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後ろから俺を抱き締めて、俺の肩に顔を埋め出した。
「ちょっ、は、離れて下さいっ」
エレベーターにも監視カメラは付いている筈。彼はそんなことはお構い無しに、俺の腹部に手を這わせた。
「久しぶりに『コタ』の体温感じたかったのに、冷たいな。握手もしてくれなかったし」
昔、二人っきりの時にだけ呼んでいた俺の呼び名を彼は使った。会社の人間でそう呼んでいたのは彼だけ。
今呼ばれると、いろいろな記憶が呼び起こされてムズムズする。
「俺に触れられた時のこと思い出すから、嫌だった?」
耳元で囁く彼の声は、昔とちっとも変わらない。
惑わせて、危ない方向に誘うみたいな。中毒性ありそうな低くて甘い、独特の声。
昔の俺だったらすぐに堕ちていただろうけど、今はもう状況が違う。
頭もわりとしっかりしていて、すぐに彼の手を振りほどけた。すっかり未練もないみたいだ。
彼に向き直り、俺は小声で彼を叱った。
「充さんっ、もう俺達は付き合ってないんだから、会社でこういうことは止めて下さいっ」
俺の強気な態度を目にして、彼、水無瀬充は残念そうに肩を落とした。
「会うの楽しみにしてたのに、本当に冷たいな……昔は可愛かったのに」
「もう三十代だから可愛くないんですよっ」
強気な態度を貫いている内に、エレベーターは目的の階に到着した。
降りる前に、一応釘を刺す。
「俺、会社のみんなにカミングアウトはしてないんですからっ、そういう話は絶対しないで下さいねっ」
ガッカリした感じの、気の抜けた「はーい」が返ってきた。けど、これに関しては大丈夫だと確信する。
(昔から会社の人間にも心開いてないところあるし、カミングアウト反対派だったから……その辺のことは安心出来る。問題は、近々対面しちゃうってことだろうな……)
今、紫崎は作業へ出掛けたばかり。課長と水無瀬さんとの打ち合わせは午前中には終わる筈。
今日のところは、元彼と今彼の対面はなさそうだけど、心臓はバクバクだった。
廊下に出ると、一応作業員が居ないか確認。挙動不審だけど、水無瀬さんの反応は気にしていられなかった。
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