その道の先へ

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その道の先へ

「母さん! 大丈夫! 帰ってくるから!」  女の息子はそう言って、荷物でも積み込まれるように、簡素な幌馬車に乗り込んでいった。  窓とは呼べない幌の隙間から、息子と同じ年くらいの子供たちの顔が見えた。  その顔の一つ一つ、全て見渡したが、彼らから表情は何一つくみ取れなかった。  そして幌馬車は彼らを乗せてゆっくりと走り出した。 「………」  これが戦争か。    女は欠けるほど歯を食いしばり、睨みつけるように幌馬車が見えなくなるまで見送った。 「生きて帰ってくるんだよ!」  女の隣で、誰かが叫んだ。  それはとても悲痛な声だった。  その声を皮切りに、いくついくつも、無事を祈る悲鳴のような声が馬車に向けて飛び交った。 「………」  だが女はひとつも声をかけてやることができなかった。  それを、今でも心の底から悔いている。      *   *   *  ガシャン、と、金属の弾けるような音が街に響き渡り、ゾンネは慌てて店を飛び出した。  もう何年も走っていない足は、どんなに必死に動かしても前には進んでいかない。  もどかしいながらも懸命に腕を動かして駆け抜けた。  息が荒くて気管が痛い。心臓もはち切れそうだった。 (こんなことなら自転車で来たらよかったっ)  後悔したところで、自転車を取りに戻る気力はない。  今はとにかく前に進みたかった。 「はあはあはあはあ」    もはや自分の息遣いしか聞こえてこない。  顔も首筋も胸のあたりも汗にまみれてどろどろに濡れていた。 「あ、」  やがて人だかりのような蠢きを眼前に捉えて、ゾンネは最後の力を振り絞るように足を前へ前へと押し出した。 「なにやってるんだい!」  と大声で言ったつもりだったが、 「な…て…いっ」  誰にも通じないささやかな声が口から細々と洩れただけだった。  それでも、 「なんだお前は! この女の知り合いか!」  人相の悪く体躯のよい男がゾンネに気が付き振り返った。男は何かを足蹴にしていた。 「!」  その男の足元にうずくまっていたのは、水色のドレスを着た若い女。 「ローザ!」  その若い女はローザだった。 「な! な!」  何やってんだ!その足を離しな!  と告げたいが、何一つ言葉にならずに、ゼイゼイと息を吐くだけのゾンネをあざ笑うように、体躯のよい男は鼻で笑った。 「この女は我らの任務を邪魔したのだ。よって公務執行妨害で一度我々で身柄を預かる。」  体躯のよい男の陰から、身形のきちんとした黒髪の男が姿を現した。そのさらに後ろには、背の高い痩せた男が蛇のような目つきでこちらを睨みつけている。 「はっ、大の男が三人もいて、女一人の妨害される業務の何が公務だ。バカらしい」  ようやく息の整ってきたところでゾンネは、思わず心の内をそのまま口にしてしまい、「しまった」と後悔したが、後の祭りだった。 (…まあいいか)  いっそのこと開き直って、ゾンネは胸を張った。背筋を伸ばし、鼻息を荒く吐き捨てる。 「この子はいったい何の業務を妨害したってんだ。事と次第によっちゃ、出るとこ出るよ!」    何の根拠もない自信をのぞかせて、ゾンネは声を荒げた。  もともとよく通る声のゾンネの怒号に、町のあちらこちらから町民が顔を出し始める。 「見世物じゃねぇぞ! 我らは軍より派遣された治安部隊だ! 罪人を追ってここまで来たんだ! 任務を邪魔する奴は公務執行妨害でしょっ引くぞ! 散れ! 散れ!」  喧騒を黙らせようと怒鳴る体躯のよい憲兵に、町民たちは一様に顔をしかめた。町民たちは訝しそうに眉をひそめつつも、じりじりと距離を置いて見物を始めた。 「…なんなんだ、この町は、」  町民の異様な雰囲気に、細身の憲兵が唾棄せんばかりに呟く。  ゾンネはそんな憲兵に、静かな声で告げた。 「アタシたちは戦争で家も家族も失って、まともな仕事なんかできちゃいない。なんの罪人を追ってんのか知らないけどね、ここにいるアタシらだって大概には罪人の集まりさ」 「………」 「出ていくのはあんたらだよ。この町にたどり着くのは皆大体はみ出し者だ。過去に何をしたとしても、アタシらは皆、組織からはみ出たろくでなしだよ。罪人をとっ捕まえるにゃ、アンタら人数が足りないね。出直しな!」  ゾンネの声はよく通る。  その声は町の隅々まで行きわたり、人々の悲哀と共に静かに消えていった。      *   *   *  三人の憲兵たちは、町民に追い出されるように宿場町をあとにした。  ゾンネは、気を失っていたローザを背負って娼館に送り届けた。すると娼館の奥から、痩せた小さな女が現れた。  小さな女は心底心配そうな面持ちで、背伸びをしながら、ゾンネの背におわれたローザを何度も伺っている。 「心配ないよ、リーリエ。気を失ってるだけだから。ただ、目が覚めたら女将にこっ酷く叱られるだろうけどね」    ゾンネはそんなリーリエを見下ろしてカラカラと笑った。  リーリエは色素の薄い頬を少し赤らめ安堵したように微笑んだ。 「ローザはあんたのためにパンを買ってたから、ピンクの自転車と一緒に後で持ってくるよ」  リーリエにそう告げると、背のローザを下ろし、ゾンネは娼館を出て行った。      *   *   *  ローザのピンク色の自転車の傍まで戻ると、そこには一人の薄汚い男が立っていた。 「………」  ゾンネは別段男に何も言葉をかけなかった。  何も言わず、ローザのピンクの自転車を起こし、押しながらその場を離れかけたとき、 「あの、」  ゾンネはその男に声をかけられた。 「………」  しかしゾンネは振り向かなかった。 「あ、あの、ありがとうございました。」  男の声は遠慮がちに小さく、地面を這うように薄れて消えた。 「なに、かまわないよ」  ゾンネの声も小さかった。それでもゾンネは語を連ねた。 「ただ、」  静寂の中で、小さくともゾンネの声はよく響く。 「どこに行ってもいいけどさ、…また生きて、帰っておいで」  ゾンネは結局一度も男に振り向くことはなかった。  ゾンネは男がどこへ行こうとしているのかは知らない。  だが、男は、小さく「はい」とだけ応えた。  そして白い自転車に乗ってゆらゆらと、男はこの小さな宿場町を去って行った。  白いような灰色のような景色のない砂漠地には、今もいくつもの自転車の轍があちらこちらを目指して真っ直ぐに伸びていっていた。                  了                        
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