孤独な狩人

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孤独な狩人

 毎日が同じ日々、楽しくない……。 僕は、毎朝八時五分の電車に乗る。向かう先は、田舎にある一人暮らしのアパートから片道五十分もある市内の大学。単位のためだけに、こんな蒸し暑い中、わざわざどうでもいい一限の授業を受けに行くのだ。 学生の多くは大学近辺のアパートに住むのだが、僕は、入居者の定員と若干の金銭面で妥協した為、遠く離れた今の場所にもう四年も一人で住んでいる。おまけに人と話すのは凄く苦手で友達作りにも失敗した。だから大学にも、ましてやこの町にも知り合いや友達は誰もいない。 僕は、頭は良い方ではないし、勉強も好きではない。大学も将来何をやりたいのかを見つけるために行っている。でも、未だに見つけられていない。 思い返せば、僕はこれまで何かやりたいこと、熱中できるものがなかった。未だ大人の入り口にすら立てていない。僕はまだ小さな子供だ。  うちの大学は、割と全国から生徒が集まっていて、名前こそ有名だが、中身はただのハキダメだった。学費はかなりの高額。だが、校内の設備は何も良くなったことはないし、先生もまともな人はいない。学費は一体何に使われているのか。言えずにいる学校に対する不満がある。 学校が終わると、皆それぞれの場所へ向かう。だが僕は、学校が終わっても行く当てもない。いつものように帰りの三時二十分の寂れた電車に乗って、外の世界をボーッと眺めながら帰るだけ……。 外の世界を眺めるのは好きだ。そこには色んな景色があって、そこには色んな人や車や自転車が行き交っていて、そこには色んな物語がある。僕はそんな外の世界を眺めながら、頭の中で物語を想像する。 幼い頃から人形遊びが好きだったせいか。それとも寝る前に家にあった昔の海外映画のDVDを見まくっていたからか。ふとした瞬間に頭の中で物語を想像してしまう癖がある。その時の気持ちによるが、幸せな物語の想像もあれば、破滅的な最悪の物語の想像もあった。幸せな物語の想像だけが、僕の唯一の心の癒しだった。でも、最近はずっと最悪な想像ばかり……。 次の日、どうでもいい一限の授業を受けに、僕は朝八時五分の電車に乗った。朝の電車は大勢の通勤者で混み合っていて、とても疲れるし、落ち着けない。窓から見える外の世界もチラチラと遮られていた。 大学へ着くと、校内のコンビニでいつも飲むペットボトルの甘いコーヒーを買って教室へ行き、陽の当たらない隅っこのいつもの席に座る。 この授業は、はっきり言って退屈。先生が僕たちに言うことはいつも「国や社会のために貢献しなさい。真面目に生きなさい。大人になりなさい」だ。周りを見渡すと、こんな授業に来ている生徒たちは、単位にしがみつく人たち、歳上の留年生たち、スポーツ推薦で入った部活動生たち、強面で無駄に顎髭を生やしたヤンキーみたいな男たち、僕と一緒で大学に入ったはいいも、やりたいことを見つけられずに腐っていきそうな奴ら。そして、この学校で一番イケてるあの六人の中心グループ。 その中心グループの六人は、友達も多く、生徒や先生からの支持も熱い人気者だ。彼らは、僕のようなおとなしくてイケてない、孤独で地味な人のことを気にかけることも関わることもない。どの学校でも同じだ。 その中心グループは、男三人・女三人でいつも教室の中心にいて、大声で楽しそうに話している。個性はバラバラだが、みんな顔が良い。 まずは、学校イチ美男の裕翔。見た目も良いし、誰にでも優しくて中身までもが良いという文句なしの男。学校イチ美女の梨沙と付き合っている。 梨沙は、気が強くて性格はあまり良くはなさそうだが、なんせ見た目が良すぎる。洒落たタピオカ屋さんでバイトをしていて、町中の男から人気の看板娘。 それから俊介。彼は、男女問わず学校の人気者。見た目はチャらく、茶髪でパーマをかけている。頭は悪い。でも、人間関係や立ち回りが上手い相当なやり手。どんな状況もいつもこの口の上手さと運で、その場を誤魔化しながら乗り切ってきたみたいだ。こういう人はおそらく社会に出て、例え頭は悪くて、仕事はできなくても人間関係と立ち回りの上手さで、客や上司に好かれて先に出世するタイプだと思う。本当に悔しいことだが、羨ましいものだ。 次は、学校イチナイスバディな菜月。彼女は、グラビアアイドル並みの素晴らしい体型の持ち主。いつもあざとく胸を強調させる服に、白い美脚がよく見えるショートパンツを着用している。男子学生どころか、年老いた教授の目も奪うほど。実は相当エロいと噂だ。 それと体育会系の大輝。彼は、いつも剽軽なことをして周りを笑わせている元気者。日焼けした浅黒い肌に、全身が硬い筋肉質でできていて運動能力も高い。所属している野球部では、四番サードのレギュラーだ。 そして、黒髪ボブの清楚で可愛い、ニコっとした笑顔が素敵な彼女。 彼女の名前は祐美。周りのみんなから愛されていて、人気があって、誰も彼女を悪く言う人などいない。彼女は、他の人たちとは違う。まるで天から差し込む春陽のような、天使のような存在だ。 なぜ、このような男女グループは、みんな仲が良くて、いつも一緒にいるのだろうとつくづく思う。一体どういう繋がりがあるのだろうか。幼馴染? 趣味? 気が合うから? 顔が良いだけの上っ面な関係? (まぁ、気にしたところで僕には一生関係のないこと……) でも、ホラー映画によく出てくる若者みたいだと思う。みんな個性がバラバラなのになぜか仲良くて、一緒にキャンプにも行く。そして、毎回ホラーの怪物によって無残に殺される。初めに殺されるのは、決まって学校イチの美男美女カップルからだと相場が決まっている。なぜだろうか。代々、ホラー業界で受け継がれているしきたりなのか。それかよっぽど作者が、こういう人たちに対しての怒りがあったのだろうか。そこに一体何があったのか、僕にはまだわからない……。 毎日が楽しそうで、イケていて、人気者で、理想の学生生活を送る彼ら六人に、僕は憧れていた。彼らは同い年だけど、遥かに大人だった。 僕はいつも遠くから寂しく、羨ましく彼らを眺めていた。それは単に友達がいなく、孤独で、全然イケてない真逆の存在だからではない。 実はその六人グループの中の祐美に、僕は惹かれていた。 その理由は、彼女の可愛いさだけではない。この間、六人が教室の中心で、大声で話していた時のこと、どうやら祐美が自分の好きな映画たちの話をしていたのだ。それは、最近の若者はあまり見ない古い海外映画たち。周りの五人はその話を熱心には聞いていなかった。多分、誰もわからなかった……でも、僕にはわかった。 祐美の口から出た映画たちは、僕が昔からずっと見てきた好きな映画たちと同じだった。もしかして、僕はあの子と趣味が合うのでは……。それからずっと祐美のことが気になっている。 学校が終わり、いつものように帰りの三時二十分の寂れた電車に乗って、外の世界を眺めながら帰った。この時間、電車の後方車両は、人が全くおらず、静かで落ち着く。この空間が好きだった。 静寂な空間に一人でいる時、心が白く落ち着いている時、想像が生まれる。でも、今日はまた悪い想像が頭の中を黒く蝕んでいきそうだったので、僕は眠ることにした……(うーん……)だが眠れなかった。 リアルな悪夢が恐怖で眠れないのだ。不眠症なのかもしれないと思った。仕方なく虚ろな顔を車窓に押し付け、外をボーッと眺めた。 ふと外に、並んで歩く六人の影。あのイケてる六人グループが楽しそうに話をしながら歩いていた。その中には祐美の姿も……。 夕焼けが赤く車窓を貫き、太い眉の間のしわを下った先で鋭い眼光がただ燃えていた。 ガタン! と車体が縦に揺れ、そこで僕はハッと気づかされた。電車はカーブした線路を大きく曲がり、徐々にあの六人から遠ざかっていく。 そもそも僕と彼女らは生きている世界が違う。ピラミッドの頂点と底辺。このレールのように、この先交わることのないのだと……。 帰宅。家は、静かで暗く、狭いが、落ち着ける場所だった。家へ籠るとまず、最初にやるのはオナニーだ。大量に買い込んだアダルトビデオ。無意識に日々のフラストレーションをこれで発散させようとしていた。お酒は全く飲めないし、タバコもダメ。健康のために、無理にやらない方がいいと思った。それでもフラストレーションは、連鎖的にまたすぐ内に溜まってしまう。この苦しい日々からいつか解放されたい……。 こんな苦しみを絶対に味わったこともない、あの六人のSNSの日々の投稿を、毎日夢中になって見てしまっている自分がいる。もう日課だ。 こんな僕が、あんなイケてるグループに唯一、最接近することが可能な方法。画面越しからなのだが、僕も彼らの輪の中に一緒にいるような擬似体験ができるのだ。僕らは画面越しからでしか、その景色は拝むことができないことを知っている。僕は彼らのファンでも、ストーカーでもない。ただ、彼らと同じ世界で生きてみたいのだ。 スマホの画面が切り変わると、強制的に現実世界に戻される。僕は、いつも何もできないまま。彼らと話せるトーク力も勇気もない。やる気も努力も、いつからかこれっぽっちもなくなってしまっていた。 またいつも同じ一日が始まり、そして終わる。そしてまた始まり、また終わる。現実はいつも暗く悲しい。毎日は変わらず楽しくなかった。 土曜日になった。実は今日、親戚のおじさんから中古車を譲ってもらえることになっている。それも八人乗りのワゴン車。久しぶりのウキウキだった。 僕は、いつか大きなワゴン車に仲間を乗せ、旅をしてみたいとずっと夢見ていた。(子供の頃、そんなロードムービーにも憧れていたなぁ) おじさんから中古のワゴン車を譲ってもらった後、僕はしばらく一人、車内に籠ってボーッと天井を眺めた……ここは静かで落ち着ける……僕はまた頭の中で物語を想像し始めた。  気づくと目の前は真っ白な世界が霧のように僕を包囲し、雨粒が高速に振り下ろされるドラマーのバチのように激しく車体を鳴らしていた。 車内のデジタル時計を見るとあれから一時間くらい経過しているようだった。この雨じゃ外には出られないし、運転もやめた方がいいだろう。僕はそう思い、またしばらくその場に籠ることにした。孤独な時間は続く……。 さらに一時間が経過。退屈なんてことはない。こういう閉鎖的な空間には慣れている。むしろ、好きだった。心が落ち着けて、想像も生まれやすい。孤独は、時に心に安らぎを与え、時に心に憎悪を募らせる……。 と、急に目に白い閃光が差し込む。僕は、とっさに目を手で遮った。 一秒後、ノーモーションで鼓膜が潰れるほどの大きな雷が地上に落下。 車が揺れるほどの地響き……思わず両肩がビクッと上がり、その場で体が硬直し、しばらく放心状態に……。 雷はその一発で収まり、恐怖も徐々に消えかかっていった頃、助手席のダッシュボードが開いていることに気づいた。さっきの落雷による地響きで勝手に開いたのだろう。僕は、左手を伸ばしてバタン、バタンと何度か閉めようと試みる。だが、古くて少し壊れているせいか、なかなか上手く閉まらない……ダッシュボードの中で、何かが突っかかっている感覚を覚えた。 僕は、腰を左に反って身を乗り出し、さらに奥の方へ手を伸ばして確かめる。やはり奥には何かが突っかかっているみたいだ……上手く力を駆使してその何かを外した…………金槌だ。 僕は、それを手に取った。