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「わかっています」
ぽてっと厚い唇が、小さな溜息をこぼした。
「心珠は一生変わらないんですよね。直に触れることもできないし、壊すこともできない。心珠は、医療でどうこうできるものでもない。わかっています」
氷愛華はわずかに息を吸う。右の手のひらに出現させた“心珠”は、すっと消えた。
「わかっています、けど」
口をつぐみ、俯く氷愛華。アームカバーに覆われた手は、またこぶしにしてしまった。
「心珠の中身を、違う風に見えるようにしなくてはならない事情がおありなのですね」
縫は言葉を選んだつもりだったが、結局は直球で訊ねてしまった。氷愛華は俯いたまま小さく頷いた。事情を語る様子は、ない。
「必ずしも、自分の心珠に自信を持てるわけではありません。私も、そうです」
「先生も?」
氷愛華が間髪入れずに訊ねた。顔を上げ、意外だ、と言わんばかりに目を丸くする。その反応が無邪気な子どもみたいで可愛い、と縫は思った。これが、飾らない素の氷愛華なのかもしれない。
「ええ。だから、あまり他人に見せることは致しません。本当に心から信じられる人にだけ見せられます」
縫の脳裏に浮かんだのは、縫を迎え入れてくれた両親と弟、従兄と祖父母、親友、優しい恋人。それから、幼い頃に縫を元気づけて「歌を忘れたカナリア」を教えてくれた恩人。
しかし氷愛華は、しょげてしまった。
「では、少し、氷愛華さんのことを聞かせて下さいな。話せる範囲で結構です」
縫の質問に、氷愛華はぽつりぽつりと答える。
「ご出身は?」
「大泉です。」
「ご家族は?」
「母だけです」
「お母様のお仕事は?」
「在宅勤務です」
「氷愛華さんの好きなことは?」
「特にありません」
「好きな場所や楽しかった思い出は?」
「特に……いえ、友人がアルバイトをしているハワイアンカフェです。1回しか行ったことがありませんが、良かったです」
「部活動やサークルに入っていたことは?」
「ありません」
「氷愛華さんは大学で何を専攻されていますか?」
「児童福祉です」
「子どもがお好きで?」
「特に……でも興味深い分野で、もっと勉強したいです」
「わかります!」
自分を出さずに傾聴しようとしていたはずなのに、縫は感情的に同意してしまった。
「あの、えっと、私の場合は、医学部の勉強は大変だったし毎日くじけたけど、精神疾患や脳科学は興味深くて、心珠とも関係がありそうで、もっと研究したいなーって」
「そういう感じです!」
氷愛華は前のめりになって同意した。
「では、大学の勉強は頑張れそうですか?」
「はい! でも……」
氷愛華は表情を曇らせた。
「なんでもありません」
開きかけた心が閉ざされてしまったところで、診察の時間が終了してしまった。
「では、次の予約は」
「予定がわからないので、後で連絡します」
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