第陸話 桜の樹の上にて

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第陸話 桜の樹の上にて

   くすくすっと笑い声がする。  見事な枝垂れ桜の大樹の、上から。  朽ちかけた鳥居に向かって、無様にひた走る男を眺めている。  男は、やっと鳥居に辿り着き、忽然と消える。 「ああ、やっと帰ったねぇ」  と、青年は言った。年の頃は二十歳前後。 「あの男、今年もまた来たな」  そう答えた男は、若くも見え、また歳嵩にも見え年齢は不明瞭。  ふたりは共に、白い和装の寝間でその身を包み、共布の白い帯を腰に巻いている。  年齢不詳の男の方は胡座をかいて座っており、年若い青年は俯せに寝そべり、頭をちょんと男の膝に載せている。  ふたりがいるのは、枝垂れ桜の中程の、花が一番密集している辺り。  花びらに埋もれるようにして。  幾ら大樹とはいえ、男二人の体重をその枝が抱えられる筈もなく、彼らを支えているのは、その男の気。  男は人間ではない。  大柄で屈強そうな体躯。青みがかった銀色の、少し癖のある長い髪。茶金色の吊り上がった瞳。唇は大きめで薄く、開くと犬歯がやけに目立つ。  そして、前髪で隠された額には、二本の乳白色の角。一本は途中で折られており、それを傍らの青年が、革の紐で首から下げている。 「あの鳥居は、現し世と隠り世の境」  男は、長い爪の先で、その鳥居を指し示した。 「普段はふたつの世は分かたれている。しかし、何かしらの条件で曖昧になる瞬間がある。余程、相性が良いのであろう──いや、彼奴(あやつ)が気に入っているのか……。あの男が、この桜の季節にやって来るのは、今年で三度。しかし、元の世界に戻れば全て忘れる。目覚めれば、覚えていない夢の如く……」  男は真下を見た。  そこには、もう誰も居ない。  愛おしげに、真珠色の(こうべ)を抱く青年は居らず、狂いかけたような笑い声もしない。 「も元は、美しい女であったが、長い時を経て、下等な妖に成り果てた。今はもう自分の顔貌(かおかたち)も性別さえも判らない。ただ、この桜の下にへの執着だけが残っている────」 「ふうん」  青年はつまらなそうで、打つ相槌もお座なり。  男は吊り気味の眼を細め、尖った爪の先で彼の腰から背骨に沿ってつと撫で上げた。 「ん……」  青年は、何処か艶を含んだ吐息を漏らした。 「それにしても……」  上目遣いに己れを見ている青年の頤に手を掛ける。    何処か少女めいた端麗な貌立ち。透き通るような白い肌。丸いアーモンド形の黒目勝ちの瞳。薄紅色の唇。ふんわりと項を隠す柔らかそうな髪。  寝間を帯で申し訳程度に結い、大きく裾を割って白い素足がしどけなく見えている。  男が愛おしげに滑らかな頬を撫でると、その瞳は熱を帯び、唇は何かを望むように薄く開く。  彼は全身から艶かしさを醸し出している。 「彼奴、お前の顔を上手く模してたな」  くっと可笑しそうに笑う。
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