プロローグ

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 三年生のすべての教室の施錠を確認し、職員室に戻った安西を待ち構えていたのは、三人の男女の生徒だった。  三人ともほんの少し制服を着崩しているが、不真面目なわけではない。三人とも、安西が担任している理数コースに籍を置く、校内でも優秀な部類に入る生徒たちだった。  そのうち二人の女子生徒が、職員室の引き戸を開けて入ってくる安西を見つけて駆け寄った。一人は人形のように整った顔をした美人で、もう一人は親しみやすい顔立ちをしている。  親しみやすい顔の生徒が先に声をかける。 「アンちゃん、探してたんだよ」 「ごめん、教室の見回りに行ってた」  女子生徒に続いて、後ろで待っていた男子生徒が話に参加する。 「なあアンちゃん、いま、尾崎や日下部とも話してたんだけど」  その切り出しに、安西は静止した。男子生徒の言葉の続きを、少し緊張した面持ちで待った。彼は何か言いたいのを我慢しているような顔だった。 「卒業式の呼名で、あいつの名前呼んでくれないかな」 「俺が呼ぶの?」  他にだれが呼ぶのだと突っ込まれそうなほど間の抜けた質問をして、その答えが返ってこないうちにもう一度口を開いた。 「それは難しいよ。この学校に籍のない生徒の名前を呼ぶなんて」 「でも、あいつは俺たちの仲間なんだ。一緒に卒業するはずだったんだ。頼むよアンちゃん」 「アンちゃん」  男子生徒と親しみやすい顔の女子生徒が交互に承諾を求めるなか、安西は沈黙した。  卒業式でこの学校にいない生徒の名前を呼ぶなんて、周囲を混乱させてしまう。答えは決まっていたが、強く言えずに言葉を飲み込んでいた。  すると今度は、それまで黙っていた綺麗な顔の女子生徒が口を開く。 「私たち、このまま二度と彼に会えないような気がしているの。ううん、それどころか、こんな気持で卒業したら全員の心がバラバラになっちゃうかもって、不安なの。お願い先生、離れ離れになっても心は一つなんだよって証明して」  それでも安西に言葉はなかった。  男子生徒がその場の空気を気遣うように口を開く。 「まあでも、無理は言えねぇよな。アンちゃんだって、担任として卒業式を無事に終わらせる責任があると思うし」  最初の問い掛けは女子二人に対してた。その後の台詞は、安西に投げかけられたものだった。  気遣ってくれるのは嬉しい。けれど、安西にはその場で口を開くことはどうしてもできなかった。  結局、三人の生徒たちは「卒業式の予行で返事を聞かせて」と言い残して下校していった。  その後姿は、進学先の大学が決まり、輝かしい未来を前に卒業式を残すのみとなった晴れやかさが宿っている。 ――あの背中が見たかった。  安西の心を支配しているのは、後悔に近い感情だった。悔やんでも悔やみきれない思いが心の底にあった。  生徒たちと別れた後、すぐに自身の机に向かうことはできなかった。一人になって考えたいことがあったけれど、職員室に心落ち着ける空間などない。  人けのない廊下を歩き、気付くと化学実験室に来ていた。 ――結局、居場所はここなんだな。  今の高校に赴任して以来、一人になりたいときは決まってここに来ていた。とはいえ、担任をしているからには一人になりたくてもなれる時間などほとんどと言っていいほどない。ここへ来るときは決まって、だれかを待っているときだった。  常に携帯している実験室の鍵で扉を開けると、中からひんやりした空気が出迎えた。三学期に入ってからは授業ではほとんど使われていない。掃除だけはしているのだが、淋しさと同時に埃っぽさも混じっていた。  教卓に歩み寄ると、そこにあった生徒用の椅子に腰を降ろした。その椅子の高さでは教卓が胸よりも高い位置にくるが、もたれ掛かるにはちょうどよい高さだった。  授業でここに来る自分は、いつもワイシャツに白衣を羽織っている。今日は厚手のパーカーを着ているせいか、とてもゆったりした気分だった。何年経っても、授業で実験室に来るときはそれなりに緊張感を伴う。緊張が緩和され、同時にもうここでの授業はないのだという感慨深い思いが安西の胸を締め付けていた。  ふと、廊下に人の気配を感じて顔を上げた。ここは実習棟の三階で、三学期に入って実習が減ってからは特に人の往来も少ない。見回りの時間でもない。 ――書道の先生が隣の書道教室に来たのかな。  そう思いかけたとき、気配が実験室の前でぴたりと止まった。心臓がどきりと鳴る。  気配の主が扉を開けようとしたが、安西が内側から鍵を閉めていたため、がたんと低い金属音が響いた。 「すみません、いま開けます」  思えば気配の主は安西を呼んだわけでも、ノックをしたわけでもない。実験室に用事があったのなら職員室から鍵を持ってくるだろうし、たまたま開いていたと思っていたのならば居留守を使えば諦めて他所へ行くはずだ。  それでも安西は気配の主が気になってその扉を開けた。
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