美しくも強固で、象徴的な造形に、僕は心が引き込まれてしまっていた。なぜだか不思議と安心感がある。おそらくおじさんのものだろうが、もういらないであろうと思い、僕は金槌を自分のバックの中へ入れて持ち帰った。 日曜日、僕は一人、八人乗りのワゴン車に乗って、気分転換にドライブへ出かけた。 感覚を慣らすために走ること一時間。窓を開け、緩い風を浴びながら、また頭の中で物語の想像を始めた。(いつか祐美さんと一緒に……) 気づけば頭の中で無駄なデートプランを立ててしまっていた。(僕はまたバカなことを……)現実が僕の頬を抓ると、無性に胸が痛んだ。 途中、隣町の駅前のビルの五・六階にあるカラオケ店の看板が見え、僕は迷わずそこへ立ち寄った。大声で歌えば、この胸の苦しみが解き放たれるかもしれない……と。僕はどこか救急で発散を求めていたと思う。 導かれるように駅前のビルの一階のエレベータ前に立った。カラオケ店の受付は五階にある。上に行くボタンを押して待つこと二分。上で誰かがもたついているからか降りてくるのが非常に遅い。苛立ちかボタンをカチカチと何度も叩いた。 ようやくエレベータが動き、僕はフゥーッと息を上へ漏らす。右上にはモニターがあり、エレベーター内の映像が白黒で映し出されている。 中には僕よりも年下であろう若い男と女が乗っていた。男は誰も見ていないと思ってか、不意に慣れた手つきで女の肩に手を回すと顔をクイッと向かせてキスをした。女は恥じらいながらもキスを交わす。この二人は、誰も見ていない空間に行くたびにこのような行為をやるのだろう。 だが、エレベータ内にはカメラがある。女はカメラに気づくと顔を赤らめ、男を止めようとする。ソワソワしだす女に男は、「大丈夫。誰も見ていって」と潤わせた唇をそう動かすと、もう一度女にキスをして動きを沈めた。 モニターの映像が急に切れ、画面が真っ黒に……映像が切り変らない。その黒く四角い世界の中に反射して立つ僕の目は、一瞬だが赤く見えた。 性欲はある。だが、性に対しての憎しみもある。僕はどうにもならない矛盾を抱えてしまっている。 b0cad7bb-2266-46d2-b5ec-0101db1f9bc2  エレベータが一階に到着し、ドアが開いた。中の二人は、開く瞬間に素早く離れるのが垣間見えた。中にいる二人の目が僕の目と合うと、その場からそそくさと立ち去って行った。だが、玄関先で二人の声が小さく響いて聞こえてくる。 「ねぇ、ちょっと、今の人に見られちゃったじゃん」 「ハハハ、ヤバかったな。でもあんな奴に見られたくらい気にすんなよ」 「う、うん。まぁそうだね〜」 「マジであの野郎、邪魔しやがって」 二人は、自分たちを加害者だとはまるで思っていない。こういう時、二人からすると、僕は邪魔をした加害者なのだ。被害者は僕だ! フラストレーションがさらに溜まった。これが一番の原因。僕は、この胸の苦しみ全てを早く吐き出したかった。 すぐに受付を済ませ、マイクを手に取って部屋へ入り、早速歌った。 歌ってはみたものの、肝心なことを忘れていた。僕は歌うことが大の苦手。はっきり言って酷く音痴であった。 飲み会後のカラオケなんて、みんなの前で歌っても、せっかくの盛り上がった雰囲気を消沈させてしまう。みんなに幻滅されると、僕は、次の流れ出す曲を背に、汚いトイレに駆け込むのだ。鏡に映ったその時の自分を見ると、拳銃を顳顬に突きつけ、弾丸を放ち、死ぬ。そんな破滅的な悪い想像が頭を、心を蝕んでくるのだ。だから、大学でも最初に上手く溶け込み損なってしまったのだ。 でも、今日は一人だし、練習でとりあえず一曲歌うことにする。 僕は、好きな歌を歌った。だが歌っているうちに、またあの時のトラウマと音痴すぎる自分の歌声に息苦しくなって、自らマイクを手放した。 しばらくソファーの上で横になり天井をボーッと眺めていた。 隣からは女性の綺麗な歌声が聴こえてくる。思わず聴き入ってしまい、自分で鼻歌なんかも歌っていた……(俺、鼻歌ですら音痴なのか……)  だが、そんな沈んだ気持ちはすぐに一掃された。 (隣の人、なんて綺麗な歌声なんだ) 目を閉じてずっと聴いた。(一体どんな女性が歌っているのだろう) 想像が膨らんだ。こんなに幸せな想像はいつぶりだろうか。天使のような歌声に心癒され、自然と胸の苦しみも解かれていく……。 すると、目覚ましのように残り時間を知らせる電話が部屋中に鳴り響いて、強制的に現実に引き戻された。気づけばもう一時間も経っている。 もう出なきゃ。ドアを開けて慌てて外に出た。と、同時に隣の部屋のドアも開いた……えっ……。 隣の部屋から出てきたのは、なんと祐美だった。互いの目と目が合うと、僕は言葉が出ず、とっさに軽くお辞儀。向こうも軽くお辞儀を返してくれた。僕を大学で認識してくれているのか、祐美は、あのニコッと笑顔を見せてくれた。僕の顔は緊張で強張り、上手くリアクションが出来ずにいる。 「居たんだね隣。静かだったからてっきり誰も居ないのかと」と祐美から笑って声をかけてきた。 「えっ、ああ……う、うん。ごめん」と、ダサい返事をしてしまった。 「大学の授業で一緒だよね。確か……野沢君だよね?」 驚愕した。彼女が僕という存在を知っていてくれていたなんて。 「あ、はい。そ、そうです。野沢です」 「渡辺祐美です。よろしくね」 「は、はい! こちらこそ」 あまりにも一瞬なことで体は硬直し、頭の中はもう真っ白。 すると、プルプルプルッと自分の部屋の二度目の電話が鳴り響く。 すぐ受話器を取り、小声だがキッパリとこう言い返した。「延長で!」 結局、それから五分くらいで、二人で店を出た。 帰り際に、祐美が「野沢君ここまでどうやってきたの?」と聞いた。「あ、ぼ、僕は車です」と、僕は八人乗りのワゴン車を指差して見せる。 「わぁ、何あれ、すごい! 前からこんな大きいのに乗っていたの」 「う、うん。まあね」 本当は昨日からなんだけど、ちょっぴり見栄を張ってしまった。 「野沢君、すごいねー」 「あ、いやいやいや、ありがとうございます」 「私こういう車、一度乗ってみたかったんだよね〜」  祐美がそう呟いた。「そうなんですね……(何やってんだ、頑張れ俺!)あの……じゃ、じゃあ乗って行きます?」 「えっ」 「(何やってんだ俺は、いきなり馴れ馴れしいだろこのバカ野郎)」 「えっ、いいの。じゃあ、家までお願いしてもいいかな?」  祐美の答えは意外にもあっさりだった。 「えっ、えっ、いいんですか?」変な返答になってしまった。 「ええ。いや、こっちこそいいの?」 「いやいや全然……ありがとうございます」 「ありがとうはこっちのセリフだよ〜。なんか野沢君って面白いね!」  会話は終始ぎこちなかったが、祐美はそんな僕のことを優しく、笑って受け止めてくれた。とんでもない急展開。胸のドキドキが止まらない。 僕は、祐美を助手席に乗せる前にふと思った。(こういう時の女性のエスコートの仕方って、一体どうやるんだろうか……)焦って考える。 確か、前に映画でやっていたなと思い出し、即座に実行した。 まず助手席のドアを開け、それから彼女の手を取って……あっ……。 僕は、何も考えもせずに、祐美の小さな柔らかい手を握ってしまっていた。(僕は何をしているんだ!) だが、祐美は、いつものニコッとした笑顔で僕の手を取って助手席へ乗り込むと「ありがとう。野沢君って優しいね」と、僕に言ってくれた。 ただただ嬉しくて身体中が震え、顔と心臓がコォーッと熱くたぎる。 祐美を助手席に乗せた後、車を走らせた。気持ちのアクセルはもう全開。気分は時速百四十キロにも達していたと思うがどうにかを抑えた。 車内がエアコンで涼しくなる前に窓を開けて先に外の風を取り込む。なんて気持ちのいい爽やかな風なんだ。 車内では最初、言葉のキャッチボールはなかった。だが、しばらくしてから祐美から話しかけてきた。 「野沢君って、映画好き?」  思わぬラッキーボール。自分がずっと聞きたかった質問だった。 「はい! 好きです」今日イチ元気な返事だったと自分で思う。 「どんな映画が好き?」 映画好きと答える人は多いが、大抵は好きな映画が合わないことの方が多い。これは映画好きのあるあるだ。でも、それは仕方のないこと。  今や映画の数は計り知れない。邦画も好きな人もいれば、洋画が好きな人もいて、昔の映画が好きな人もいれば、最新のCGを駆使したアクション映画が好きな人もいる。ジャンルも多様だ。どこが面白い、どこが泣ける、どのキャラクターが好き……共感するポイントは人それぞれ。 僕は、昔の映画が好き。生まれる以前の、七十年代頃とか良いよね〜。 だから、これまで九十年代後半生まれの同年代の友達で映画の趣味が合ったことは一度もなかった。好きな映画を聞かれ、ここで正直に答えてもその先の話は何も続いていかない。友達作りを基本とするなら、まず相手の好きそうなオーソドックスな娯楽映画を答えるのがベスト。 だが、今回は、あのとき祐美が話していたことが本当なのか確かめたかったし、そうであることを心の中でずっと願っていた。 「ええ、えっと、昔の映画とか好きですね」 「そうなんだ、私も昔の映画好き!」 「そ、そうなんですか!」自分の中で、どんどん確信に近づいていく。 「ねぇ、野沢君ってさ、もしかして……」 今、この瞬間、二人の趣味が一致した。僕と祐美の好きな映画は一緒だったのだ。これは奇跡。初めて話が合う、多分この先、もうこんな人とは一生出会えないであろうと。正直、運命の相手だと。僕の気持ちはより一層強まった。理解し合える相手がこんなに近くにいたなんて、それがまさか祐美だったなんて。僕は、祐美との間に特別なつながりがあることを感じていた。今まででこんなに嬉しいことはない。その後も話は盛り上がっていき、会話のぎこちなさも少しずつなくなっていった。    今までに感じたことのない幸せな胸の苦しみ。僕の中ではっきりとしたことがあった。もしや、これぞ、好き……熱中できるもの……恋だと! 祐美を家まで送り届けた後の帰り道、車の中では、もう『ロッキー』のテーマ曲が流れ出していた。自分の中で何かが勝利した気がする。 その夜、この勢いで勇気を出して、一歩を踏み出そうと決めた。祐美のSNSをフォローしようと。 その後、長い葛藤の末、思い切ってフォローのボタンを押した。 押した後、まるで女子のように変な恥じらった声を上げ、スマホから手を突き離した。「フォローしてもうた……」  すると、一分後にスマホに通知がきた。「うぉ!」 祐美がフォローを返してくれた。さらにダイレクトメッセージが……。 「フォローありがとう。学校でまた会った時はよろしくね!」と。 僕は、嬉しさを噛み締め、震える手で二分程かかり、やっとコメントを返えせた。 その後もずっと祐美のことだけで頭が一杯になって離れなかった。 嬉しさのあまり変な想像も広がる。期待に胸が広がり、この日もよく眠ることができなかった。  月曜日になった。太陽が昇り、陽の光がスポットライトのようにパッと僕を照らす。いつもの朝、いつもの電車、いつもの顔ぶれの乗客、いつも買うコンビニの甘いコーヒー、いつもの大学のつまらない授業……。 でも、なんだか今日は全てが違って見える。心が踊るような最高の気分、僕の心の中は今まさにミュージカルだ! 一限の授業中、いつもの席から祐美をチラッと見る。相変わらず、祐美は、あのグループの中にいて楽しそうにしていた。急にまた羨ましさと寂しさがうっすらと込み上げる。