第二章:DANGEROUS

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「今日も残業なのね」 「ご、ごめん。でも代わりに休日は頑張るよ」  夫はいつも日付が変わる頃に帰宅し、食事と入浴が済んだら就寝。疲れが癒やされる間もなくすぐ出社。家は帰って寝るだけの場所だった。  それでも、たまにある休日は娘に付きっきりで遊んでくれた。控えめに言っても溺愛していただろう。イクメン、良い父親と呼べる夫だった。  しかし、玲美亜が気に入らなかったのは、そこである。 「私だけのものだったのに……」  初めて自分を愛してくれた人。  自分が一身に浴びていたはずの愛を、娘に奪われてしまった。  (ねた)みそねみ。  娘が自分似なのも、余計に忌々しかった。  産んだ時から違和感だったのだ。  子供のくせに、自分の体の一部だったくせに。  生を受けた瞬間、夫を奪った泥棒猫。  娘が成長するほど母性は抜け落ちていく。何故自身に仇なす所有物に無償の愛を注がねばならないのだ。  元より足りなかった優しさは、あっという間に底を突いた。   「あ、あなたが悪いのよ!」  最初はちょっとした仕返しだった。  所構わず泣き喚き、食事をよこせと強請(ねだ)り、汚れたオムツを替えろと要求する。迷惑をかける度、叩いてみた、つねってみた。余計に泣いた。うるさい。だが、清々しい。絶対逆らわない相手を一方的にいたぶるのは楽しかった。  ちゃぶ台を支えに掴まり立ち。押し倒してみた。  両手を前によちよち歩き。足を引っ掛けて転ばせた。  部屋の中を走り回る。「近所迷惑だ」と思い切り蹴飛ばした。  暴力を振るうほど、娘の体の至る所に(あざ)が刻まれていく。夫には「お転婆(てんば)さんでよく怪我(けが)をする」と誤魔化(ごまか)しておいた。鈍臭かったので簡単に信じてくれた。  が、勿論(もちろん)、そんな子育てで娘に好かれるはずもなく。 「パパだーいすきっ!」 「そうか。パパとっても嬉しいぞ~」 「でも、ママきらーい」 「どうして嫌いなんだい?」 「だってこわいんだもん」  なんて父子のやり取りもあった。  娘は余計に夫への好意を示すようになった。気を良くした夫もそれに応え、親子の時間を増やしていく一方。  おかげで玲美亜は、より疎外感を覚えるようになった。  完全に逆効果だった。  育児は辛いだけの苦行。何故母親になってしまったのだろうと後悔ばかり。  そんなある日の夜、事件は起きた。 「お風呂に入りなさい」 「はい」  三歳になった娘との入浴時。  厳しく(しつ)けているので、「嫌い」と言いながらも指示は聞いてくれる。何でも自分でやりたがる第一次反抗期という時期らしいが、の成果でそれらしき兆候は見られない。玲美亜にとって都合の良い子に育っている。かつて自分が受けた、独りよがりの教育をそのまま実行している。などとは、微塵(みじん)も気付いていなかった。 「ちゃんと湯船に浸かるのよ」 「はい……」 「返事が小さいのよ!」  気を抜くとすぐにコレだ。  良い子の返事を教えているというのに。  娘の頭頂部を鷲掴(わしづか)みにすると、未成熟な顔を水面へと叩きつける。「ぎゃあ」と(やかま)しく泣き出すのでもう一度水面へ。罰として少し長めに沈めておく。 「髪を洗うから、静かにしていなさい」  子育て中は落ち着いて風呂にも入れない。  洗髪の時間くらい余裕が欲しい。綺麗な黒髪が傷んでしまうではないか。  と、愚痴(ぐち)を内心呟きながら、ゆっくり頭皮をマッサージし、シャワーで丁寧に泡を(すす)ぐと、浴槽で娘が浮いていた。 「……え」  うつ伏せの娘が、ぷかぷか海月(くらげ)のように漂っている。  水面から出た背中と蒙古斑(もうこはん)のある尻に、小さな波が何度も打ちつけている。  泣かない、騒がない、息もしていない。  ――やってしまった。  その後、帰宅して事態を知った夫が通報。病院に搬送されるも娘は息を吹き返さず。死因は溺死。体中の痣から虐待の疑い有りとされ、玲美亜は逮捕されるのだった。
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