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プロローグ
プロローグ
ゴールデンウィークが明け、世間が再び学校や仕事に追われ始める最初の日。太陽が空に顔を出し始めた時間帯に一台の黒い車が「星ノ浜海浜公園の駐車場はこちらから」という看板のある交差点を曲がった。
「先輩、そろそろ着きますよ。起きてください」
運転席に座る刑事の新川(しんかわ)が助手席に座る先輩の後藤(ごとう)に声をかけた。
後藤は目を擦りながら大きな欠伸を一回すると、胸ポケットから煙草を取り出して、眠気覚ましに火をつけた。
「ケッ、連休明け初日から朝の海辺で太陽を見れるだなんてツイてるな」
「そうっすね。ラッキーすね」
「馬鹿、皮肉だよ」
「でも雨より良くないすか?」
「マシってだけだろ」
後藤は窓を開けると外に向かって煙を吐いた。吐いた煙は走る車と並走することはなく、あっという間に後ろに流されていった。
「大体俺等の担当は連続通り魔の件だろ。何で浜辺に流れ着いた奴らの面倒見なくちゃいけないんだ」
連続通り魔の件というのは、静岡県鳴間市で今年の一月から二月、三月、四月と毎月必ず、女性が何者かに刃物で刺される事件のことである。被害者同士に友人知人の関係性は無く、周辺の防犯カメラに犯行現場や怪しい人物が映っていないこともあり、捜査は難航していた。
「今回呼ばれたのって通り魔事件に関係あるかもって話なんすよね?」
後藤はため息をついた。
後輩の新川は真面目で素直で可愛げがあるが、上から言われたことに何の疑問も抱かないタイプのまさに今時の若者を代表するような男だ。応援要請の無線を聞いて、何の疑いもなく自分達が必要とされていると本気で思い込んでいる。
「連休を延ばすために有給使ってる奴らのせいで人手不足なんだろうよ。俺等のような身を粉にして働く犬に厄介事を回してきただけだろ」
「そうなんすか? そういうもんすかねぇ」
新川は星ノ浜海浜公園の駐車場を見つけると、ウィンカーを出してからブレーキペダルをゆっくりと踏んだ。
二人の乗る車は星ノ浜海浜公園の駐車場へと入った。連休明けの早朝ということもあり、広々とした駐車場はどこにでも停められる程に空いていた。ところが、駐車場の片隅には日常とは程遠い存在でもあるパトカーが二台と商用車が一台停まっていた。
「お? 俺等と同じ国家の犬があんなにも来てるぞ。朝からご苦労なこって。朝からお仕事同盟の俺等はあの近くに停めるか」
「了解っす」
新川はパトカーの隣に車を停めた。
星ノ浜海浜公園は、山間部から太平洋まで通じている鳴間川と太平洋に面した星ノ浜海岸、そして大規模なイベントを開くことも出来る巨大な広場がある。
後藤と新川が向かったのは、見渡す限り砂浜が広がっている星ノ浜海岸の方向だ。
靴に砂が入ることを躊躇わず、いくつかの砂丘を登り降りすると、目の前に太平洋が広がっていた。海から顔を出す日の出を拝むのには間に合わなかったが、太陽の光が海と砂浜を照らす光景は神秘的だった。
そんな神秘的な光景を破壊するのは、波打ち際の一角に立ち入り禁止のテープとブルーシートで囲まれた区画があることだ。二人はブルーシートを目指してさらに歩を進めた。
「早かったな後藤」
立ち入り禁止のテープを潜りブルーシートで囲まれたエリアに入ると、無精髭を伸ばした男が後藤の肩を軽く叩いた。
「三田、お前だろ。俺を名指しで呼んだのは」
三田と呼ばれた無精髭の男はゲラゲラと笑った。
「お前の管轄だと思ってさ」
「朝から適当抜かしてんじゃねぇぞ。連休中にボケたのか?」
「まぁまぁ、怒るなって。ちょっと来い」
