1612人が本棚に入れています
本棚に追加
「櫛、別に無くても大丈夫だろうと思ったけど、圭悟の商売道具だから処分するのも気が引けて」
ヒロシさんが引き取った荷物の中に混じっていたのは、京坂さんが仕事で使っていた櫛らしい。
ダイニングテーブルに置くと、京坂さんが受け取ろうと手を伸ばしたから、急いで俺が手に取った。
「ありがとうございます、駄目じゃない、圭悟」
またの『圭悟』呼びに、一瞬、京坂さんの口元が緩んだ。
でもすぐ、真顔になって黙り込む。
「ぷっっ!」
と、ヒロシさんが吹き出すと、続いてケタケタと笑いだしてお腹を抱えている。
「な、何がおかしいんだよ」
面白くなさそうに、京坂さんがヒロシさんに訊いている。
「そんな圭悟の様子、初めて見る」
なにそれ、俺は眉間に皺を寄せた。
「君も、すごい怖い顔だ、可愛いね」
俺の顔を見て、なんだか上から目線の言い方に、更に眉間の皺が深くなる。
「安心してよ、俺だってもう、新しい恋人いるから」
おそらく、京坂さんと俺の二人は同じような顔でヒロシさんを見ていたのだと思う。
「あのアパートの隣りに住んでいた人でしょう? 」
いきなり訊かれて、目が泳いだ。
「ぱっと見ただけで、圭悟の恋人だって分かった」
俺だって、貴方を見て、京坂さんと恋をしていた人だと分かったよ。
「圭悟に、すごい愛されてるね」
「「………… 」」
京坂さんと二人して沈黙。
「今の圭悟、早く君の機嫌を取りたくて仕方ないって顔してる。こんなのね、俺との時は全くなかった。きっと、俺の前の人たちだって、こんな圭悟は知らないと思うよ」
チラッとだけ、隣りに座る京坂さんに目が行った。
「ああ、早く泰地のご機嫌取りしたいんだから、ヒロシ、帰ってくれよ」
「ふふっ。それに、圭悟はそんなに素直じゃなかったしね。泰地さん? 圭悟のこと、こんなに変えちゃってすごいな」
ちょっと今、気分がいい。
「お幸せにね、俺も幸せだからね」
って、言葉を残してヒロシさんが帰って行った。
京坂さんがすごく俺を好きだと、ヒロシさんが証明してくれて、安堵の顔をしている京坂さん。
「京坂さん、先にお風呂に入る? 」
普通に『京坂さん』呼びに戻った俺に口先を尖らす。
「さっき、圭悟って呼んだじゃん」
そう言われて、顔がボワっと熱くなった。
「そ、それは…… まぁ…… 」
ヒロシさんの前だから『圭悟』と呼んだと言いたくなくて、言葉を濁す。
「圭悟って呼んでよ」
「京坂さんは京坂さんだから」
「なんだよ、それ」
「京坂さんに敬称を付けるとしたら、『京坂さん』さんだ」
「は? 」
まぁ、自分でも言ってて無理はあるな、とは思った。
「なにその、ア◯ネス・チャンさん、みたいな言い方」
「誰? それ」
「知らねぇの? おっかの上〜って、歌ってた人」
「知らない」
「マジで? 昭和の懐メロとか見たこと無ぇ? 」
「ない」
「さすが、お育ちが違うわ」
それを言われると俺は面白くなくて、仏頂面になる。
「そんな泰地が大好き」
抱き締められて、おでこにキスをくれる。
あっという間に形勢逆転。
『圭悟』って呼ぶチャンス、自分で逃しちゃったな。
残念…… 。
でも、やっぱり京坂さんは、『京坂さん』だよなって、ふふっと笑った。
「京坂さん」
「ん? 」
うん、これが一番しっくりいく。
── fin ──
*・゜゚・*:.。..。.:*・゜゚・*:.。. .。.:*・
次作、
『あの日に戻りたい… なんて、絶対に言わない』
https://estar.jp/novels/26165275
公開いたしました。
お読みいただけると嬉しいです!
最初のコメントを投稿しよう!