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「今日も残業なのね」
「ご、ごめん。でも代わりに休日は頑張るよ」
夫はいつも日付が変わる頃に帰宅し、食事と入浴が済んだら就寝。疲れが癒やされる間もなくすぐ出社。家は帰って寝るだけの場所だった。
それでも、たまにある休日は娘に付きっきりで遊んでくれた。控えめに言っても溺愛していただろう。イクメン、良い父親と呼べる夫だった。
しかし、玲美亜が気に入らなかったのは、そこである。
「私だけのものだったのに……」
初めて自分を愛してくれた人。
自分が一身に浴びていたはずの愛を、娘に奪われてしまった。
妬みそねみ。
娘が自分似なのも、余計に忌々しかった。
産んだ時から違和感だったのだ。
子供のくせに、自分の体の一部だったくせに。
生を受けた瞬間、夫を奪った泥棒猫。
娘が成長するほど母性は抜け落ちていく。何故自身に仇なす所有物に無償の愛を注がねばならないのだ。
元より足りなかった優しさは、あっという間に底を突いた。
「あ、あなたが悪いのよ!」
最初はちょっとした仕返しだった。
所構わず泣き喚き、食事をよこせと強請り、汚れたオムツを替えろと要求する。迷惑をかける度、叩いてみた、つねってみた。余計に泣いた。うるさい。だが、清々しい。絶対逆らわない相手を一方的にいたぶるのは楽しかった。
ちゃぶ台を支えに掴まり立ち。押し倒してみた。
両手を前によちよち歩き。足を引っ掛けて転ばせた。
部屋の中を走り回る。「近所迷惑だ」と思い切り蹴飛ばした。
暴力を振るうほど、娘の体の至る所に痣が刻まれていく。夫には「お転婆さんでよく怪我をする」と誤魔化しておいた。鈍臭かったので簡単に信じてくれた。
が、勿論、そんな子育てで娘に好かれるはずもなく。
「パパだーいすきっ!」
「そうか。パパとっても嬉しいぞ~」
「でも、ママきらーい」
「どうして嫌いなんだい?」
「だってこわいんだもん」
なんて父子のやり取りもあった。
娘は余計に夫への好意を示すようになった。気を良くした夫もそれに応え、親子の時間を増やしていく一方。
おかげで玲美亜は、より疎外感を覚えるようになった。
完全に逆効果だった。
育児は辛いだけの苦行。何故母親になってしまったのだろうと後悔ばかり。
そんなある日の夜、事件は起きた。
「お風呂に入りなさい」
「はい」
三歳になった娘との入浴時。
厳しく躾けているので、「嫌い」と言いながらも指示は聞いてくれる。何でも自分でやりたがる第一次反抗期という時期らしいが、適切な教育の成果でそれらしき兆候は見られない。玲美亜にとって都合の良い子に育っている。かつて自分が受けた、独りよがりの教育をそのまま実行している。などとは、微塵も気付いていなかった。
「ちゃんと湯船に浸かるのよ」
「はい……」
「返事が小さいのよ!」
気を抜くとすぐにコレだ。
良い子の返事を教えているというのに。
娘の頭頂部を鷲掴みにすると、未成熟な顔を水面へと叩きつける。「ぎゃあ」と喧しく泣き出すのでもう一度水面へ。罰として少し長めに沈めておく。
「髪を洗うから、静かにしていなさい」
子育て中は落ち着いて風呂にも入れない。
洗髪の時間くらい余裕が欲しい。綺麗な黒髪が傷んでしまうではないか。
と、愚痴を内心呟きながら、ゆっくり頭皮をマッサージし、シャワーで丁寧に泡を濯ぐと、浴槽で娘が浮いていた。
「……え」
うつ伏せの娘が、ぷかぷか海月のように漂っている。
水面から出た背中と蒙古斑のある尻に、小さな波が何度も打ちつけている。
泣かない、騒がない、息もしていない。
――やってしまった。
その後、帰宅して事態を知った夫が通報。病院に搬送されるも娘は息を吹き返さず。死因は溺死。体中の痣から虐待の疑い有りとされ、玲美亜は逮捕されるのだった。
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