三田は全方位をブルーシートで囲ってある区画を顎で指した。
三田が歩き出すと後藤はそれに続いた。新川はゴクリとつばを飲み込むと、決心したように一歩一歩踏みしめながら二人の後を追った。
ブルーシートで囲まれた区画に近付くと、強烈な悪臭が漂っていた。新川は思わず口を押さえて遠くへと走っていった。
「なんだ、アイツは。もう二年目だろ? まだ慣れてないのか」
「あぁ、アイツはまぁ、この仕事をするにはマトモすぎるな」
「ククッ、マトモな奴は辞めるか壊れるからな」
後藤は口を押さえて蹲っている新川の方を見ながら叫んだ。
「無理なら来んなよ。現場が汚れるから」
遠くから「すみません」と新川が呟いているのが、後藤の耳にかろうじて聞こえた。後藤は「アイツは良いから」と三田に言うとブルーシートで囲まれた区画に入った。
そこには四人の腐敗した、というよりも熟れすぎた果実のようにグジュグジュに溶けかかった遺体が並んでいた。すぐ側に海があるような場所であるにも関わらず、おびただしい数の羽虫が遺体の周りを飛び回っていた。
腐敗具合は四人ともバラバラで、性別や顔の判別が出来る遺体もあれば、元々人間の形をしていたということだけしか分からない程に溶けている遺体もあった。
後藤は四人の遺体に強烈な違和感を覚えたが、それが何なのかは分からなかった。
「こりゃあ、酷いな」
仕事柄、この手の臭いに慣れていると思っていた後藤ですらも、無意識に顔をしかめていた。
「あぁ」
「で、何で俺は呼ばれたんだ?」
「まぁよく見てくれや」
後藤は一番状態がマシな遺体から確認を始めた。
所々溶けてはいるが、残っていた黒く長い髪と顔立ち、丸みを帯びた肉付きからアジア系の女性だと思われた。身体の至る所に刺し傷があることと、瞳が黄色くなっていることを発見した。
「何箇所か刺されているが刃物の特定は?」
「まだだ。凶器も見つかってない」
「死因は溺死か? 失血死か? ショック死か?」
「詳しいことは分かっていないが、死因は」
三田は言い淀んだ。
「分かってないってことか」
後藤は三田の言葉を待たずに一人納得した。
「アジア系の女性に見えるが、目が黄色いのは何だ?」
「持病なのか遺伝なのか色を付ける手術をしたのか、何も分からない」
「分からないことだらけじゃねぇか」
「専門家に話を回してる。身体がこんなに溶けてんだ。普通じゃねぇことは分からねぇよ」
「ケッ、人を厄介事に巻き込みやがって」
後藤は悪態をつきながら、次に状態が良い遺体を確認した。酷く腐敗しているが、残った部分の肉付きから男だと推測された。腐敗を除くと外傷は見られなかった。
後藤は残った二人の方を見た。おそらく男であるということ以外は何も分からない程にスライムのように溶けていた。
「で、身元が分かるような物はあったのか?」
「あったにはあったんだが」
三田は口をつぐんだ。
「何もったいぶってんだよ」
「なぁ後藤、俺は今から分かったことを話すからな。たとえ俺の話が馬鹿げた作り話に聞こえたとしても、俺は真面目に話をするからな。口を挟まずに最後まで聞けると約束出来るか?」
「あ、あぁ。分かった」
そう告げる三田の顔は、今までに見たことがないほどに真面目な表情をしていた。後藤は彼がそこまで言うことが初めてだったために、いつものように軽口を挟むことはせずに素直に了承した。
「ありがとう。正直に言うと、確かにお前の管轄じゃなかったかもしれないが、俺はこの話を上に回す前にお前に相談したかったんだ」
「固い話は疲れるからな。煙草吸いながらでも良いか?」
「吸うなら外でな」
「そりゃあ、もちろん」