ひょっとして、昨日の事はまたいつもの僕の単なる想像だったのでは。 すると、陽の当たらない僕の元へ春陽が差し込む。 祐美が、ニコッとしたあの笑顔を見せ、僕に小さく手を振っている。 目が点となった僕は、固まりながらも、小さく手を振り返した。 (うわっ……よかったぁ〜。現実だぁ……よかったぁ〜) 授業が終わり、至福と睡眠不足で脳がボーッとなった状態のまま静かに席から立ち上がろうとした時、誰かに後ろから肩をトントンとされた。 「野沢君、お疲れ」  祐美だった。さらに脇からぞろぞろと、あのイケてるグループのメンバーたちが近寄ってきて僕を囲む。 「よう、野沢」 「お疲れさん!」 「野沢くぅ〜ん」  今まで一度も話したこともないメンバーたちが、いとも簡単に、フレンドリーな感じで、僕に声をかけてきた。急にこんなに近くで話しかけてくるので、僕は「あぁ……」しか言葉が出ない。一気にこんなに話しかけられたことがなかったから、物凄くアタフタしてしまう。 「ねぇ、野沢君、今週末って空いてる?」と祐美が言った。 「えぇ……えっ!」思うように言葉が出ない。 学校イチ美男で優男の裕翔がこの場を仕切るように本題を切り出す。 「今度の土曜日にさ、みんなで一緒に泊まりでキャンプに行くんだけど、野沢君よかったら来ない?」 「今週の、土曜……キャンプ……えっと……と、泊まりぃ?」 「なぁ、一緒に行こうぜ野沢〜」と俊介がチャラい感じで絡む。 「ねぇ、泊まりでキャンプ行きましょうよぉ」と学校イチの美女の梨沙が自然と出る色気で惑わす。 「ちょ、ちょっと待ってください。い、いいですけど……でもなんで、こんな僕なんかを……」 「祐美からさ、聞いたんだよ。野沢のこと」 「えっ……」祐美の方を見た。 祐美はいつものニコッとした可愛らしい笑顔で「野沢君のことをね、話したらみんなが誘おうよって。ダメだったかな?」 「い、いやいや、とんでもないです。はい。よ、よろこんで!」と僕。 「よろこんで! だって、超ウケる〜」と梨沙。 「よっしゃ、決まりやな!」と大輝。 「ばり楽しみ〜」と菜月。 「泊まりでキャンプだ! 超絶熱いぜ!」と俊介。 「じゃあさ、ちゃんと予約しておかないとな」と裕翔。 「楽しみだね」と隣で囁く祐美。  僕は、急なことで訳が分からなかったが、とりあえず今起きたことは現実に違いない。実感はまだ湧かないが、また、凄いことが起きたんだ。まるで刀でスパッと一太刀に切られたのに、切られたことに気付かずに死んでいく侍のよう。 ようやく気づいた。どうやら祐美さんの推薦があり、僕はこのイケてるグループのメンバーたちと泊まりでキャンプに行くことが決まったらしい。みんなも喜んでくれている。という事は……僕はこのグループに迎え入れられるんだ! これでみんなの仲間になれるんだ! 隣にはあの祐美さんがいる。祐美さんと泊まりでキャンプに行ける。 今までにないくらいの至福。なくしたはずの自信とやる気が心に一気に蘇った。これが長年、僕が追い求めていた夢の世界、理想の現実だ。  僕にとってきっと、人生最高の週末が始まるだろう。 土曜日になった。とうとうこの日が来たか。 今日までずっと祐美のことで頭がいっぱいだった。僕は、このお泊りキャンプで裕美に良い所をみせたい。親密になりたい。 この一週間は、まず、猛烈に体を鍛えた。腕の筋肉も腹筋も、あと走るのも少し早くなった気がする。他にも、この一週間で服も買い揃え、車もピカピカにした。そして、ネットや本を駆使して女性との話し方、注意点、モテるための行動や秘訣を勉強。爪も切り、髪もオシャレな髪形にしてもらい、普段つけないワックスや香水も買い揃えてつけてみた。 変な期待もあり、念のため、念のためではあるがコンドームも買っておいた……(僕は本当バカだ。でも、念のためだから) でも、こんなにもひた向きに努力したことは今までなかった気がする。 よし、準備は整った。飲めないブラックコーヒーを一気に飲んだ。 僕は、六人との集合場所である大学に、集合時間の一時間前に着いた。 一時間後、午後一時、みんなが続々と集まり始める。みんなの姿が見えた途端、緊張で顔が赤くなり、また体が固まりかけた。 「おはよう!」と爽やかな裕翔。 「おはよう、野沢く〜ん!」と色気のある梨沙。 「おっす、お疲れさん!」と元気な大輝。 「野沢君、早かねぇ〜」とエロい菜月。 「お、おはそうございます!」  まだ慣れない。誰に目を向けて話したらいいのやら。緊張する……。 「野沢君、そんなに緊張しなくていいんだよ。」  後ろからそっと優しく囁いてくれたのは祐美だった。 「ゆ、祐美さん……あ、ありがとうございます」 「楽しみだね、キャンプ」と祐美はニコっと笑顔を見せた。 「はい。楽しみです」 祐美は本当に優しい人だ。  「野沢君、同い年なんだけん、別にタメ口でいいとよ」 「気を遣わなくていいのよぉ〜」 「そうだよ。俺らさ、これから共に旅する仲間じゃないか」 「み、みなさん……ありがとう」  スーッと緊張が解け気持ちが楽になった。みんなやっぱり凄く良い人ばかりだ。 「よし、みんな揃ったな」 「あれ? 俊介君は?」 「ほんまや、あいつ、まだおらんで……」 「俊介、また遅刻かよ」  裕翔がスマートフォンを取り出し、俊介に電話をかける。 「あ、繋がった。おい、もしもし……」  電話をスピーカーにする。 「わりぃわりぃ、あと五分でつくから!」  十五分後、俊介が来た。 「うい〜っす、お待たせ!」 「何してんのよぉ、俊介」 「おい、ほんま遅刻やで!」 「わりぃわりぃ、ちょっと途中ウンコしたくなっちゃって〜」 「も〜きもい」 「俊介ったら」 「いやね、今日のは今までで一番反りのいいバナナみたいでよ。本当、あれは芸術的というか。みんなにも見せたかったよ」 「もぉ〜、やめてよぉ〜俊介」 「ハハハ、お前は相変わらずアホやな〜」 「俊介君って、いつも面白かね」  遅刻してきたくせに誰も彼を怒らない。むしろひと笑いとって遅刻した罪をあっさりと軽やかに帳消しにした。みんなは良い人たちだと思う。でも、俊介のような奴だけはどうしても好きになれなかった。 僕の過去を遡れば、こういう奴から何度利用され、嘲笑われ、平気で嘘をつかれ、理不尽なことをされ、すべてを奪われてきたことか。こういう奴らがどれだけ世の中で得をし、増え続け、学校の上層を独占し、僕のような下層を苦しめてきたか……ファック! 海外映画の影響による僕の口癖だ。(僕は今までファックなんてしたことはない……) でも、今日はそんなことを気にせずに楽しもう。だって、今日は僕にとって最高の日なのだから。  車内、僕は運転席で前を見て運転する。助手席には、ほぼ後ろを向きっぱなしで喋り続ける俊介。二列目は、梨沙と裕翔。三列目は菜月、大輝、そして祐美だ。祐美は、運転席からバックミラー越しにちょうど見える位置にいる。だが、俊介が体を後ろに乗り出すのでよく見えない。 俊介は、得意のトーク力で車内を盛り上げる。それに対して笑っている祐美がバックミラーにチラチラと映り込む。  みんなは、運転する僕を差し置き、後ろで楽しそうに話をしている。 みんなの話は最先端というか、僕の住む世界とは違う世界の話すぎてついていけなかった。(ただ単に僕が流行に疎いだけなのだが……) 話に入れる様子も伺えず、ましてや話を振られる様子もない。完全に蚊帳の外。同じ車内にいてもやはり少し壁がある。僕はまた独り……。極度のマイナス思考に襲われた。 (この人たちの仲間になんてなれるなんて、無理な話だったんだ……)  僕らは、食料調達のために大型スーパーへ向かった。 スーパーへ着くと、カートを押してみんなで店内に入るのだが、先頭を歩くのはリーダーの裕翔。続く俊介、大輝、梨沙、菜月たちは先陣切ってBBQに必要な肉や野菜、お酒など食料を好きに調達してカートにどんどん入れていく。後ろで一人カートを押すのは僕だ。 だが、祐美は先には行かず、僕に付き添って一緒に歩いてくれた。彼女は本当に優しい人だ。 「ねぇ、何買うとぉ?」 「BBQに必要なもんって、何やったかいな?」  やっとスーパーで段取りの悪い買い物を済ませると、荷物や食材を車のトランクへ詰め込んだ。 「やべ、もうこんな時間じゃん、急ごう!」 予定よりも時間がかなり押している。みんな車へ乗り込むと、目的地である山のコテージまで急いだ。 実は、今日のためにCDショップで沢山音楽を取り入れてきており、 この一週間は、寝る間を惜しんでせっせと抜群の選曲で構成したプレイリストを準備していた。みんなの流行に頑張って合わせるために、ネットで調べた今流行りの曲を流す。 後ろを伺うと、どうやらみんなは楽しんでいるようだ。だが、だだっ広い山の麓に来て事件は起きた。急に梨沙が大声をあげた。 「ああ! ちょっと、虫除けスプレー買ってないじゃない! もう俊介、山の中行くんだからあれほど買ったか確認したじゃないの!」 「はぁ? そんなこと俺に言ったか? ってか、そういうのは俺じゃなくて裕翔が担当だったろう?」 「えっ、俺? それはさ、大輝の役割だろ?」 「おい、ちょっと待ってーオレか?」 「もう、ほんと最悪……」と、機嫌を悪くする梨沙に戸惑う男たち。 詳しくは知らないのだが、梨沙は、どうやら虫がダメらしい。虫に対してきっと過去にトラウマがあるのだろう。 車内の空気が一気に悪くなった。みんなは黙り込み、それぞれ俯いていたり、外を眺めたりと、完全に心がバラバラに…………。  僕は、音楽プレヤーを手に取ると、機転を利かし、すぐさま別の曲に切り替える……選んだ曲は、エル○ン・ジョンの『タイニー・ダンサー』。 ♪〈タラララン・タン・タタン・タン・タタン、タラララン・タン・タタン・タン・タタン〜〉沈黙の空間の中、刻み出したピアノのメロディ。 バラバラとなったみんなのブルーな心に、ピアノの音色が小さく、徐々に浸透していく。なんて心地いいメロディ。心が浄化されていく。 心動かされたか、元気者の大輝が、空気を変えようと途中から歌詞を口ずさみ始める。 それを見た菜月、裕翔も伝心していくかのように、続けて歌い始めた。 俊介も英語はデタラメだが一緒に歌っている。 さっきまでムッとしていた梨沙の表情は、徐々に緩んでいき、気づけば一緒に歌い出していた。みんなの心が徐々に変色していく。まるで青色に白色が浸透して、晴れ晴れとした空色へと変わっていくかのように。 緩やかなカーブに差し掛かり、車はハイウェイを大きく曲がっていく。 サビに差し掛かるところで、みんなのバラバラとなった心が自然と一つに合わさり、嬉々とした大合唱となった。 僕も音痴だけど、みんなと歌っていると、なんだか最高に楽しい! 不思議と気持ちも穏やかに……(これが青春ってやつか)。 僕はバックミラー越しに奥の座席にいる祐美を見ると、お互いの目が合った。祐美は、あのニコッとした笑顔で、僕に唇を動かしてこう合図を送った。「もう、仲間よ」 僕は、思い出していた。多分、祐美も思い出していただろう。 あの頃、ペニー・レインと……。 b8aae7c7-df0f-4dac-bc0b-4cf0729222ba  ……だが、これは単なる僕の想像にすぎなかった。現実はこうだ。 あの後、俊介はエル○ンの曲を途中で勝手に止めて、僕にこう言った。 「なぁ、音楽、俺のプレイヤーと繋いでいいか?」 