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第1章 澱の中の花
初診の患者は震える手を開き、“心珠”を出現させた。
日焼け防止のアームカバーですっぽりおおわれた右手の手のひらから、10cmほど浮いた空気中に、直径3cmほどの珠が現れる。それは全体的に黒く淀み、本来の“心珠”の煌めきが失われている。
「心珠の中身を変えたいんです! 今この場で、心珠の中身を変えてすぐに帰らないといけないんです!」
患者の若い女性は、こぼれそうなほど大きな瞳に涙を溜め、手を握りこぶしにしてしまった。刹那、“心珠”は消えてしまう。
診察をしていた精神科医、藤堂縫は、女性の手を包むように、自分の手を重ねた。
「蓮見氷愛華さん」
ゆっくり、落ち着いたトーンを心がけ、患者の女性、蓮見氷愛華に話しかける。
「私と一緒に歌って下さい」
氷愛華の両の眼から、大粒の涙がこぼれた。瞳は困惑の色を隠せない。
縫は氷愛華の手を包んだまま、歌を口ずさむ。童謡の「歌を忘れたカナリア」だ。氷愛華はこの歌を知らないようで、たどたどしく口ずさむ。この歌は、1番から3番までは同じメロディだが、4番だけメロディが違う。この歌を歌うことは、治療ではなく、取り乱した氷愛華を落ち着かせることと時間稼ぎでしかない。歌を繰り返しながら、縫は自分の出方を考える。
保険証と予約の情報によると、氷愛華は昨日3月28日に20歳になったばかりの大学生。4月からは3年生になる。来年度28歳になる縫には、氷愛華の若さが羨ましい。
氷愛華の、黒目がちな大きな瞳と、ぽてっと厚く血色の良い唇、少し癖のあるロングの黒髪は、同性の縫にも艶っぽく感じてしまう。その分、この若さで精神科を受診するほど追い詰められている彼女が気の毒になってしまう。
「先生、すみません……取り乱してしまって」
氷愛華が落ち着いたところで、縫は彼女の手を離した。
氷愛華は再び手を開き、“心珠”を出現させる。“心珠”全体を侵食していた淀みは、心珠”の下半分だけになり、縦に細長い花の蕾のような模様があらわになった。
人はそれぞれの“心珠”をもって生まれる。
本人が念じれば手の中で出現させられる“心珠”は、急速に文明が発達し続けている今日でも謎に包まれたままだ。
触れることができない“心珠”には、ひとつとして同じものがない。それぞれがそれぞれの色と煌めきを宿している。
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