後藤と三田は遺体の側を離れ、ブルーシートの隙間を縫うように外に出た。
ブルーシートの区画から離れてから後藤は深呼吸をした。潮の香りと混じって例の異臭も感じ取れたが、ブルーシートの区画の中と比べたら天と地程の差があった。
後藤は胸ポケットから煙草を取り出すと、一本を三田に渡した。
「吸うか?」
「あぁ」
後藤は自分の分の煙草を口で咥えると、ポケットからライターを取り出して火をつけた。ついでに三田の煙草にも火をつけた。
「で、相談って何さ? こんなんチョロチョロっと報告書書いて回せば良いだろ」
後藤の呟きに、三田は頭をボリボリと搔いた。
「どこから話せば良いのやら」
三田は煙を肺まで入れてから長い時間をかけて吐き出した。吐いた煙は潮風と共にゆるりと姿を消した。
「後藤、お前は今までに水死体を見たことはあるか?」
「あぁ、若い時に一度きり。清掃員が貯水タンクに落ちたって時にな」
「ほぅ。じゃあ、今日の遺体を見てどう思った?」
「どうって」
後藤は四人の遺体を思い出す。確かに強烈な違和感を覚えたことは確かだが、それが何なのかは今も分からなかった。
「違和感はあるんだが、それが何なのか分からない」
「そうか、ククク」
三田はもったいぶるようにもう一度煙を肺に入れ、ゆっくりと煙を吐き出した。
「あの遺体はな、長い時間水に浸かってたからあんな風になったんじゃない。アレは生き物に消化されている最中に吐き出された、ってのが一番近い」
「は、はぁ?」
後藤は驚きのあまり、咥えていた新品同様の煙草を砂浜に落とした。後藤は落とした煙草を渋々拾うと、携帯灰皿に入れて新しい煙草を取り出した。
「どんなに水に浸かってたとしてもあんな風にはならない。まだ正式な回答は来てないが、写真を回した専門家の第一声は同じだった」
後藤は鼻で笑った。
「じゃあなんだ? サメだかワニだかクジラだか知らんが、四人は何かに喰われたってことか? まるで映画の世界だな」
「何の生き物かは分からん。だが、サメでもワニでも無いことだけは確かだ」
「何故?」
「遺体に歯型はあったか?」
三田の問いに後藤はハッとした。
「歯型は無かったな。外傷は女の身体の刺し傷ぐらいだ」
「消化されている最中に吐き出されたという話が真実だと仮定するとだな。歯型が無いということは、丸呑みにされたんじゃないかと俺は思う」
「ハハ、人間を丸呑みにする生き物だって? 見つけて捕まえりゃツチノコ以上の大騒ぎになるぞ。星ノ浜の丸呑み怪獣ホッシーの仕業ってわけか」
後藤は笑いながら言ったが、三田の顔は真面目なままだった。
「それと、極めつけのがもう一つある」
「おいおい、これ以上何があるってんだ?」
三田は、離れた所で何やら資料の確認をしている部下を呼んだ。
「おい、映像出せるか?」
呼ばれた三田の部下は、急いでノートパソコンを持ってくると三田に手渡した。
「あの四人の持ち物もほとんど駄目になっていたんだが、一台だけ中のデータが助かった携帯電話があった。その中にあった映像を今からお前に見せる。おい、椅子と机も持って来い」
三田が指示すると部下は急いで折りたたみ椅子と机のある方へ向かった。
「おい新川、大丈夫ならお前もこっちこい」
「いぎばず」
おそらく吐いたのであろう。気分の悪そうな顔をした新川がヨロヨロと後藤の元へと歩み寄った。
「新入りも早よ座れ」
「ありがどうございまず」
胃酸で喉をやられたのか、ガラガラ声のままの新川が礼を言いながら用意された椅子に座った。
「いろいろ写真や動画が残っていたんだが」と言いながら三田がフォルダを開いた。
「昨日の夜撮られた動画が二つあった」
「ちょっと待て、昨日の夜の動画って?」