「ええっ……」 「よっしゃ、繋ぐぜ」と、俊介は、僕の繋いでいたブルートゥースの接続を断ち切り、自分の音楽プレイヤーを勝手に繋いで乗っ取った。僕は、運転をしていたため、うまく阻止することができず……。 俊介は、自分のプレイリストをパラパラと参照すると、別の曲に切り替えた。「音量も上げるぜ」 沈黙の空間の中、爆音の荒れたサウンド。「フゥーッ、超絶熱いぜ!」 なんて耳を塞ぎたくなるような不快な音、頭痛がしそうだ……。 バックミラー越しに後ろを見ると、みんなの肩や首が一定のリズムで揺らいでいる。幻覚でも見ているのか、元気者の大輝が、狂ったように騒ぎ出し、空気を一変する。「フォーーッ! ほんま最高!」 それを見た菜月、裕翔も伝心していくかのように、騒ぎ出した。 俊介は、真横でガンガン、バタバタと飛び跳ねている。 さっきまでムッとしていた梨沙も、気づけば一緒になって騒いでいた。 車内はまるでホットなクラブ状態。みんなは、さっき起きたことなんてすっかり忘れている。 僕は、バックミラー越しに奥の座席にいる祐美を見た。そこには、みんなと一緒になって、ノリノリで楽しそうにしている祐美の姿。 僕の夢見たハッピーで理想の物語は長いようで一瞬だった。 この爆音とノリはまだまだ続きそう。同じ車内に一緒にいても感じる激しい温度差。天国と地獄。理想と現実……(家に帰りたい)。 僕の運転する車は、俊介に音楽の使用権を独占されたまま、目的地に向かって走り続けた……。  車は、樹々の生い茂るグネグネした山道に入り、しばらく奥へ進んでいくと目的地であるキャンプ場に辿り着いた。 夏のキャンプシーズンだというのに、なぜだか他の客は誰もいない。 ここは俊介が探したネットには載っていない最安値の隠れスポット。  駐車場で車を降りると、みんなで重い荷物を抱え、その先のキャンプ場のコテージまで歩いた。コテージは、駐車場から五百メートル離れた森の先にある。僕らは森の中をどんどん進んで行く。  ここで気づいたのだが、みんなが持った荷物はどれも軽いやつばかりだ。僕は、車のトランクに最後に残った荷物で一番重たいクーラーボックスを持たされている。物凄く重たいし、しんどくて汗が止まらない。 森の途中で俊介が捨てられたリアカーを見つけた。 「なぁ、これ使えるくね? これに荷物まとめて載せていこうぜ!」 「あ、それええな!」 「そうしよう〜重たいし、とっても疲れた〜」  みんなはリアカーに次々と荷物を載せていく。最後に僕の手に持った重いクーラーボックスを載せた。手足が重力から解放されていく。 一息ついている間に、みんなは手ぶらで先に進み始めていた。気づけば、リアカーの前に残されているのは僕一人…………だが、ふと後ろを振り向くと、そこに祐美が一緒にいてくれた。  そんな心優しい祐美の前で弱音は吐けない。僕はリアカーを引いた。 しばらく歩き続けていると、だんだんと森が拓けてきて、目の前には外観が洒落た新築で綺麗なコテージの姿が現れた。 「わぁ〜、超いい感じじゃん〜」 「ほんと、綺麗かねぇ〜」 「ここさ、めっちゃオシャレだね」 「ヒャッホー、激熱すぎ!」 「ホンマ、めっちゃええとこやん!」 「ここにしてよかったわね」  コテージを見て、楽しそうにはしゃぐ五人。  その後ろでは、重たい荷物が積まれたリアカーをようやく降ろし、汗が滴る膝に手をつき、止まらぬ荒れた息を小さく吐き続ける僕。 「大丈夫?」と、心配する祐美。 「うん……大丈夫です……」と、すでに息切れの僕。 「ねぇ、みんなでコテージとあの山をバックに写真撮らない?」 「よかねぇ」 「撮ろうぜ、撮ろうぜ!」 「じゃあさ、誰のスマホで撮ろうか?」  六人は、互いのスマートフォンを見回し、査定し合った。 「野沢のスマホって何?」 「(ハァ……ハァ……)えっ、あっ!」  僕は、慌てて自分のスマホをみんなに見せた。 「あれ? 野沢のスマホ、この前発売された最新モデルのやつじゃね?」と、俊介が僕のスマートフォンを指差した。 「本当だ!」 突然のみんなからの視線にドキッと緊張が走る。みんな僕の最新モデルのスマートフォンを見つめ、結果、採用された。 「よし、野沢のやつで撮ろうぜ!」 「せやな!」 「それさ、確かめっちゃ画質の良いやつのはずだよ」 「えーマジー、ほんとぉ〜」 「野沢、ちょっと借りるぞ〜」 「あっ、ちょっと……」  僕の最新モデルのスマートフォンは、苦労してようやく買えた代物。またもや自分の物かのように俊介に乗っ取られてしまった。梨沙は、自前の自撮り棒をバッグから取り出し、俊介からスマホをもらうと、慣れた手つきで素早くカメラのアングルをセッティングし、みんなを集めた。 「みんな〜ほら、寄ってぇ〜」  みんなは、センターに位置した梨沙の周りにギューっと集う。 僕は遠慮がちな性質からなのか、自然と少し離れた位置に構えていた。  みんなは簡単に綺麗な笑顔を作る。僕は笑顔を作るのが凄く苦手だ。 みんなでカメラレンズを見つめる。少し離れた位置で、未だ笑顔を作れない僕の耳元にそっと囁きが聞こえた。 「野沢君、もっとこっち寄って」  その声は祐美だった。祐美は、ニコッと僕に目で合図する。  僕は、その優しさに惹かれるように祐美の隣に位置した。みんなは肩をべったり寄せ合っている中、やはり僕は、遠慮がちな性質とそのおこがましさからか、(いや、緊張からか)祐美と僕の肩はわずか五センチメートル程空いてしまった。でも、この距離は僕にとってベストだった。 祐美は、なんて素敵な人なんだ。こんな僕にまで気を配って、親切で、優しくて、本当に善い人だ。好きな気持ちが胸の中でいっぱいになって止まらない。  気づけば、写真を複数枚撮り終えていた。みんなで写真を見返す。 「良い写真だわ〜」 「ほんと、よく撮れとうね」 「めっちゃ最高やん!」 「ねぇ、なにこれ、野沢君めっちゃ顔ウケるんだけど」 「本当だ。マジ、ウケるぜ」  僕は、シャッターを切る瞬間、祐美の事を想っていた為、自然と至福が滲み出て、まるで今にも天にも登りそうな顔をしていたのだ。それを見て、自分でもおかしかった。「本当だ。ウケるね」 複数枚撮った写真をスライドしながら進めていき、みんなで最後の一枚の写真を見ていた時、突然、「きゃーっ!」と梨沙が悲鳴をあげた。 「ねぇ……待って……野沢君の後ろ、何か写ってる……」 最後の一枚だけ、確かに僕の背後に何か写っている……人影だ。 みんなは、恐る恐る首を背後に回す……と、そこには日焼けした黒い肌に、白い髭を生やし、薄汚れた作業着を着た老人が一人立っていた。 梨沙が再び悲鳴をあげる。老人の姿に、みんなは怯んでしまっている。  老人は、手にコンテナかごを持っており、その中にはキャンプ場のガイドブック、洗剤類、BBQに必要な道具、そしてカラオケのマイクも入っていた……(ギクッ)。 老人は、コンテナかごを黙って手渡すと、死んだ魚のような目に不気味な笑みを浮かべて、スタスタとどこかへと消えていった。その姿に、みんなは声も出ずにただ固まっていた。 「なっ……なんだったんだ、今の……」 「焦った〜」 「あの人さ、たぶん管理人じゃないかな」 「えっ、マジ! 普通に夜会ったら怖いんですけどぉ〜」  みんなでそんなことを話しながら、綺麗で洒落た外観のコテージの玄関前でぞろぞろ立ち止まる。 コンテナかごに入った玄関の鍵を裕翔から受け取った梨沙。 「じゃあ、みんな、開けるわね〜」 梨沙は、両手で扉の持ち手を掴むと、思いっきって開けた。 「さぁ、オープン!」 みんなの思い描いていた内装、とは一変して、中には必要最小限の家具のみで殺風景であった。見た目とは違って、中は空っぽだった……。  夕方、僕は梨沙や菜月に頼まれて、車内に置き忘れてきた彼女らの携帯の充電器を取りに片道五百メートルある駐車場まで戻っていた。 一方その頃、みんなは湖のほとりで楽しそうに水遊びをしていた。 正直、なんで俺が……と内心ではムカついた気持ちもあったが、このグループの中では僕が一番下っ端だし、上に逆らうことなんてできない。しかも、梨沙や菜月にエロく誘惑されると、女性経験のない僕はどうすることもできず、従わざるを得ないのだ。童貞はみんな、こういう女性を相手にすると無力だ。 このグループに僕が居続けられるためには、当然これくらいの我慢、妥協が強いられることは自分でもわかっている。これからの幸せで安定した理想の生活(勝ち組)になるために……。祐美のために……。 車内から携帯の充電器を持ち出し、僕はみんなの元へトボトボと戻っている途中、突然、目の前にあの不気味な老人が現れた。萎縮した背筋が急にピンと伸び、視線が合うとまるで時が止まったかのように感じる。 老人は、今度は怒りの表情を浮かべて近寄って来た為、僕は恐怖で反射的に後退りした。さっき出会ったときとは明らかに様子がおかしい。死んだ目が生き返っていた。 老人は、僕の目の前に立ち塞がると、その沈黙の口を開く。 「お前か……」 「えっ……え……」 「お前か、ワシの小屋から勝手にサバイバルナイフを盗んだのは……」 「サ、サバイバルナイフ?」  全く身に覚えのないことで頭が混乱した。 「盗んだのはお前かと聞いとるんだ!」  老人が怒鳴った。 「い、いや、違います! 僕じゃありません」  老人の鼻息がどんどん荒れていく。 「さっき、湖にいたお前の連れにも聞いたが、誰も知らないだと。あいつらはお前が盗ったんじゃないかと言っとるが」 「えっ……そ、そんな……(どうして……?)」  なんだか、心の中に穴が空いたような感覚がある。だが、僕は無実であることを、老人の目を見てはっきりと示した。 「僕じゃない! そんなもの、僕は盗ってなんかいません!」  すると、老人の目がだんだんと元の死んだ目に戻っていった。この目がこの老人にとっての正常なのだろう。でも、気になるのはサバイバルナイフ、一体何のことだったんだろう……。そんなことをついついまた頭で想っていると、老人は目の前から消えていた……本当に不気味だ。  さっきから、ズボンのポケットの中で携帯電話のバイブがなっているのに気づいた。着信だ! 着信なんていつぶりだろうか。  僕は、慌てて電話に出た。 「もしもし……」 「あっ、もしもし、オレオレ……裕翔」  電話の相手は裕翔だった。電話の奥では梨沙、菜月、祐美のキャピキャピとした声に、俊介、大輝の大きなはしゃぎ声がしている……楽しそうだな……。 「あのさ、携帯の充電器なんだけどさ、急いで持って来てくんない? 二人の充電がもうやばそうでさ」  ここで電話の相手が奥にいた梨沙と菜月に切り替わる。 「もしも〜し、野沢くーん、なんかごめんねぇ〜」 「ごめんなさいね、充電なくて困っとって。待っとぉーよ」」  その後、電話はプツリと切れた。これからの幸せで安定した理想の生活(勝ち組)になるためために、祐美のためには我慢……うん……でも……何とも言えない気持ち。僕は仕方なくコテージまで走ることにした。  コテージまでの最短ルートは道のない坂道を登らなくてはならない。僕は斜面に突き出た木の根や大きな岩に足をかけ、坂道を進んでいく。   坂を越えるとコテージが見えて来た。玄関前にはみんな揃って僕の帰りを、手を振って待っていてくれている。僕は、携帯の充電器を握りしめ、コテージまで汗を垂らしながら走った。  往復一キロメートル、ラストスパート、僕の頭の中では『サライ』が心地よく流れている。