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そして気付いたのが、皆、表札が出ていないこと。
そういえば下の郵便受けにも誰一人、名前がなかったと思い返した。
実家の周りはほとんどが戸建ての家で、玄関や門に表札がない家などなかったから、軽いカルチャーショックを受ける。
『桜永』
部屋の表札にも郵便受けにもつけてしまった、なんだか恥ずかしくなる。
今更外すのもな…… 部屋の中の、まだ開けられていない幾つかの段ボールを見つめて項垂れた。
とりあえず片付けるか…… 。
明後日には仕事が始まる、落ち込んでいる暇はないぞ、俺。そう気持ちを奮い立たせたけれど、やっぱり気持ちが落ちる。
挨拶先に誰もいなかったことにか、表札が誰も出ていないことに気付いたことにか、はたまたホームシックか、もやもやウジウジとしている自分が嫌だった。
段ボールの中身を出していると、ついつい手が止まって見入ってしまう。荷造りの時には何も考えずにぼんぼんと詰めていたから、出している今、一つ一つに思いを馳せた。
弟が小学校の時に、図工の宿題で描いてくれた俺の絵が出てきて思わず笑みがこぼれる。
今年は高校受験だ、やっぱりそばにいて勉強を見てやればよかったかな、などと感傷的になった。
外はもう暗くなった夕方とも夜とも言えない時間、今度はいるかな?
あまり遅くなっても失礼だし、と考える。
よし行こう、と羊羹の入った紙袋をまた三つ持って部屋を出た。
やはりどこの家も応答が無い。
しかし、真下の方は部屋に電気が点いていたのを、先ほどコンビニへ買い物に出た際に知っていた。
どこの誰だか分からないからか、面倒だから応答しないのか、またもや心が折れる、
隣の303号室の人も無反応で、半分諦めかけて301号室のピンポンを押した。
ピンポンと鳴らすが応答なし、やっぱり留守かな……
もう挨拶はいいか、そんなことを思いながら、もう一度ピンポンを鳴らしてみた。
「はい」
突然、インターホンの応答もなく玄関の扉が開いたから、それは驚いて目を剥いているとジッと俺を見るお隣さん。
175cmの俺の目線が少し上になる、180cmは優に超えているのだろうと思えた。
綺麗な大きな手が、スッと耳元に近づくと、真顔で俺の髪を指先でつまんだり、軽く巻き付けたりしているから、何が起きているのか分からなくなる。
「あ、あの…… は、はじめまして、隣の302号室に越して参りました、桜永と申します」
お隣さんは少し視線を髪に流すと、まだ俺の髪をいじっている。
ドギマギとして、顔が引き攣る。
「くせっ毛? 」
「あ、は、はい…… 天然パーマです」
コンプレックスだったくせっ毛、目立たないように敢えてパーマをかけているが分かってしまったようで、これまた気が落ちた。
「ふぅん、柔らかいね」
「俺は京坂、よろしくね、お隣さん」
それまで真顔、というより無表情に近い顔が微笑んだから、百倍の笑顔に見えた。
そして何より綺麗な、整った顔に見惚れてしまう。
中途半端に持ち上げていた紙袋を、その京坂さんは受け取ると静かに扉が閉まり、一人廊下で立ち竦んだままになる。
ハッとして我に返り、303号室と下の住人さんへ渡すはずだった羊羹を見て後悔する。
京坂さんに羊羹は似合わない、お洒落な洋菓子の方が似合う、フィナンシェ、マドレーヌ、そう、マカロンとか、そんなのが良かったと思って今すぐにでも取り換えたい。
でも仕方ない、今更どうにもできない、すごすごと自分の部屋に戻り、羊羹の入った紙袋を二人掛けの小さなダイニングテーブルに置くと溜め息を吐いた。
羊羹にしてしまったことよりも、もっと気になるのはお隣の京坂さん。
なんだろう…… 触れられた髪に、自分でもそっと触れてみた。
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