「そのまんまの意味さ。撮影されたのが昨日の夜ってわけ」
「じゃあ、アイツらは昨日の夜は生きてたってことかよ」
三田は吸っていた煙草を携帯灰皿に突っ込むと、ポケットから新しい煙草を取り出して火をつけた。
「まぁ、つまりは、そういうことになる。とりあえず二つある内の時間の古い方から再生するぞ」
三田は煙草を咥えたまま動画ファイルの一つを選択した。
木々が生い茂る場所に停まった車が映し出された。黒のファミリーカーだった。
映像が缶コーヒーを持った男の方を向いた。
「おい、動画撮るのかよ」
缶コーヒーを手に持った男がカメラ目線で話しかけてきた。
「なんか映るかもしれないだろ?」
撮影者の声なのだろうか、先程よりも近いところから聞こえるような気がした。
「ここ、本当に出んのか?」
「ネットじゃ色々見かけるけど、前に来た時は何もいなかったな」
「じゃあ嘘じゃねぇか」
映像が全体的に暗くて何処にいるのかは分からないが、男二人の会話と内容は聞き取れないが男女の話し声が聞こえた。
「前来た時はもっと汚かったんだけどなぁ。なんか掃除されてる」
「そりゃ神社だから誰かが管理してんだろ」
「じゃあ神社に幽霊が出るっていうのか? 神様仕事しろ」
「ギャハハ。言えてる」
「おい、神社は上だぞ」
「神社?」と後藤が呟いた。
「神社に幽霊って言ったら、もしかしたら蛇ノ目かもしんないすね」
何度も咳込んで喉の調子を無理やり整えた新川が口を開いた。
「蛇ノ目って、あの山奥の蛇ノ目のことか?」
鳴間市から車で一時間以上かかる山間部に、蛇ノ目と呼ばれる地域がある。そこには一級河川の鳴間川へと通じている蛇ノ目湖があり、湖の畔に蛇ノ目神社がある。
蛇ノ目神社は、一時期心霊スポットとしてテレビや配信者達が取り上げることが多かったのだが、ある日を境にテレビでは殆ど名前を聞かなくなった。
だが、インターネット上では今でも有名なスポットであり、神社を訪れる者は後を絶たないと言われている。
「そうっす。蛇ノ目神社は心霊スポット界隈では結構有名っすね」
「幽霊が出るってことか?」
「噂によると、鎌を持った男に追いかけられるだとか、小学生ぐらいのワンピースの少女がいるだとか、黄色い目をした女がいるだとか。情報に統一性は無いっすね」
「黄色い目をした女、ね」
後藤は先程の女性の遺体を思い出した。黄色い目をした女の話は偶然なのだろうか。
三田は感心したように手を軽く叩いた。
「結論から言うと、お前の推測は正しい。この動画は蛇ノ目神社で撮られた可能性が非常に高い」
「そうなのか?」
聞き返した後藤に「続きを見れば分かる」と、三田は呟いた。
話をしている間に、撮影者は神社の境内に入ったようだった。
「もしもーし! 神様、いますかー?」
男が拝殿の入口に近付いて叫んだ。
「ちょ、夜だから叫ぶなよ」
「こんな山奥にだぁれも来やしないよ」
「賽銭あんのかなぁ」と言いながら男が賽銭箱の中を覗こうと身をよじらせる。
「おい、バチ当たるぞ」
「その前に犯罪だよ」
「ギャハハ」
男女の笑い声が響く。
「なぁ、此処ってトイレってあんの?」
一人の男が辺りを見回しながら呟いた。
「あっても汚ねぇだろ。こんなところの仮設トイレってよ」
「マジかよ。漏れそう」
「何でさっきのコンビニでしなかったんだよ」
「急に来たんだって」
「もうその辺ですれば?」
「ちょっとやめてよ」
「ギャハハ」
一人の男が近くの草むらに近付いたが、何を思ったのか踵を返して賽銭箱へと近付いた。
「神様も喉渇いてるっしょ。賽銭代わり賽銭代わり」
そう言いながら男は賽銭箱の上に登ると、何やらズボンを弄り始めた。
