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よろしくね、お隣さん
綺麗な大きな手が、スッと耳元に近づくと、真顔で俺の髪を指先でつまんだり、軽く巻き付けたりしている。
え?
途端に心臓の鼓動が激しくなる。
「あ、あの…… は、はじめまして、隣の302号室に越して参りました、桜永と申します」
「くせっ毛? 」
「あ、は、はい…… 天然パーマです」
いきなり訊かれて度肝を抜かれながらもそう答えたけれど、今どき『天然パーマ』なんて言わなかったかなと、若干焦る。
「ふぅん、柔らかいね」
………… 。
まだ指先で俺の髪をいじっている、そのお隣の301号室の住人さんは、恐ろしく綺麗な顔をした男の人だった。
「俺は京坂、よろしくね、お隣さん」
艶やかな目をしてそう言うと、巻き付けていた指を髪からスルリと抜いてにこりと微笑む。
「よろしくお願いします」と差し出した、挨拶の為に用意した菓子折りの紙袋を受け取った。
呆然と立ち尽くす俺の前で扉が閉まる。
ああ、その菓子折り、できれば違うものに取り換えたいと、お隣さんと会って後悔する俺。
✴︎✴︎✴︎
「お決まりですか? 」
声を掛けられ、
「あ、はい…… 」
と、ショーケースに近づいた。
この春から、私立高校の教員として働く。
実家から通えない距離ではない、むしろ実家からの方が近いかもしれない、それでも独り立ちをしようと一人暮らしを決めた。
大学の同級生に一人暮らしをする人は沢山いて、実家から通う自分は甘えているような気にもなって背伸びをしたかったのかも知れない。
「ご近所へ挨拶をするように」との親からの助言で菓子折りを買いに、ショッピングモールへと足を運んだ。
あまりにも店があり過ぎて、何にしていいか決められず迷う。
「お決まりですか」
と声を掛けてもらったのは羊羹を売っている店の店員さん。
羊羹にしようと思ってはいなかったけれど、流れでそのまま購入することに。
「引越しの挨拶用なんですが…… 」
「どちらにしますか?」
「この、一口サイズが六個入った千円の物を…… 」
幾つ必要なんだろう。
「引越しの挨拶は、両隣りと真下の方で良いと思いますか?」
店員さんに訊いてみた。
「最上階にお住みですか?」
店員の方は中年より少し上、と言ったら失礼かな、その位の女性で俗に言う、おばさん、という感じの方。
「はい、三階建の三階、最上階になります」
階数まで言う必要はなかったか、そう思ったけど遅い、言ってしまった。
「お若いのに、今時ご近所に挨拶なんて律儀ですね」
店員さんが微笑む。
そうなのかな? 少し眉がひしゃげて首を傾げた。
「両隣りと下の方で充分だと思いますけどね」
にっこり笑って店員さんは答えてくれる。
「そうですか、ではそれでお願いします」
少し安堵した。
「では、三個でよろしいですか? 」
どんな羊羹なのか自分も食べてみる必要があるだろうと思い、「四つください」とお願いする。
「はい、熨斗紙はいかがなさいますか?」
…… 付けた方がいいよな。
「お願いします」
「お名前は? 」
「桜永、桜の木の桜に、永遠の永…… 」
「ここにお書きいただいてよろしいですか? 」
なんだ、最初から紙を出してくれればいいのにと、ちょっと、ほんの少しムッとなる。
なんだか、出鼻を挫かれたような一人暮らしの始まりに少し心が折れた。
それでも気を取り直し、菓子折りを持ってまずは下の階のお宅へ挨拶に行く。
…… 留守か。
それではと両隣へと伺うが、これまた留守で誰にも挨拶ができなかった。
それもそうだよな、平日の昼間だ、留守で当たり前かと思い直して部屋に戻る。
部屋は1LD K、一人か二人暮らしが大半のアパートだろうと思う。
ワンフロアには七室あり、両端の二室だけは一部屋多く2LD K、玄関の向きが違うから、外に出て左を見ると301号室の玄関を正面から見ることになる。
うーん、同時に玄関を開けたりなんかしたら、少し気まずいな、などと思ったりもした。
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