流星、落下

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──男の薄い唇が美しい音を象る。その音は万人を慈しむために届けられ、人々は口々にその音の羅列を賞賛した。言葉の体裁を成さずとも『それ』は確かに神の声として崇められた。 しかしそれは時を経て畏怖の念を向けられるようになり、いつしか男は独りになった。独りになった男はそれでも音を紡ぐことをやめられなかった。ころ、ころ。今日も悲しい音の欠片が辺りに散らばる。 「綺麗な声だね」 いつものように人気の無い水辺のほとりに座っていた男が振り返ると、そこには小柄な少女が佇んでいた。 孤独な夜に現れた客人は濡れ羽色の長い髪を風に靡かせて、薄い紅を引いたような血色のいい唇で笑みの形を行儀良くなぞり、満月を背にして微笑んでいた。 「──」 男は言葉を知らぬ幼子のように首を傾げた。耳にする言葉は識っている、だが、人に向けて口にするべき言葉は知らない──自分の心は言葉にするには至らず、誰かに贈る歌にするには遠く届かない。だから男は毎夜、誰も来ないこの場所で音の欠片を落とし続けた。 「一人なの?」 少女の心地良い声が鼓膜を擽る。男は頷いた。 「そっか……」 少女は月を見上げて独り言つ。 「ねえ──……満月の夜は願いが叶うんだって、私の友達が言ってた。今日はとても綺麗な月じゃない?部屋の中からお願いするのも勿体無いし、せっかくなら外に出てみようと思って散歩してたんだ。そうしたらあなたを見掛けて声をかけてみたの」 なぜ。どうして。 男が不思議そうに首を傾げると、少女は微笑った。 「聞こえてたよ。毎晩、小さな声が。 ──見つけて、見つけて、お願いだからって」 「──……!!」 「最初はこの綺麗な声がどこから聞こえてくるんだろうって思ってた、いつか止んでしまうんだろうなとも思ってた。これだけ綺麗な声を誰かが気付かないはずがないって。──……でも、綺麗で悲しそうな声は毎日途絶えることなく聞こえてた。 ……やっと会えて、嬉しいよ」 男が驚きに息を呑んでいると少女は長い睫毛をゆっくりと上下させて、小ぶりな花が咲くように柔らかく笑った。それは幾年ぶりかに見た、誰かの笑顔だった。 「──、」 ころ、ころ。唇のあわせから音の欠片が幾つも零れ落ちる。少女は大きな瞳を瞬かせていたが、微笑みを携えたままに頭上の真円を仰ぎ、華奢な手を組んで敬虔に祈りを捧げる。一分にも至らぬ時間を挟み、彼女は早々に顔を上げた。 ──この少女はいったい、何を願ったのだろうか? 「私は帰るけど、あなたはどうする?」 問い掛けに対して、男は首を左右に振った。短い黒髪がそれに合わせて小さく揺れる。 「そっか、じゃあまたね」 ──また。そう告げて、少女は夜の闇へと溶けるように消えていった。男は瞬きを繰り返していたがこみ上げる擽ったさに逆らわず、微かな笑みを浮かべる。 次に会えた時には彼女の笑顔がもっと見たい。 それは明確に形を成した、男の『こころ』だった。 満月の夜の邂逅は、始まったばかり。
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