「うわ、ヤッバお前」
「ちょっと、最低」
笑い声と共にジョロロロと音がする。
「これは、やばいっすね。器物損壊罪とかになるんじゃないんすか?」
新川がこんな人間がこの世にいるだなんて、と信じられないような顔をしていた。
それに対して後藤は、特に気にした様子も見せずに淡々と返した。
「律儀に動画として証拠を残してるのが馬鹿丸出しだな。まぁ、結局のところ、ああなっちまったわけだが」
後藤は煙を吐きながら、チラリとブルーシートの方を見た。
「ハァ、スッキリした」
男は身体を少し震わせてから再びズボンを弄り始めた。
「お前呪われるぞ」
「良い酒飲んだ後のシッコだから酒みたいなもんよ」
「んなわけねぇだろ」
「ギャハハ」
ザザーッピピーッザザザザ。
突然すごい音量でノイズ音が混じった。しかし、動画の中の彼等は気にした様子を見せない。
「ていうかさ、ここにいる神様ってなんなん?」
「知らねぇよそんなの。蛇ノ目神社なんだから蛇なんじゃねぇの?」
シュロロロ。
ノイズ音に混じって、聞いているだけで寒気がするような異音も聞こえてきた。しかし、彼等はその音に気が付いていないようだった。
「じゃあ蛇ノ目ってなによ?」
「だから知らねぇよ。蛇の目ん玉なんじゃねぇの?」
ピピブブーッ。
「意味分かんねぇ」
「ギャハハ」
その後、何度もノイズが混じる中、彼等は境内の中で話し込んでいた。やがて、一人が缶コーヒーを拝殿の屋根の方に放り投げてから言った。
「何もいねぇしそろそろ帰らん? おもんねぇし」
カランコロンと、屋根の傾斜によって転がった缶コーヒーが近くに落ちた音がする。
「そうだな。何もいなかったし」
男二人が帰ろうとしたが、女は何故か拝殿の方を凝視して立ち止まっていた。
ザザザビビビッピー。
「おい、レミ。早く行くぞ」
シュロロロ。
男が声をかけたが女は反応しない。
「おい、レミ」
ピピーッザザザザ。
男が女の肩を叩くと、我に帰ったかのように身体をビクッと震わせて振り向いた。
「何?」
ピピッピピップッ。
「だから帰るって言ってんじゃん」
「もしかして呪われた?」
「そ、そんなわけないじゃん」
シュロロロ。
「ホラ、帰るぞ」
カメラを持った男も振り返ったため一瞬しか映らなかったが、女の目は黄色く光っていた。
「これで一つ目の動画は終わり」
三田は新しい煙草を咥えながら言った。
「賽銭箱にションベンしてから明らかにノイズがふえたな」
「祟りっすかね」
「そうかもな」
後藤は煙草に残った灰を携帯灰皿に落としながら言った。
「二つ目の映像を再生するぞ」
三田は隣にあるファイルを選択した。
爆音で洋楽が流れている。
映像は車の助手席から前方を撮影しているものだった。車は明らかに制限速度を超えているスピードで山道を下っていた。
「さっきからメチャ飛ばすじゃん」
ザザザザザザサ。
「対向車なんか来るわけ無いからスピード出し放題よ」
シュロロロ。
「なにそれ、最高じゃん」
「お前も今度やれば良い」
「やっぱやめとくわ。なんか虫多いし」
「虫ぐらいで騒ぐなよ。女かよ」
ザザ、ビーッ。
「つーかさ、さっきから後ろの二人静かすぎね?」
「あ? 寝てんじゃねぇの?」
「こんな運転でよく寝れるなって、待て待て待て待てッッッ!」
「うるせぇな、なに騒いでんだよ」
「後ろに二人がいねぇッ!? お前も見ろ早くッッッ!」
「馬鹿か、運転してんだぞコッチは」
車は大きなカーブを強引に曲がる。タイヤが小枝を踏んでいるのかパキパキと音がする。
「あ、おいッ! 車体の横に黄色い目をした女がへばりついてるッ!」
「んなわけねぇだろ」