(頑張った甲斐があってよかった)  コテージに近づくにつれ、頭の中で流れる『サライ』の音量がだんだんと大きくなってきている気がするし、みんなの表情もよく見えてきた。 (あれ? なんでみんなそんなガッカリした表情をしているの?)  俊介がスマートフォンで動画を撮影していて、横で大輝が音楽を流している。周りのみんなはその動画を見て顔を渋くし首を傾げていたり、溜息をついている。(何なんだ……?)  みんなの元へ辿り着くと、そこには誰の笑顔の歓迎もなかった。あったのは感情のこもっていない「ありがとう」「お疲れ」の言葉のみで、みんなはさっさとコテージの中へと入っていった。(どうして……?)  コテージのウッドデッキ、熾火の燃えカスと若い男女の乾杯の声が夜空へ舞うと、BBQが始まった。 僕にとって、このようなお酒の会は久しぶり。BBQも小学生に家族とやったのが最後。だから炭のくべ方、火の起こし方など専門的な作業では全く役に立たなかった。はっきり言って勉強不足だ……(前の日にユーチューブでやり方を見ておけばよかった) 着火剤がないと女の子たちが困っていた時も、僕以外の男たちは知識を生かし、杉の葉で代用し、見事火を起こした。やはり、こういう行事をやり慣れている僕以外の男たちの方が遥かに上手い。(僕も何か貢献しなければ……)焦りからか、僕はトングを手に取り、自ら肉焼き係に回ったのだが……。 BBQも中盤。テーブルに座ってワイワイと楽しそうなみんな。一方、僕は、テーブルから少し離れたライトの明かりも当たらない自ら選んだ肉焼きグリルの前にずっと位置している。完全に蚊帳の外という構図。 僕が移動できるのは、肉が焼けた時だけ。肉を紙皿に移し、冷めないうちにみんなのテーブルに持っていく。そして、自ら進んで立候補してしまった火の番の為、また持ち場のグリルへと戻る。 肉を焼き、飲めないお酒をチョビチョビと呑むだけ。美味しくも楽しくもない……。せっかくチャンスを物にし、お近くなれた関係が、だんだんと遠ざかっていき、以前のような関係に戻っていく感じを覚えた。 お酒の場が後半に近づく。(あぁ、カラオケありませんように……) 「おい、後でカラオケやろうぜ! 熱いぜ!」 (あのバカ、そのまま黙ってろ!)  僕は、唇を軽く噛み、俊介を睨んでいると、俊介と目が合う! 俊介はだいぶ酔っており、僕に向かって「おーい、えーと、なぁ楽しんでいるか? お前も肉食えよ〜」と言ってきた。 (お前らが全然食わないから俺が残り全部食ってやってんだろうが!) 時々、俊介にイラついていた。でも、僕はBBQの準備を三人にほぼ任せ、何も役に立たなかったので、「肉焼くの代って」なんてことは、僕の立場上、到底言えなかった。だから、良い感じで焼けた自分の分の余り肉を一人でずっと食べるだけ。 腹は満たされた。だが、心は何も満たされてはいない。椅子の上で一人、うつむいていると、足元に変わった虫がやって来た……ナナフシだ。生で見たのは多分初めて。何だか凄く新鮮で、そこには子供のような興奮と興味があった。 ナナフシは、靴の上に乗り、そのまま僕に向かってよじ登って来た。 僕は、すぐさまナナフシの体を掴むと、この場から追い出した。 「こんなところ、来るもんじゃないよ」  僕は、ナナフシに向かってそう言うと、ナナフシはこちらを振り返ることなくそのまま草むらへ戻っていった。 (俺、虫なんかに何言ってんだろ……)  再び元の位置に戻ると、溜息をつき、グリルの中で赤く上がる炎を見つめた。炎の中をしばらくボーッと見つめていると、また頭の中を悪い想像が蝕み始めていった…………。 「火、消えかかっているよ」 気づくと、火がだんだん消えかかっていた。 「……えっ、あっ!」  団扇をパタパタと小刻みに仰ぎ、慌てて火を起こす。風で艶やかな黒髪が靡く。 声をかけてくれたのは祐美だった。 「ゆ、祐美さん」 「なんかごめんね、ずっと火の番頼んでいて。代わろうか?」 「あ、ありがとうございます。で、でも、大丈夫ですよこれくらい」 「私もここにいるよ。一緒に肉焼こ」  祐美は、あのニコッとした可愛らしい笑顔を見せてくれた。僕には、彼女が本当に天使のように見えていた。 「野沢君、あと、もうタメ口でいいんだよ」 「あぁ……ごめん。ありがとう」 「さっき、ずっとボーッとしていたみたいだけど大丈夫? 酔った?」 「いや、酔ったんじゃなくて……つい、想像を……」 「想像?」 「う、うん。なんかボーッとね、頭の中で物語を想像してしまうんだ。癖なんだ。その時の気持ちによるんだけど、幸せな物語もあれば、破滅的な最悪な物語とか……よくあるんだ。やっぱり僕って、変だよね……(あれ? 何で俺は祐美さんにこんなこと話しているんだろう……)」  自分でも不思議だった。でも、祐美の返答は意外なものだった。 「そんなことないよ。私、そういうの好きよ。頭の中で物語を想像して描けるって、素晴らしいことじゃない。野沢君の頭の中はきっと、湧き出る想像力の泉なんだよ」 「いやいや、そんなこと言ってくれるのは祐美さんだけだよ」 「でも、そんな秘めた才能もあって、昔の古い映画も詳しくて。野沢君、将来は脚本家さんとか向いているんじゃないかな?」 「脚本家か……」 「うん! 将来、脚本家さん、凄く良いと思うよ」 「そんなこと今まで考えたこともなかった…………でも、それは僕なんかには、無理かな……」 「えっ、どうして? せっかくの、だって……」 「うーん、でも、それが僕にとってどういうものなのか、よくわからないんだ……」 「そう……」 「祐美さんは、将来何かやりたいこととかあるの?」 「え! えっと……私はね……」 「うぉ〜い、お前ら〜」という酒で酔った大声に僕らの会話は遮られた。 奥のテーブル席で盛り上がっている五人。酒で酔った大声の主は俊介。 「うぉ〜い、肉はもういいから、お前らもこっち来て一緒に飲もうぜ!」 祐美は、「行く?」と僕に聞いた。 幸せな二人だけの空間はそう長くは続かない。過ぎ行く至福のひと時を惜しみながらも、僕は笑顔を作って「うん」と答えた。でも、二人だけになれる瞬間は、まだきっとあると願った。 「あっ、さっきの僕の話は秘密だからね」と念を押すと、祐美は「うん、二人だけの秘密ね」と約束を交わし、みんなの元へ行った。 僕らが来ると、みんなは、自然と祐美を囲むようにして座り直した。 僕は、自然とその輪の一番端に追いやられる。みんなの会話を端で、相槌を打ちながら聞いているが、僕に話を振られるわけでもなく、みんなの会話に入ることもできぬまま時間はどんどんと過ぎていく。 気づけば、端で一人、水浸しでぬるくなった缶チューハイをチビチビと飲んでいた。みんなの酔いも徐々に冷めていき、盛り上がる楽しいネタも底をついたところで、大学生にとって真面目な就活の話題と移る。 「ねぇ、将来の仕事って、何を選んだらいいんだろうか。私、何がやりたいとかないんだよね〜」と梨沙。 「それな、マジわかるわ!」と俊介。 「うちも同じよ」と菜月。 「裕翔はどうなのよ?」と梨沙が聞く。 「俺はさ、もう何社か内定もらっていて。どこも給料は凄くいいとこなんだよ。でもさ、どれも別にやりたい仕事じゃないんだよね……正直、どうしようか悩んでる」と裕翔。 「やりたい仕事か……」と大輝がつぶやく。 「大輝はさ、やっぱり野球選手か?」 「いや……オレもプロ目指して今まで必死にやってきたんやけど、でも現実、もう四年にもなって、大会が終わっても俺の所にスカウトなんてどこもけーへんし……なんか今は、もう何の為に野球やっとるのかわからへんねん。このままやっていても、無意味ちゃうかなって思うとる。ほんまこの先どなんすればええんやろ……」  みんなが互いに同情し合った。僕も気持ちはみんなと同じ。自分は何がやりたいのか……なかった。  僕は祐美を見た。祐美はいつものままで、みんなのこの沈んだ空気をどうにか明るく変えようとしているようだ。 「ねぇねぇ、この瓶って何だろう?」  祐美が、小型の保冷バッグから両手で抱えて取り出したのは、冷えたシャンパンだった。 「おい、誰だよ、シャンパンなんて隠し持ってきたやつは〜」と俊介が笑いながら体を乗り出して、祐美の手からシャンパンを掴み取る。  「えぇ〜シャンパンあるの! 飲みた〜い」 「フゥーッ、テンション上がるぜ! 熱いぜ!」  さっきの沈んだ空気が一変し、みんなは興奮しながら、俊介が両手で高く掲げたシャンパンの周りに群がる。俊介は、みんなの注目を集めると、「よし、開けるぞ!」とコルク栓を抜く体制に入り…………ポン! とコルク栓が開閉する音をみんなは待ち望む。だが、なかなか開かない。 「早よぉ〜」 「ちょ、待てって……」と、俊介がもう一回力を込めた瞬間に、ポン! とコルク栓の開閉音とともに、瓶からまるで魔法のランプのようにモクモクと白煙が溢れ出す。その様子にみんなのテンションはマックスに!  実は、僕も内心ではみんなと同じく、テンションが凄く上がっているのだ。僕は、お酒は得意ではないが、シャンパンに対しては憧れがあった。映画でよく金持ちやかっこいい男が飲んでいた高級な飲み物、一体どんな味がするのだろう。 「プラスチックのコップしかないけど、もうこれでいいよな?」と裕翔がコップをみんなに配る。俊介は、シャンパンを少しずつ注いでいく。 コップの約三分の一の高さに均等に注がれたシャンパンがみんなの手元に行き届くと、持手でコップを高く掲げた。 ここで裕翔が「今日は乾杯の音頭さ、野沢君やってよ」と言ってきた。  いきなり難題を振られた為、何を言えばいいのかわからなかった。でも、冷めあらぬテンションに己を委ね、僕は思い切って叫んだ。 「みんな、今日はありがとう、今日は最高の日だ! カンパーイ!」 「カンパーーーイ!!!」  月の光に照らされる中、七人の掲げたプラスチックのコップが一斉に重なり、透き通るように輝くシャンパンが中で揺れた後、みんなは首を傾けて喉の奥まで流し込んだ。みんなで飲むシャンパン、何だか最高にハッピーな瞬間だった。これぞ青春、これぞ友情だ、という感動と満足感に浸りながらシャンパンを飲み干した。 「へい、お疲れ!」「よかったで!」「今のさ、最高だったよ!」「野沢君もシャンパンも最高ばい」「今日は朝まで飲みましょう〜」などと、僕に対して、改めて歓迎の言葉たちが向けられると純粋に嬉しい気持ちで心が満たされた。(はぁ〜よかった〜) それと同時に祐美に対して、凄く感謝と感心をしていた。祐美は本当に凄い。さっきまでの暗い空気を、機転を利かせた一言でポンと明るく変えた。きっと祐美は、他の人たちとは違う。何か特別な力を持っている。祐美は、僕にとってまるで天使のような存在だ。  それからさらに火が着き、俊介は小型の保冷バッグに入っていたウイスキーの瓶を取り出すと、大学生ノリのイッキ飲み大会が始まった。 僕は、こういう行事にはあまり参加経験がない。むしろ避けてきた行事であった。こんなの何の生産性もない。何も考えないバカのやることだとずっと思っていた。でも、今日はいつもと違って、なんだか最高に楽しい気分。こんな気分を自ら消滅させたくはなかった。 みんなの注目を浴び、高まるコールとともに僕は初めてのイッキ飲みをした……うっ、苦しい。苦しかったが、必死に飲み干した。 「フゥーーッ」 飲み干した瞬間、みんなから歓声と称賛が上がり、気づけば、僕を中心とした輪が目の前に煌びやかに広がっていた。