【参】陥落

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天台宗蓮華王院の本堂、三十三間堂。 南北に120m、奥行き22m、高さ16m。 入母屋造、本瓦葺きの長大なお堂である。 正面中央には、八角七重の台座『蓮華座』があり、像高3.55m、桧の寄木造りで水晶の玉眼を持ち、全身に漆箔(しっぱく)が施された、千手観音坐像がある。 その正面に向かって左端に雷神像、右端に風神像が立ち、千手観音坐像までの間には、観音二十八部衆像が立ち並ぶ。 その後ろに、1001体の千手観音像が列立する。 堂内の内陣に33本の柱間があることから、『三十三間堂』と呼ばれる様になった。 順路は、本堂の向かって右側からとなり、一際大きな風神像を前角に、整然と列を成す、木造漆箔加工(漆で金箔を1枚1枚押す技法)の千手観音像が圧巻の眺望を見せる。 「これが…風神像ね」 その真正面に立つ真理。 生まれて初めて感じる、得体の知れない抑揚感。体の内側から、力が膨らむ感覚。 「あれは?」 真理の足元に、幾つか小さな旋風(つむじかぜ)が生まれた。 憑かれたかの様に、見下ろす目を見詰める真理。 「マリはそこから動かない様に。既に僅かだが、マリとツルギの力は、覚醒し始めている」 目は逸らさず、ゆっくりうなずく真理。 「ツルギ、君は…」 「雷神像の前、ですね?」 立ち並んだ1001体の千手観音像。 その向こう側の端に、鶴城の目は惹かれていた。 「桃林信幸さん、彼の持ってるバッグを」 レーヤのバッグを渡し、雷神像へと歩む鶴城。 空が曇ったのか、差し込む陽射しが急に弱まった。 「何が起きるかは、私にも分からない。ただ、父天膳の遺言に従うのも、娘として運命(さだめ)。あの二人も同じ絆を担って生まれた者」 中央の千手観音坐像に向かい、無韻で語るレーヤ。 薄暗い影から、衣服の中を潜って現れた光の手。 「なんと言うこと…貴女はやはり、この寺で生まれた…いや、創られた天来の化身」 「さて…天からか地獄からか、或いは…その狭間か。隋の時代に中国浙江省天台県で始まり、平安時代に最澄によって、この國に広められた天台宗。万民が仏になれると説いた教えは、理を成さないままに(つい)えた。仏陀や釈迦を目指すも、所詮は人の(なり)。天界になど、到底届くはずもない」 ふ〜…と一つ息を吐く。 「真言を開いた空海にしても同じこと。膨大な知識を学び、あらゆる徳を知ったとしても、悟りの境地は見えず。互いに密教をその引導と知らしめた…つもりらしい」 じわじわと広がる、レーヤの影。 たまらず下がる信幸。 「挙げ句の果てには密教を広め、陰陽道や呪術に富と権力を求めた朝廷や、醜い富裕層の拠り所と成り果てた。庶民も然り。災いや怨霊や祟りを恐れ、憐れみを乞いては、憎しみには呪詛に(すが)る。その心こそが、邪悪な存在を棲まわせるとも知らず。仏教を開いた釈迦が、人の世は苦行の世。その苦の原因は愛欲にある…と説いたのも、良く分かる気がする」 淡々と説き述べる若い娘。 そのレーヤに、尊顔の兆しを見た信幸。 「貴女は一体…」 「何者か? 天膳の遺言には、こうある」 その目の前には、鎮座した千手観音像。 見つめるレーヤの瞳が鋭さを増す。 「私の友に、先望術の使い手がいてね。その祖父が月夜見(つくよみ)の集いで、仏教界の未来をらしい」 「仏教界の…未来?」 「それは、仏教界に留まらず、世界を破滅へと向かわせる災い。その日はもう近い。今度(こたび)の悪行も父の死も、全てがその予兆。それを止めるために、私は…創られたと。ここに集う千手観音菩薩の1002体目の化身、そして…蓮華王菩薩となるべくして」 「1002体目の…千手観音」 その驚きは、目の前の少女によって掻き消された。 「ほぅ…この腕達が見えているとは、さすが桃林住職が任せただけのことはある」 心と思惑の全てを読まれていた。 「私はただ…この奪われた腕を取り戻したいだけ。でも、これでも仏教界に身を置く者。この世を滅ぼす者を、見過ごすことは出来ない。全く…厄介なものだ。因みに、父が遺言を書いたのは、半年ほど前らしい」 「えっ?…では」 「自分が、あの晩に死なねばことを悟っていた…と言うこと。恐らく父を追い詰めたのは、高野山真言宗の者。殺させなかったのは、怨恨を作らぬため。つまり…敵は別に居る」 「そうまでして仏教界の統合を?」 「それだけその敵の力は、強大だと言うことになる。こんな小さな国で、複数の宗派が、(いくさ)の歴史を繰り返している場合じゃないってことよ」 「一体…その敵は何者なのですか?」 「まだ分からない…が、もしかしたら? と、疑念している者はいる。少なくともそれに関わっていて、まず味方ではない人物…」 誰か? と問うのを、信幸は敢えてやめた。 疑念で話すほど、彼女は愚かではないと。 「さてと…少し離れていた方が良いかも。もしもの時は、これで外にいる警察に連絡を」 村上の電話番号を出して、スマホを渡す。 真理と鶴城が配置に着いているのを確認し、アームカバーから出ている手を合わせた。 足元の影から現れた無数の腕。 それらがレーヤの周りで手を広げる。 (これが…1002体目の千手観音!) 余りの威圧感に、思わず後ずさる信幸。 今正に、覚醒の儀式が始まろうとしていた。
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