運転手がそう言ったのと同時に、バンッ! とフロントガラスに黄色い目をした女が降ってきた。
「ワァアアアアアッッッ!?」
数秒後、男の叫び声が聞こえるのと同時に、車は道を大きく外れてガードレールに正面から突っ込み、そのまま下へと落下していった。
画面が激しく回転したと思った所で動画が停止した。
「これで終わり」
三田はいつの間にか用意していたブラックの缶コーヒーを後藤と新川に渡しながら言った。
「あ、良いんすか? ありがとうございます」
新川は缶コーヒーを受け取ると、すぐに開栓して喉を鳴らしながら一気に飲んだ。
「二つ目の方は最後に車がガードレール突き破っていたが、車は見つかったのか?」
後藤の問いに、三田は自分の分の缶コーヒーを開けると半分程飲んでから口を開いた。
「あぁ、お前に連絡を入れる前に蛇ノ目方面の奴に現地確認の要請を出しておいたんだ。そうしたら、お前等が此処に到着する五分ぐらい前に連絡があった。一つ目の動画の冒頭で映ってたのと同じ車が川に落ちているのが見つかったってな」
「じゃあ降ってきた女は? それと後部座席には何か残っていなかったのか?」
後藤の問いに三田は首を左右に振った。
「車の中には割れた窓ガラスといくつかの私物が残っていただけで、怪しいものは出てこなかったそうだ」
それに、と三田は強調しながら続きを話す。
「それに、フロントガラスに突然降ってきた女、一つ目の動画で映ってた女に見えなかったか?」
「あ? もう一度見せてくれ」
三田は二つの動画をもう一度再生した。ハッキリとは分からなかったが、髪型と顔は似ているように思えた。
「なんで後部座席に乗ってたはずの女がいなくなって空から降ってきた? 何がどうなってんだ」
「さぁ、俺にも分からない」
後藤の問いに、三田は半ば投げやりな言い方をした。
「動画のデータの時間が正しいと仮定するならば、コイツらは昨日の夜に蛇ノ目神社を訪れて、帰りに何かしらのトラブルがあって車ごと川に落ちた。そこから先は一切不明だが、今日の朝に消化しかかった状態で波打ち際に倒れてたってことか?」
「そういうことになるな」
「こんなに分からんことだらけで、どうしろってんだよ」
今度は後藤が投げやりな言い方をした。
「それを教えてくれよ」
「こんな面倒な山に巻き込みやがって。俺等の領分じゃねぇぞ、三田」
後藤は三田の肩を強く叩いた。
時は遡り、ゴールデンウィーク前日の夜。
鳴間市北区のとある一軒家にて、自室の鏡の前で色々な服を身体に重ねて明日の服装を決めかねている少女の姿があった。
「どれ着ていこうかな」
少女は流行りの歌を口ずさみながら、次々と服を身体に重ねてみては、アレも違うコレも違うとベッドの上に放り投げていた。
「うーん、やっぱりコレかなぁ」
少女はお気に入りのワンピースを手に取ると、その場でクルリと回って鏡に向かって微笑んだ。
少女の名は大場果南(おおば かなん)。鳴間北中学校に通う三年生。
果南は明日からのゴールデンウィーク中、一つ上の兄のような存在の幼馴染みと、二つ上の姉のような幼馴染みの二人と二泊三日の小旅行を計画していた。
小旅行といっても、バスで一時間半程の山間部にある幼馴染みの知人の家に泊まり、近くにある蛇ノ目神社の掃除を手伝って残り時間は自由に遊ぶ、というものだ。
「三人で遊ぶのは久しぶりだなぁ」
果南は勉強机の上の写真立てに目を向ける。そこには、二つ上の幼馴染みの中学校卒業式の時に撮られた写真が飾られていた。
ニコリと笑い隣の幼馴染みと腕を組む卒業生の幼馴染み、異性に挟まれて居心地悪そうにしている幼馴染み、隣にいる幼馴染みの腕にしがみつくようにしながら大号泣している自分。