(はぁ〜幸せだ……) その光景を目に焼き付けようとするが、目がグラグラと揺れ動き、視点が上手く定まらない。頭が熱くボワーッと回り、虚ろゆく目の中で、ふと祐美が見えた。祐美は、あのニコッとした可愛らしい笑顔で僕を見つめていた。 苦しい……。頭が痛い……。 重たい瞼をゆっくりと上げた…………ここはどこなんだ? 天井の木目、窓に差し込む月の光、背中に張りつく硬く冷たいベッド。 渦のようにグルグルと頭が揺れる中、僕はゆっくりと起き上がった。 静か……。まるで人気がない。 僕は、なぜここに? 周りを見渡すと、ここはコテージの二階にある寝室だということに気付いた。最初にここを訪れた際に、みんなで家の中を隅々まで見て回ったから覚えていたのだ。僕は、床に足をつき、ヨロヨロと立ちくらみしながらも、二階の寝室を出て、ゆっくりと下へ降りた。 一階は真っ暗で静か。僕は、BBQをやっていたウッドデッキへ向かったが、そこには誰もおらず、グリルの炎だけが僅かに灯っていた。 僕は、家中を探した。だが、誰もどこにもいなかった。 (もしや、みんなの身に何かあったのだろうか……) この時ふと、昼間出会ったあの不気味な老人の顔が頭を過る。 (もしかして……大変だ)僕は、靴を履くと外へ飛び出し、暗くて静寂な森の中を必死で探し回った。 しばらく駆け回ったが、誰もどこにもいない。森の中で聞こえるのは僕の荒れた呼吸だけ。 息が切れ、その場で両膝に手をついて呼吸を整えている時だった。微かだが、どこからか僕とは違う荒れた呼吸が聞こえてくる。気のせいか。僕は耳を澄ますことに集中し、その微かな呼吸のする方へ足を運んだ。 やはり聞こえる。人間の荒れた呼吸。だんだん近づくにつれ、その呼吸は二つ聞こえてきた。この先に誰かがいる。しかも二人……。 手前の茂みに辿り着き、その場で身を潜めた。この先にいる二つの呼吸がだんだんと激しさを増す……不気味な恐怖で、僕の心臓の鼓動まで激しさを増していく。 僕は勇気を出し、茂みの隙間に顔を押し付けながら覗き込んだ。 月の光が照らすその先に僕が見たものは、巨大な浅黒い肌をした男の筋肉質な背中であった。月明かりで輝く、まるで彫刻のような体、そして激しいピストン運動。男の脇腹からハの字に突き出た女の白い脚と喘ぎ声。 カオスだ……僕は、今までそのような経験もなければ、アダルトビデオ以外で見たこともない。だから、初めて目にするその生々しい光景にリアルな恐怖を覚え、思わずその場から目を背けたくなった。 僕は、震える足を強引に後退させたその時、木の枝を踏みパキッっと折れる音が静寂な森に大きく響く。 男がゆっくりと後ろを振り向いた……露わとなった怒りの表情。 僕は、逃げるようにその場から立ち去った。草木をかき分けてひたすら走る。 僕は、コテージに慌てて駆け戻った。息はとうに切れている。背中は下方に丸まり、両手が膝から離れない。玄関先で息を整えていると、コテージの二階の部屋の明かりがついていることに気が付く……さっきまで僕がいた部屋だ。 すると、部屋の窓に二人の黒い影が! うち一人の影は、手に先端の鋭い凶器のようなものを持っているようだ。もう一人は、両手を縄のようなもので縛られた上、壁に押さえつけられているのを影で確認した。   固まる足、再び激しく高鳴る心臓。だが、余計な正義感が僕の固まった足を強引に引きずった。(行かなきゃ……) 僕は、恐る恐る暗いコテージの中へ入いると、音を立てないように慎重に階段を這いずり上がった。 部屋の前に辿りつくと、僕はドア越しに耳を澄まし、中の様子を確認する……恐怖を助長するような変な音が中でずっと鳴り響いている……二人の声もする……男と女の声だ。 男は暴力的な言葉で女を脅し、女はそれに対して大声で嘆いている。 この上ない危機感と恐ろしさを感じていた。お化けや幽霊なんかは信じてはいないし、恐ろしくもなんともない。だが、この世で一番恐ろしいのは人間だということを僕は知っている。殺人犯、不審者、サイコパス、テロリスト、独裁者、もっと身近でいうならば、いじめっ子、高校デビューを果たすと僕を置いて別の遠くの世界に行ってしまったかつての親友、決して逆らうことができない部活の鬼コーチ、SNSに悪口を書き込む裏に潜む影、それから女、あと……。 いや、この先にいる奴は、明らかに危険で恐ろしい。危険も怖いのも承知だが、どうにかしないと。僕は意を決し、恐る恐る部屋のドアをスーッと開けて中を覗く。 中には若い美男美女、二人の姿が。 男は女を縄で亀甲型に縛り上げた上、股に向かって先端の鋭いバイブを突き立てていた。男は女に対してサディスティック、女はそれに対してマゾヒズムだった……グロテスクだ。 僕は、胸の中で広がり続けるリアルな恐怖と妙な吐き気に我慢できず、自分のバッグを持って、再び暗い静寂な。森の中へと逃げ込んだ。 胸がキューッと締め付けられて苦しい……悲しくて涙がでてくる。こんな胸の苦しみは今までにも何度かあったこと。だが、今までの苦しみとは明らかに違う感じだった。目を、耳を、心を、全てを塞ぎ込みたい。 この時、僕は同時に、もう一つのリアルな恐怖を頭の中で想像していた。そうなってほしくないと願うこの世で一番の恐怖を……。 やっとの思いで駐車場に辿り着いた。ここはもう僕がいるべき世界ではない。早くこの場から逃げ出したい。家に帰りたい……。 やはり僕の中で、SEXというものに対する壁があった。どうしてもこの壁は越えることができない。本当は、僕もしたいという憧れ。でも、それはわずかなチャンスを掴んだ、限られた人間だけが経験できるもの。子供が大人になるための至極の通過儀礼。それが大人への一番の近道だと、自分の中で勝手にそんな解釈をしていた。僕は大人に憧れ、大人に早くなりたかった。 でも、今までずっとなれなかった。周りはどんどん大人の世界へと行ってしまう。なのに、僕はずっと取り残されたまま。この世界で生きているうちに、いつからか僕の心の中にSEXというものに対する諦め、悔しみ、悲しみ、憎しみ、そして一層の恐怖心が芽生えてしまっていたのだ。恐怖は人ぞれぞれの生い立ち、体験、環境によって異なるもの。 SEXは、限られた人間のその笑顔の裏に、薄く隠されている。普段、表では見せないようにしている。でも、それが目に見えてしまった時、知りたくなくても知ってしまった時、心を殺すと絶望が襲う。自分に対しても、相手に対しても。その相手がもしも僕の好きな人だったら……それが僕にとって一番のリアルな恐怖なのだ。 一度、心にそのリアルな恐怖心が植えつけられてしまうと、僕の日常は深い闇に包まれ、いつの間にか何気ないところでも発作が起き始めた。 例えば、男同士の会話の中でよくある、「彼女いるの?」「今まで彼女何人いた?」「経験人数は?」「まさか、彼女いない歴=自分の年齢?」「君、もしかして童貞?」など。 男同士でエッチな会話なんてラフで日常茶飯事。でも、それは親しくなれる、距離を近づけてくれる一番手っ取り早いツールとして世間に存在している。でも、僕はそれが嫌だった。そういうエッチな会話、単語にやたら敏感になってしまい、その場に居るだけで胸が苦しくなる。だから、僕はいつもその場から逃げ出してしまうのだ。これがリアルな恐怖による発作である。 他にも発作は、学校にいる女子全員に対しても起きていた。妙に意識してしまうと、面と向かって話すことが全くできずに、自然とそういう機会を自己防衛するかのように避けてしまう。普通の女の子とも、高校の部活のマネージャーとも、昔は仲良かった幼馴染の女の子とも、今ではもうまともに話すことはできない。 せめて少しは話せるようになりたくて、僕は大学一年〜二年次、バイト先で一緒に働いていた四、五十代のおばさま方相手に話す練習をしていた。でも、話せるようになったのは結局、おばさま止まり。実践(同年代の女子)では緊張で全く話せず、克服することはできなかった。 今の僕を見てみろ。挙句、友達はおらず、女とも、男とだってまともに話すことが苦手なまま、何も変わらぬまま……。 僕は未だ小さな子供のままなのだ。 それに反し、学校において上層階級に属するあの六人は遥かに大人。 僕は、彼らをどこか神格化していた。神の領域だと。そこは、僕が決して行くことができない領域。行ってみたかった領域。そこに行くことができれば、きっと自分が変われると。人生が変われると。大人になれるのだと……。  そして僕は、チャンスの入り口へと誘われ、そこへ一度足を踏み入れた。みんな大人だということはわかっている。でも、いざリアルな恐怖、現実を目の当たりにすると、そこはやはり、僕が立ち入ってはいけない領域だと。結局、何も変われないんだということに気づいた。だから逃げ出し、帰りたくなったのだ。元の自分のいた世界に……。 僕は、持ち出したバッグの中から車の鍵を探した……が見当たらない。「あれ、確かに入れたはずだったが……」 バッグの中で何かが手に触れた。 すると、駐車場に停めてある車が横に小さく揺れているのに気づいた。 僕のワゴン車だ。地震かと思ったが違う。僕は、二○十六年に熊本で大地震を経験している。小さな揺れなら何千回も体感した。それから地震の際は、おおよその震度を的中させることができる。あの時の地震は確かに恐怖だったが、もうそんなのこの地域に暮らしているとすっかり慣れてしまっている。(それもそれで怖いのだが……) だから、あの車の揺れは地震ではない事は明らかだった。揺れはだんだん激しさを増す。まるで車に魂が宿ったように強く揺れていた。 それが一体何を意味しているのか、僕の頭でも容易に想像できた。でも、想像したくはない。想像するだけでリアルな恐怖が僕を蝕み始めた。 心を殺すとすぐ側で絶望が死霊のように待ち構えている。駐車場に設置された蛍光灯が光を失っていくと、目の前に黒く、長いカーペットが敷かれた。その上を僕は、一歩、一歩、また一歩とワゴン車まで歩んだ。 目は虚ろ、体の力はもう限界なことは自分でもわかっている。 ワゴン車の前で立ち止まった。目の前の黒い車窓に映る僕の顔。その表情はまるで魂が抜けたように無で、暗く、悲しげでもあった。 車内で動く二人の影。見せかけの筋肉が多少くっついているだけの細くて色白のパーマ男の体と、ブラジャーをつけた黒髪ボブで小さな女の体……。二人はプレイに夢中でこちらになんて気づいてもいない。 反射的に目を逸らすと、僕は両手で耳を塞いだ。重力がいつもの十倍の威力で上から押しつぶしてくる。膝は耐えきれずに折れ、背中は車にもたれかかる。まるで生命力を失った新芽のようにその場で崩れ込んだ。 祐美は、みんなから人気もあるし、モテるし、多分あの子だってもう大人であることは何となくわかってはいた。でも、そんな現実、僕は受け入れたくはない。受け入れることなんてできない……。 絶望感、虚無感、羞恥心、自滅願望、そして孤独が一気に押し寄せて、僕の心はグチャグチャになった。まるで『コートウルフ』のレンズ越しのように、視界はピントが合わず、すりガラス越しのようにも見えて現実感がなくなっていく。気分も悪い。今にもおかしくなりそうだ……。 しばらくすると、ワゴン車の揺れがおさまって、再び静寂が戻った。 だが、静寂が訪れると、車内で話をしている二人のかすかな声ですら、僕には余計に大きく、はっきりと聞こえてきた。 「なぁ、なんで今日、あいつ誘ったわけ?」 「あいつって、野沢君?」 「そう、そいつ、なんでなの?」 