ります。
『オレ達と組まないか?』
それはいつも水売りの仕事の時に顔を合わせる、二つか三つ位年上の、アリという青年でした。
やはりインチキな水売りを商売にしていて、時折りナサブと客との間に割り込んでナサブの客を横取りしてしまう狡猾さがあって、ナサブは何か信用できないものをアリに感じていました。
けれど今のナサブにとって彼の言葉は、たとえ悪魔の囁きであったとしても魅力的なものでした。
『もっと儲かる仕事、しようぜ』
そう彼は言ったのです。
『もっと、楽で儲かる仕事を』と。
楽で儲かる仕事―。それは決してまっとうなものではないだろう。
そう思い乍らもナサブは、いつしかその呪文の虜になっていました。
もう、弟や妹に辛い思いをさせなくて済む…母親を医者に診せてやれる…楽しかった、元の家族に戻れる…―ただ、その一心で。
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