その写真を見るだけで、果南は楽しかった一年間を思い出す。
「小学生の頃は毎日一緒だったのになぁ。一緒に中学校通えたのも、たったの一年だけだったし」
時の流れと人の成長というのは残酷なもので、本人の意思とは無関係に歩を進める。
二年前、幼馴染み三人が同じ中学校に在籍していたあの一年を最後に、三人で集まることはほとんど無くなってしまった。
「同じ高校に通っても、一年しか一緒にいられないのか」
果南は写真立ての横にある平積みされた参考書の山に視線を移す。
勉強が大の苦手な彼女が勉強を頑張れるのは、二人と同じ高校に通うためである。自分と違ってそれなりに勉強の出来る幼馴染みと違い、果南が二人と同じ高校に入るには並大抵の努力では足りない。
それは、嫌い嫌いと勉強を放り投げても通用していた小学校六年間と受験を意識していなかった中学校一年間が、あらゆる科目の基礎を揺るがしているからだ。
「あ、そろそろ勉強の時間だ」
机の上にある子供の頃から使っている置き時計が夜の九時を告げている。
果南は手に持ったワンピースとベッドの上に放り投げた服を全て片付けると、勉強机に座った。
勉強は面白くない。得意な科目と言えば体育と音楽ぐらいなもので、国語数学英語理科社会、その全てが苦手だった。
特に苦手なのが数学。今でも小学校の算数に怪しい部分が多々ある状況では、問題の意味も解説の意味も分からないことがある。
「んんん」
果南は参考書と十分にらめっこをしても分からなかった時は、二つ上の幼馴染みに教わるようにしている。
LINKと呼ばれるチャットと通話が出来るアプリを起動し「分からない問題があって」とチャットを送る。
しばらくすると既読の表示が現れ、テレビ通話の着信が入った。
「ユウ姉ェ、今大丈夫?」
(んん、良いよ)
ユウ姉ェというのが、二つ上の姉のような幼馴染みの草薙幽子(くさなぎ ゆうこ)のことである。
幽子はヨレヨレのパジャマを着て何やら作業をしているようだった。
「この問題が分かんなくて」
(んん、ちょっと待ってね)
そう言いながら画面外へと出てしまった幽子の帰りを待っていると、荷物を縛るベルトを持って棒アイスを咥えた幽子が戻ってきた。
(問題、見せて)
棒アイスを舐めながら幽子が言うと、果南は携帯電話のカメラを参考書に向けた。
(あぁ、この問題はねぇ、まずここの)
「ユウ姉ェ、もしかして明日の準備で忙しかった?」
幽子が問題の解説をしようとするのと同時に、果南は尋ねた。画面ごと参考書に向けているため、幽子がどんな表情をしているのかは分からない。
(んん? まぁ準備が残ってるのは事実だけど、カナンちゃんの頼み事のが優先だよ。なんたって、お姉ちゃんだからね)
「でも」
(カナンちゃんは気にしなくて良いよ。後はコイツで荷物を縛るだけだから)
グッと縛るの。グッとね、と言いながら幽子はベルトを締めるジェスチャーをした。
「ありがと、ユウ姉ェ」
(どういたしまして。じゃあ、解説するよ)
「うん、お願い」
それから二人は雑談含めて約二十分程通話をして、お互いに就寝の挨拶を済ませると通話を切った。
「ここまでやったら今日は寝よう」
その後、夜の十時まで参考書と格闘を繰り広げた果南は、一度トイレに行ってからベッドへと倒れ込んだ。
「マコ兄ィ、元気かな」
瞼を閉じると、身体がベッドに染み込むような感覚と共に、ゆっくりと意識が薄らいでいった。
この時の果南は、黄色い目をした少女との出会いをキッカケに運命の歯車が狂い出すことなど、知る由もなかった。
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