「なんでって……ふふ。足に決まってるじゃん。じゃないとあんな暗い人誘わないよ〜」 「やっぱり、だよな。みんな思っていたけど、そうだよなぁ〜ハハハ」 「ねぇ、なに〜野沢君に嫉妬したわけぇ?」 「別に、そんなんじゃないって。バーカ」 「俊介くんウケる。ふふ。でも野沢君って、話していてもつまらないんだよね。なんか妙に私に気があるみたいで、困っちゃった。しかも変な趣味もあるみたいで、よく頭で幸せな物語を想像するんだって〜」 「なんだそれ。キモっ。あいつ変態かよ」 心のダムキーパーは消えた。憎しみと怒りが溢れ出し、止まらない。 「てかよ、あいつ、車から充電器持って走って来た時、『サライ』を流してせっかく面白い動画撮ってやろうって思ったのに、絵図らは面白くないし、リアクションは薄いし、まぁ、顔もキモいから仕方ないか」 「ふふふ、そうね、俊介の言う通りね」 (……もうダメだ、誰も信じられない……) 視界が真っ白に……鼓膜を激しく揺さぶる大きな雷が近くに落下!  月の光はすでに暗黒にのみ込まれ、そこから矢のような雨が地上へと放たれた。雨粒が頬を滴り、それが肩に落ちて、そのまま手の甲まで垂直に流れ落ち、最後は強く握りしめた拳の中へ吸い込まれた。拳を緩めると、中にはあの金槌があった。 心の中で、さっきまでの絶望感、虚無感、羞恥心、自滅願望、孤独、全てが奴らに対する怒り、復讐、破滅願望へと一変した。まるで神の使命を受けたかのように。 (この世は腐っている。俺がキレイにしてやる……)  僕は、初めに二発、金槌を大きく振り下ろし、車窓を強くノックした。 その途端、車が尻餅をついたかのように揺れた。車窓には蜘蛛の巣が二つ生え、もう一発振り下ろすと車窓が粉々に割れた。 車内には、慌てて服を着替える俊介と祐美の姿。二人は素早く着替え終えた。こういう修羅場に対して手馴れている感じがうかがえる。  二人は、僕を見た。暗くて顔がよく見えていない様子。手には破壊力のある金槌。二人を一瞬で固まらせるのには、それだけで十分だった。  僕は、堪らず金槌を大きく振り上げた。すると、二人はその場でジタバタともがきながらも、反対側のドアを開けて脱出。 僕は、すぐさま反対側に回ろうと足に力を入れた瞬間、泥濘に足を取られ、その場で派手に倒れた。  雨でグチョグチョの泥濘には、さっき割った車窓のガラス片が万遍なく散らばっている。起き上がると、腕に、足に、胸に、額にガラス片が刺さり、出血していた。痛みは感じない。憎しみが、怒りが痛みを掻き消し、血は僕の視界を赤く染めた。  僕は、血の滴る足を引きずりながら反対側へ回るが、そこに二人の姿はない。二人は、暗い森の中へと駆け込んでいった。その姿を捉えると、僕は狂気をぶら下げ、二人の後を追う。  木々が黒く生い茂る森の中、夜空に輝く月も見えなければ、二人の影すらも見当たらない。苛立ちが募る。 すると、雨の中を駆け抜ける二人の足音を耳で捉え、後を追った。  徐々に茂みが減り、闇の切れ間から月の光が差し込む。その先の草木が開けたところにいたのは一人の女。 雨で濡れた黒髪から雫が滴り、大きな谷間へと流れ込む。まるで見せびらかすかのように露出の多いセクシーな服装とボディ。中でも強調された大きな胸に思わず目が引き寄せられる。 女は、三十メートル先にいる僕の存在に気づいた。僕の顔は、逆光で見えてはいない様子。だが、視線はビンビンに感じていたみたいで、女は眉間にシワを寄せてこちらを伺っていた。 「ねぇ……なんか、見られとらん?」  その女は菜月だった。菜月は、いつもあざとさのあるエロい格好で男たちの視線を集め、チヤホヤされている。だが、その実態は顔の良い男を狩るためのものだ。男たちの中でも、顔の良い男は許し好まれ、その他の顔の良くない男らはみんな「キモい」と扱われる。この差は目に見えて明らか。この女はなんて都合よく、勝手なんだ。  すると、菜月の背後から黒い人影が長く伸び、忍び寄った。  その人影は、背後から菜月の胸に、浅黒く焼けた毛深い腕を回した。 「どうしたん? 菜月」  大輝だった。大輝は、菜月の顔をクイッと自分の顔の方に向かせると、いきなりキスをした。菜月は、僕の存在にはお構いなく、大輝とのキスに夢中。時々は、こちらの様子を横目でチラッと伺うが、キスを続けた。  大輝は、僕の存在に気づいたが、やはり逆光で顔までは見えていない。 「なんなん、あいつまだおるんかいな」 「あんなの、見せつけばいいのよ。それより、好いとうよ、大輝」 「……せやな。菜月、めっちゃ好きやで」  僕はその場を離れず、ただただ怒りと憎しみの目で二人を睨み続ける。 その場を離れようとしない僕に、大輝はとうとう怒って近づいて来た。 「おいコラ、ええ加減にせぇよ! ぶん殴られたいんか」  大輝は、拳をぐっと握り、毛深い腕に力を入れて筋肉をビルドアップ。 こちらに近づくにつれ、その巨体はまるで熊のように大きく見えた。 「うるさい……黙れ……(こいつを殺してやる……)」  大輝は、目の前に来ると、僕の胸ぐらを掴んで持ち上げた。  見上げる大輝。胸ぐらを掴まれた状態で見下す僕。その影のかかった顔がついに明るみとなる。  一瞬怯んだ大輝。その瞬間、金槌が大輝の頭に叩き落とされた。静寂な森に鈍い音が一発だけ響いた後、熊のような巨体はその場に倒れ込み、おとなしくなった。 暗く静寂な森が、より一層暗く、音も完全にない。 初めて振るった暴力、なのに意外と冷静でいられた。この金槌を握っていると、不思議と安心感がある。 僕は、倒れ込んだ巨体を大股で跨ぐと、金槌を鬼の棍棒のように肩に担ぎながら菜月の方へと歩んだ。 菜月は、今、目の前で起きた事と迫り来る狂気に対して、全く動けなくなっている状況。 僕は金槌をチラつかせた。(次はこいつを殺す……) 慌てふためく菜月。その場でもがき、這いつくばりながらも森の奥へと必死に逃げ出す。 菜月は、荒れた息を手で殺し、木の陰に隠れた。だんだんと近づいてくる狂気をビンビンと肌で感じとる菜月。足はガタガタと震えていた。 だが、菜月が隠れているところは一目瞭然。正面のクスノキ。スタイルの良い細い体は隠すことができても、その豊満な胸は木から隠せていない。なんて滑稽なんだ。 僕は、瞬時に菜月の背後に回り、金槌を振り上げる。菜月は気づいていない。金槌の先端が隕石のように、菜月の頭へ迫る。 すると、バランスを崩すくらいの力が右脇腹に加わる……体がくの字になって僕は倒れ込んだ。さっき大人しくさせたはずの大輝が、あの場からもう這い上がって来たのだ。なんてしぶとい男……。 大輝の息はかなり荒れていて、頭からは血が……。大輝は、この金槌に対抗すべく、地面に転がった石を手に取った。スナップを利かせ、手元で二、三度宙に浮かせた石をギュッと握りしめると、僕に向かって全力の豪速球を投げ込んできた。あまりの早さで目が追いつかない。 だが、石は僕を外れた。慣れない石はコントロールが難しい。大輝はもう一つ、地面から石を手に取った。残り一球。まるで九回ツーアウト満塁、ツーストライクスリーボールの状況。あと一球で全てが決まる。まるでここはスタジアム。大輝の大きく逞しい背中に隠れ、後ろで応援する菜月。黄色い声援を浴びた大輝。鍛えられた浅黒い肌に垂れる水滴をハンカチで拭う。バッグにつけられた勝利を願う手作りのお守りが頭にちらつく。 それに対して、僕の小さく見窄らしい背中の裏には何もなかった。愛してくれる異性も、黄色どころか誰の声援も。涙を拭うハンカチはあったけど手作りのお守りはなかった。バックに隠し持っていたのは、怒りだけだ。 僕にはないものを全て持っている者を相手に、僕はいつも負けていた。僕のような人間が勝てるわけがない。特に上層階級の人間たち、大人たちには……。僕は、最初から諦め、勝負から逃げ続けてきた。これ以上苦しみたくない、失いたくないと……。 だが、違う。全てが変わってしまった。もうここに僕はいない。 負けたっていい。自分の中で一度決意したことは最後までやるだけ。全てを終わらせよう。僕はもう何も失うものがないんだ。 大輝の大きく振り下ろされた右手からは、豪速の石が飛び出し、こちらへ向かってくる。 見えない。僕は怒りに身を任せ、金槌をサイドから叩きつけるように振り切る。「ファック!」 すると、石が爆発。激しく飛び散った石のかけらが僕の頰や足をかすめた。 痛みは感じない。でも、なぜだか、今この時間が妙に静かに感じる。まるで花火の最後の一発が打ち上がった後のような静けさと虚しさ。  ふと、目の前を見ると、大輝が頭から血を流し、そこで死んでいた。 血を流し、完全に動かなくなった大輝を見て、菜月が遅れて悲鳴を上げた。悲鳴はさらに遅れて森の奥から跳ね返る。 僕は動いた。菜月にどんどん迫る。菜月は背を向けてひたすら逃げる。よろめきながら走る菜月との距離は、わずか十メートル。 菜月は、必死で森を抜けた。だが、その先には崖が迫っている。崖下はかなり高く、下には川の水が勢いよく流れている。 菜月の足は完全に止まると、僕も足を止めた。菜月は、チラチラと崖下の川を見ている。生き延びる可能性を探し、彷徨っている。このまま殺されるか、怖いけど川へ飛び込むか……生死がかかる究極の二択。 菜月の決断は早かった……飛び降りた。 僕は、崖先まで行き、下を覗いた。 菜月は、川へ着水…………。 だが、思ったよりも川は浅かった。 バキッ……っという音が崖下から響き渡ってくる。なんともエグく、嫌な音。 菜月の体が川下へ勢いよく流されていくのを見届けると僕は、森の中へ戻った。 再び静寂な森を彷徨い続ける。あの二人をただただひたすら探した。 気づけば、コテージの前まで戻っていた。コテージの二階には、正体は何ともマゾヒズムである裕翔と梨沙の醜い影。完全に外まで声が漏れている。僕はコテージに背を向け、再び森の中に入るが、どうも心が落ち着かない。あの気持ちの悪い音が耳にじわじわと入ってくる。 僕は、心の中で再び静寂を取り戻したいと思っていた。なぜなら、この静寂な空間は、僕の心の中そのものであり、僕の唯一の居場所であるから。そこを犯す奴らは、今までずっと僕を苦しめてきた元兇であり、僕の中の狂気を生み出させたのだ。 僕は二階へと駆け上がり、部屋の扉の前に立つと、血にまみれた手で金槌を強く握りしめ、意を決して扉を開けた。 すると、シャワーのように液体が僕の体に勢いよくひっかかった。液体は水のように透明で、匂いはしない。 目の前には、下半身を露出させた梨沙がガニ股になって立っていて、その下には、裕翔が中腰の状態でいて、右手五本の指のうち親指以外の四本の指を、梨沙のあそこの中で激しく震わせている。 再びそこからシャワーが噴出されて、僕の体にかかった。僕は、何だか気持ち悪くなり、一度部屋を出て、近くの洗面所へと急ぐ。 洗面所に着くと鏡の前で激しい嗚咽と荒れた呼吸を整え、一度冷たい水で顔を洗った。(気持ち悪い……) 落ち着きを取り戻すと、鏡の中の僕の目を見て、心の声で自分に言い聞かせた。だんだんと憎しみが温泉のように沸き上がるのを心で感じる。  すると、洗面所の隣のトイレに裕翔が駆け込んできた。裕翔は、酔っているのか、興奮しているのか、僕に気づきもしないまま用をたし始めた。時々、言葉がままなっていない独り言を言っている。僕は、その間に梨沙が一人でいる部屋へ再び戻った。  部屋に戻ると、梨沙が脚をM字に曲げて椅子に座っていた。