あんうん

5/6

147人が本棚に入れています
本棚に追加
/173ページ
 後ろから俺を抱き締めて、俺の肩に顔を埋め出した。 「ちょっ、は、離れて下さいっ」  エレベーターにも監視カメラは付いている筈。彼はそんなことはお構い無しに、俺の腹部に手を這わせた。 「久しぶりに『コタ』の体温感じたかったのに、冷たいな。握手もしてくれなかったし」  昔、二人っきりの時にだけ呼んでいた俺の呼び名を彼は使った。会社の人間でそう呼んでいたのは彼だけ。  今呼ばれると、いろいろな記憶が呼び起こされてムズムズする。 「俺に触れられた時のこと思い出すから、嫌だった?」  耳元で囁く彼の声は、昔とちっとも変わらない。  惑わせて、危ない方向に誘うみたいな。中毒性ありそうな低くて甘い、独特の声。  昔の俺だったらすぐに堕ちていただろうけど、今はもう状況が違う。  頭もわりとしっかりしていて、すぐに彼の手を振りほどけた。すっかり未練もないみたいだ。  彼に向き直り、俺は小声で彼を叱った。 「(みつる)さんっ、もう俺達は付き合ってないんだから、会社でこういうことは止めて下さいっ」  俺の強気な態度を目にして、彼、水無瀬充(みなせみつる)は残念そうに肩を落とした。 「会うの楽しみにしてたのに、本当に冷たいな……昔は可愛かったのに」 「もう三十代だから可愛くないんですよっ」  強気な態度を貫いている内に、エレベーターは目的の階に到着した。  降りる前に、一応釘を刺す。 「俺、会社のみんなにカミングアウトはしてないんですからっ、そういう話は絶対しないで下さいねっ」  ガッカリした感じの、気の抜けた「はーい」が返ってきた。けど、これに関しては大丈夫だと確信する。 (昔から会社の人間にも心開いてないところあるし、カミングアウト反対派だったから……その辺のことは安心出来る。問題は、近々対面しちゃうってことだろうな……)  今、紫崎は作業へ出掛けたばかり。課長と水無瀬さんとの打ち合わせは午前中には終わる筈。  今日のところは、元彼と今彼の対面はなさそうだけど、心臓はバクバクだった。  廊下に出ると、一応作業員が居ないか確認。挙動不審だけど、水無瀬さんの反応は気にしていられなかった。
/173ページ

最初のコメントを投稿しよう!

147人が本棚に入れています
本棚に追加