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未知なる道をゆく
男は不意に、自慢の青い自転車をこいでいた足を止めた。
先ほどすれ違った白い自転車の、カランカランという耳障りな金属音が、彼の足を止めさせたのだ。
年季の入った白い自転車は、いくつもの鉄くずを引きずりながら、景色の判然としないこの砂漠地をゆっくりと男の横を通り過ぎていった。
その様は、まるで海原を漂う難破船のようだなと、最初男は思った。
漕ぎ手がいるのにふらふらと、真っ直ぐ進んでいるはずなのにゆらゆらと、どことなく心許ない。
(あの白い色が、またいけないな。白は汚れを際立たせる。)
男は改めて自身の青い自転車を満足そうに見下ろし、数回頷いた。
(その点、青はいい。)
合致した趣向ゆえに、根拠もなく愛せるこの自転車を見ていた目線が、地面へと落ち、やがて白い自転車が通り過ぎて付けていった轍を見つけた。
何もない砂漠地に、延々と続く白い轍。
その轍の周りを、薄い爪痕のような跡が彩る。
それは、まるで人間が這いずり回ったあとのようだ。
見えない爪が白い地面を掻きむしるかのようでもあった。
(…誰かが、行くなと、止めているのだろうか。)
ふと、男の胸に去来したのは、白い自転車に乗って去っていった壮年の男への俄かばかりの関心。好奇心とは少し異なり、親近感にも似て、だがどこか憐みにも似ていた。
男は改めて振り返る。
白い自転車の壮年の男はゆっくりと、だが確実に前へ前へと進んでいた。
カランカランと乾いた音を鳴らしながら遠のいていく。
壮年の男の背中は遠目からでも薄汚れているのがわかる。白髪交じりの後ろ髪は乱れていた。
おそらく風呂にも入っておらず、身に着けていた衣服も洗濯はされていないのだろう。
「………」
自転車をこぐ背中は小さく丸まり、右に左に揺れている。
そんな姿を見ていると、なぜだが目の奥がじわりと痛んだ。
(…まるで父さんのようだ。)
男の父は、先の戦争で負傷兵として帰還した。
しかし身体のどこにも負傷箇所はなく、近所の者はなまけて帰ったのだろうと口々に噂した。
父は心を負傷していた。それは人の目には見えるものではなかった。
戦地でなにがあったのかは、結局家族にも一切知らされることはなかった。
日々が過ぎようとも父は語らず、ただ背を丸くして、昼夜、涙を流すこともなくぼんやりと一点のみを見つめていた。
(………)
男は、せめて父を元気づけようと、進学を諦め、街の鉄工場で働き、得た賃金で自転車を買った。
それはまるで空のように真っ青で、ピカピカに光る自転車だった。
(………)
だが父が、この青い自転車に跨ることは一度もなかった。
父は布団の上から起き上がることもなく、ただゆっくりと、枯れ木のように骨と皮に成り果てていった。
(せめて、父さんもあのようにどこかを目指し、駆けていってくれたならば、)
男は、通り過ぎてゆく壮年の男を乗せた白い自転車の行く先を見ることを止めた。
そして視線を前に戻すと、ピカピカの青い自転車に跨ったまま、砂漠地に延々と続く白い轍と、それを取り巻く薄い爪痕をぼんやりと眺めた。
* * *
男は名をブラオといった。
海に面した田舎町の鉄工場で働いていたが、先日、父の死をきっかけに工場を辞めた。
何も持たなくなったブラオは、とりあえず、唯一の財産である青い自転車に乗り、世界を目指すことにした。
「ふふ、我ながら馬鹿げているな。」
十も承知のそんなことを、人に話せば笑われる。
そこでブラオは黙って故郷を捨て、この世で一番栄える街に行こうと決めた。
そこが世界だとは思っていない。そもそもブラオは未だ世界を知らない。
だが未知への好奇心だけは人よりは多分に胸にあった。
(それにしても、あの白い自転車の彼は、どこから来たのだろうか。)
その道中、ブラオはボロボロの白い自転車に乗る薄汚い壮年の男とすれ違った。
壮年の男の通ってきた跡は、ブラオが目指す大きな街へと通じている。
だがその轍はいくつもの薄い線に掻き消されていた。
白い自転車の轍の周りにできたいくつもの跡は、単に鉄くずが地面に擦れてできた痕跡であったが、ブラオの目には、地面に爪を立てて行く手を阻んでいるかのように映ったのだ。
(そっちじゃない、てことなのか?)
白い轍に思いを馳せて、青い自転車に跨ったまましばらく耽っていたブラオだったが、ふとその轍の先に、何か人影のようなものが蠢いた気がして顔を上げた。
顔を上げてみたが、前方で舞い上がる砂埃に目隠しされて判然としない。
(…なんだ、何をしている、)
砂埃が一陣の風に流れると、蠢く何かが明らかに人影であると認識できた。再び風が吹けば、やがてそれはやはり人間だったとはっきりわかった。人数は三人か。
目視できた三名の人間は、馬らしき動物の手綱を引いて、歩いて白い轍を辿りながら真っ直ぐとこちらへやってくる。
「あれは、」
三名の人間はどれも体躯の良い男であるようだ。身形もきちんとしており、近づいてくるその人相からして、彼らが役人であることは間違いなさそうだった。
「おい、」
馬を引いたまま歩いてやってきた役人の一人、一番背が高く胸板の厚い男がブラオに声をかけてきた。
「今しがた、ここを白い自転車に乗った男が通ったか。」
役人らしい横柄な態度で見下ろされて問われたブラオは、瞬時に曖昧に笑って小首を傾げた。
「さあ、白い自転車なんて、今時珍しくもないものを、いちいち覚えていませんよ。僕のこの青い自転車くらい見栄えがすれば、おそらく覚えていたでしょうけどね。」
「は、くだらん」
胸板の厚い役人の傍にいた細身で短髪の役人が、ブラオの言葉を鼻で笑う。
ブラオは密かにカチンときた。
「よし、ならば質問を変えよう。今しがたここですれ違ったのは確かに一人であろう? そいつの自転車は何色だったのだ。」
「さあ。僕は脇目も振らずに前だけを見て自転車を走らせていましたから。わかりませんね。」
結局ブラオは頑なに知らない素振りを崩さなかった。
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