手には何かを持っていて、梨沙の様子は完全におかしくなっている。改めて部屋に入ると、空気が淀んでいて、うっすらと白く煙たくもある。 梨沙は、僕と目が合うと、僕に向かってしなやかな指を動かし、こちらへ手招きをした。何ともエロい。僕は反射的にあそこが立ってしまった。テントのように張ってきたズボンを手でグッと抑える。 すると、梨沙が立ち上がり、こちらに近づいてきた。僕は思わず後退。背中が後ろの壁にぶつかり、行き場を失った僕の体を梨沙が自分の体で上から大きく覆った。梨沙の指が首元をなぞって、乳首をなぞって、僕のあそこの先までなぞっていく。 梨沙は、耳元でこう囁いた。 「ねぇ、ヤらない?」 「………………(我慢だ)」 「ねぇ、ヤろうよ」 「…………も、もう、ダメだ。ファック」  僕は、梨沙の体を突き飛ばした。  突き飛ばされた衝撃で、梨沙が手に持っていたチューブのついた特殊なフラスコが割れた。結局、それが何なのかはよくわからなかった。 「ちょっと、何すんのよ!」  梨沙は激怒し、僕を睨みつける。すると、そこへ裕翔がトイレから戻ってきた。 裕翔は、割れたフラスコ、それから激怒している梨沙の視線の先を追って、僕を見つけた。 「おい、お前、何やってるんだよ!」  激怒するも、フラフラとよろめきながら近づいてくる裕翔に、僕は金槌を取り出す。  僕は、裕翔の右手を掴むと、側のテーブルの上に指を広げて置き、親指以外のぐっしょりと濡れた四本の指先を金槌で勢いよく叩き割った。 目の覚めるような裕翔の悲痛の叫びは、屋内中に響き渡る。裕翔は、右手四本の指を抑えて、その場に崩れた。猛烈な痛みが裕翔を苦しめる。  その光景を見て、屋内中に悲鳴を轟かせる梨沙。僕は、梨沙を静かにさせるために近寄ると、梨沙は「こっちに来ないで!」と言い放ち、僕の金槌に対抗すべく、身の側で武器になるものを探した。だが、部屋内は暗く、薄い月明かりしかなかったので、梨沙は手探りで必死に探す。  すると、梨沙が先端の尖った武器らしきものを手の感覚で見つけ、両手で掴むと、その先端を僕に向けたため、思わず立ち止まって構えた。  カーテンが風で揺らぎ、月明かりが梨沙の手に取った先端の尖ったバイブを照らす。バイブはスイッチが入り、梨沙の手の上でブルブルと震えていた。 その場で唖然とする梨沙。僕は一気に距離を詰めると、金槌を顔面に一撃食らわせた。せっかくの整った顔がなんとも台無しに……。  部屋を立ち去ろうとすると、隅で裕翔が動ける左手を駆使し、スマートフォンで警察を呼ぼうとしている。  僕は、裕翔の左手首を足でしっかりと固定すると、親指を含めた左手の指・計五本と残りの右手の親指を金槌でガンガン叩き割った。  僕は、さっさとコテージを出た。裕翔の悲鳴は未だ響き渡っている。  夕食の時は、まるでロケットのヒューズのように燃えていたBBQグリルの炎は完全に消えていた。僕の心を殺すかと一気に襲った辛い現実。この炎のように僕はここで独り命尽きたかった。でも、生命維持装置はついたままで死ぬことができずにいる。怒りや憎しみの炎も消えることはない。僕はひたすら静かで暗い闇の中を彷徨う、僕はロケットマンか。 いや、僕は心寂しい孤独な狩人……。 僕は、俊介と祐美を探して森の奥へと向かう。 途中、あまりにも生々しく濃い血にまみれた金槌を山川の水で洗うことにした。血にまだ温かみがある。何度も擦るが血はなかなか落ちない。 すると、川辺の岩陰から細長い体をしたナナフシが現れた。さっきと同じやつなのかはわからない。何だか弱っている様にも見える。 a749d6f8-8a63-4605-b8d5-d64d3eb3be55 (ナナフシって、何を食べるのだろう……) 僕は、ふとスマートフォンでナナフシの餌を調べた……。 (なるほど、木の葉っぱを食べるのか)僕は、近くの草木から色んな葉っぱをかき集めてナナフシに差し出す。ナナフシは、よろけながらもその小さな口で少しずつ葉っぱを食べた……(よかった)。 僕は立ち上がると、残血の金槌を引っさげて森の奥へと進んだ。  だいぶ森の奥の方へ来ると、そこは月明かりも入らないくらい樹々が黒く生い茂っていた。樹々が風で揺れるだけでさらに恐怖が助長する。  元来た道もわからなくなった。もう後戻りはできないかもしれない。そう思っていると、一軒の古い山小屋を見つけた。明かりはついてはいないが、今かすかに二人の声がした気がする。僕の耳はリアルな恐怖に対して物凄く敏感になってしまっている。僕は恐る恐る山小屋へ歩んだ。 7c84c542-2bdb-479a-b6e9-cf6ee0547995  古い山小屋の裏には木造の物置小屋があり、ここから声がしたと思う。 おそらく、奴らはここにいる……。 僕は、物置小屋をぶち破るように扉を金槌で破壊した。中はアンティークランプが中央でぼんわりと灯っていて、あとは暗くて何も見えない。 だが、その灯りのすぐ下に二人の影がある。 俊介と祐美……二人は、安楽椅子の上で身を寄せ合って座っていた。 二人の親密な時間を割くように突然入ってきた僕……ただ息を飲んで僕を見つめる二人。こんなになってしまった僕の姿は、ランプの灯りできっと、はっきりと見えているはず。僕は二人にこう問うた。 「僕が誰かわかる?」 「えっ、いや、急にどうしたん? 野口、何言ってんの?」と、俊介。 「ちょっと、違うよ、野沢君ってば」と、俊介に囁く祐美。 「えっ、あぁ……野沢……」  僕は、続けてこう問う。 「僕の下の名前は?」 「下の名前……えっと……」今度は祐美がもたつく。 「あっ野沢、マサコだったな。ハハ」と、俊介が茶目っ気を交えて返す。 「……知弘だ」 「あ、そうだ! 知弘、知弘だったね! どうやら俺の知り合いの野沢さんとこんがらがってしまったわ! ハハハ」と、俊介はその場で立ち上がり、笑いながらこの場を和ませようとしている。  と、俊介の腰に差してある物に目がいった……サバイバルナイフだ。 「そのサバイバルナイフどうしたの?」 「あぁ、これね! なんかBBQする時とか、肉切ったり、色々使えるだろ? 昼間ここに来た時に見つけて、ついつい掻っ払っていてよ。湖で遊んでいた時に、あのジジイに突然聞かれたからマジヤバイと思って。だから、今のうちにこっそりここに返しておこうと思ってな。ハハハ、証拠の隠蔽ってやつよ!」  怒りが増幅した。俊介がよく使っているであろう、得意の誤魔化し。誤魔化し、誤魔化し、いつもその場を乗り切っている。時には人を騙し、利用し、裏切る。こんなの許せない……。 それに誰も僕なんかを見てはいなかった。知ろうともしない。今回もただキャンプに行く足として、騙され、いいように利用されただけ。それだけの存在。僕の名前なんてすぐに忘れ去られるし、誰もが僕の下の名前、僕が誰なのか、気にもしてなかっただろ? この先付き合いもない、関係のない赤の他人のことなんてどうでもいいだろ? みんなそうだ。それが普通の世の中。誰かがこの世の中をどうにかして直さなきゃ。どんな方法でもいい。この腐った世の中をキレイにしないと……。  すると、僕の背後から人影が伸びてきた。僕はハッと後ろを振り返ると、目の前にいたのはあの不気味な老人!  老人は人差し指をガタガタと突き出し、俊介にこう問うた。 「おい、そのサバイバルナイフ、お前が盗ったのか?」 「えっ……い、いや、これは僕じゃなくて……」 「お前、ワシに嘘をついたのか?」 「い、いや……これはですね……」  俊介は、慌てて僕の元へ駆け寄り、僕にこう囁いた。 「あ、ちょっと野沢、あのな、ちょっと今ヤベェ状況でさ。このナイフの件、一旦お前がやったってことにしてくんない? 助けてくれよ、頼むぅ〜この通り! その代わりお前を正式に仲間に迎え入れてやるよ」 「………………」 「わ、わかった。ならさ、今度いい女たくさん紹介してやるよ。SEXだっていくらでもさせてあげるからさ、彼女作りにも協力するからよ」 「………………」 「なぁ、本当に頼むよ! 俺ら友達だろ? 嘘がバレたら、ガチであのジジイに殺されかねないって……じゃ、じゃあさ、金やるよ。大丈夫、お前の身の事は後でちゃんと保証してやるからよ……」  次の瞬間、僕は金槌を大きく振り上げた。 「おい、待て待て、マジかよ」 怒りに満ちた金槌の姿に、俊介はとっさに腰に差したサバイバルナイフを抜き取り、震える手で僕に向けた。 僕の前に立ちふさがる刃。だが、僕の怒りはコイツなんかにはもう止めることなどできない……殺す。 僕は、俊介の頭に向かって金槌を振り下ろした。俊介は、慌てて金槌を躱すと、恐怖から逃れるために無我夢中で刃を振り回す。 すると、俊介が振り回した刃が僕の脇腹にグサリと突き刺さった。 僕は、脇腹にく死ぬほどの痛みに一瞬怯むも、耐えた。血が地面にボタボタと垂れる。その血を見て動揺する俊介の隙をつき、パーマ頭をグッと掴むと、赤い地面に向かって顔面から思いっきり叩き落とした。 仰向けに寝返って痛がる俊介の顔面を、僕は力一杯に踏み潰す! 何度も、何度も何度も……。痛がる俊介の表情は徐々になくなっていく。血が顔まで飛び散るゴアな絵図ら、バキッ、べキッと鈍い音が続く。顔の骨はすでにグチャグチャに砕けて陥没していた。もう人の顔としては成り立ってはいない。 俊介はもう動かなくなってからすでに一分は経過している。それでも僕の怒りは収まらない。 近くにいた不気味な老人は、恐怖のあまり既にこの場から逃げていた。  俊介を殺した後、血だらけのまま、僕は祐美の元へゆっくり歩いた。 祐美は、血だらけの僕の姿を見て完全に怯えている。祐美の震えは止まるどころか激しさを増し、目と耳を塞いで、小さくなって泣いていた。  僕は、金槌をギュッと握りしめた。ブルブルと震える祐美の側まで行くと、なぜだか急に握りしめた手が勝手に緩んでいき、遂には金槌を地面に落としてしまった。その後、僕はその場で倒れた……。 もう立てないくらいに完全に力を失っている。やはり、先程腹を刺されたせいか。意識がぼんやりと遠退いていき、次第に目が霞んでいく。 そんな中、外がうっすら赤く見えた。物置小屋の外の暗い静寂な世界はチカチカと赤く染められ、パトカーのサイレン音が鳴り響いている。  物置小屋の前には、すでにパトカーが五台ほど到着しており、中へ次々と拳銃を持った警察官たちが突入してくる。  僕は、もう全てを殺り終えた。あと一人を残して……。  警察官たちは、一定の距離をとり、拳銃を僕に向けて一斉に構えた。  すると、一人の警察官が叫んだ。 「おい君、何やっているんだ! そいつから離れて!」  気づくと、恐怖に耐えながらも、這いつくばりながらも僕の元へ近づいてくる祐美。「野沢君……死なないで……私が、助けるから……」 僕は、祐美に「こっちへ来るな」と手で制止させ、最後にこう合図を送った。 「あ・り・が・と・う」  僕は、最後の力を振り絞り、血が滴る指で拳銃を作って自分の顳顬に突きつけた。最後の最後で僕の中で芽生えた感情は……そうだな〜。 静寂の森に数発の銃声が響き渡った…………。                                                               (終)               著 江川知弘
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