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「いなくなった、って……どういうことですか」
声が掠れて上手く話せなかった。スマートフォンを持つ手も震えている。
立っているのもしんどいくらい、嫌な鼓動が激しくなってリビングの床にしゃがみ込んだ。
「帰宅したら妻が大騒ぎしていて。こんな時間になるのに塾から帰って来ない、と。携帯にも出ないし、塾に電話したら、今日は大雨で電車が止まる恐れがあるから夕方には塾を閉めて全員返したと言われました」
「そんな……。だったら、蓮くんはどこに」
この場で言っても仕方のない言葉ばかりが出てきてもどかしくなる。
「とりあえず、ご自宅に行きます」
返事を待たずに電話を切り、パーカーを羽織って家を飛び出した。
駐車場まで下り、車に乗り込むだけでびしょ濡れになった。部活で急な雨に降られた時に着ているレインコートを持ってくればよかったと後悔するが、後戻りする気持ちの余裕はない。コンビニに行くときのような服装だが、なりふり構っていなかった。
坂田の自宅までは電車だと数駅だが、車だと三十分以上かかった。それくらい、大通りから外れた閑静な住宅街の、それも入り組んだ場所にある。
他の住宅とは一線を画する広々とした敷地に重厚な門扉を構え、玄関は大雨の中でも静かにライトアップされていた。
安西の車が停まるのを中から見ていたのか、すぐさま玄関のドアが開いて結城氏が現れる。安西も急いで車を降りた。
「先生、こんな大雨の中をわざわざすみません」
車から降りた安西にさり気なく傘を差してくれる。その表情はひどく疲れていた。
「状況が分からなかったので、直接伺ったほうがいいかと。それより坂田さん、ご体調が悪いんですか? 顔色が良くないです」
「仕事が忙しくて、滅多に休みがないもので。でも、大丈夫です。蓮を探しに行きます」
気丈にそう言うが、声も掠れていて疲れが滲んで見える。
「ご自宅に連絡があるかもしれません。僕が探しに行くので、坂田さんは家にいてください」
「先生――」
傘を結城氏に返して、安西は車に乗り、学校に向かって走り出した。
塾にいないとなると、彼の行動圏は学校の周囲に絞られる。学校の駐車場に車を停めると、坂田の下校ルートを歩くことにした。
雨はどんどん激しさを増し、傘を差していることも意味がないくらいに全身ずぶ濡れになった。
少し行くと見えてくるバス停に、人影は無い。古い停留所を通り過ぎ、駅に向かって歩く。
駅に着く少し手前で住宅街に差し掛かる。こんな天候では外に人もいないと諦めかけたとき、新しい小さな家の前に立つ少女と母親らしき女性を見つけた。
通り過ぎようとする安西の耳に、二人の会話が漏れ聞こえた。
「ねえナオちゃん、もう諦めてうちに入ろう。濡れて風邪をひくわ」
「でもね、お兄ちゃんと約束したの。ミーコを連れて帰るって」
――お兄ちゃん……。
「すみません。それって、綾野高校の男子生徒じゃないですか?」
女性は驚いた顔をしたが、すぐに首を振った。
「私は仕事に行っていて見てないんです。帰ってきたら、この子が高校生くらいのお兄さんと約束をしたって」
すぐにその場にしゃがみ込んで少女と目線を合わせる。受け答えと背格好から、小学校三年生くらいだろうか。
「どんなお兄さんだった? 知ってる人?」
少女は首を振る。
「知らないひと。せが高くてかっこよかった」
「そのお兄さん、どこに行ったの?」
「ミーコを探しに行ってる」
「ミーコって?」
少女が言う「知らないお兄さん」の印象は坂田に近い気がする。
その人が坂田だとして、彼はいったい何を約束したのだろう。焦る気持ちを押し隠して話を聞こうとすると、母親が付け足した。
「ミーコはこの辺りで拾った子猫です。野良猫だったので、油断して玄関を開けた拍子に飛び出してしまったんです。ちょうど私が仕事でいない時のことで……」
「そしたらね、たまたま通りかかったお兄さんが探してくれることになったの」
「そうだったんだ。教えてくれてありがとう。僕はね、お兄さんの学校の先生なんだ。お兄さんが家に帰るのが遅いから探しに来たんだよ」
少女はきょとんとしているが、母親はひどく驚いた様子で、
「その方、行方不明になってるんですか」
「とてもしっかりしてる生徒なので、どこかで雨宿りしてると信じたいですが。僕が探しに行くので、お二人は家に入っていてください」
女性は躊躇ったが、大雨のなか子どもを連れて外に居させるわけにはいかない。ミーコを見つけたら家に届ける約束をして、安西は再び雨の道に飛び出した。
――坂田に間違いない。
そう確信した。
ずっと前に話したことがある。猫が好きで、動物が好きで、獣医になりたかったこと。けれど今は守りたい人がいるから人間の医者になりたいのだと話してくれた、真剣な顔が忘れられない。
あの時はそれほど強く思われている人を羨ましく思っていた。
――羨ましい? どうして?
傘はもう持っている意味もないくらい全身びしょ濡れで、スニーカーも中に水が染み込んで濡れたスポンジを踏んでいるように不快だった。
――どうしてこんなに必死になって探してるんだろう。坂田が生徒だから? 僕が担任だから?
側溝から溢れ出る濁流の先に、大きな猫が歩いているのを見つけた。いつの間にか、住宅街を抜けて人けのない公園の前に来ていた。ドーム型の滑り台が雨よけになっていて、そこに猫が集まっている。
――もしかしたら、あそこに……。
僅かな望みをかけて公園に向かって走り出す。すると、行く手を阻むように工事中の看板と厳重なガードが視界に飛び込んできた。
公園のすぐ横で、ガードの向こうは崖になっている。
長く続く雨のせいで崩れたのか、工事中で脆くなったところに雨水が侵入したのかは分からない。そこはまるで異世界へのトンネルのように暗闇に包まれて、轟々と不気味な音を立てていた。
人間ならこんな恐ろしいところに侵入することはないだろう。けれど、猫だったら――
途端に果てしない絶望感が安西を襲った。
――まさか、猫を追いかけて……。
暗闇が、ぽっかり口を開けて待ち構えているように見えた。
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