プロローグ

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「よう」  気配の主は、同期で同い年の長身の男だった。 「真木(まき)――」  長身の男は、色素の薄い髪と同じトーンの色素の薄い瞳で安西を見下ろしながら「やっぱここにいた」とにっこり微笑んだ。 「何か用?」  つっけんどんな言い方になってしまうのは今に始まったことではない。同期真木晴臣(まきはるおみ)も、それには慣れた態度で返した。 「今晩、飲みに行かねぇ?」 「今夜は学年の飲み会なんだ」 「あ――そっか」  それほど残念そうな顔もしていなかった。  今日は金曜日。その気になれば明日でもいける。しかし真木は 「三年生は最終登校日だもんな。じゃあ学年会の後でいいや、お前んち行っていい?」  と、さっきよりも少し強引な口調で言った。 「今日は気分が乗らないから、また今度な」  本当は学年会も欠席したい気分だった。  真木は、今度は少し残念そうな顔で「そっか」とだけ返し、実験室を後にした。  真木が出ていくとなんだか急に淋しさが襲ってくるような気がした。人の気配が遠ざかっていくことが、これほどまでに淋しいとは思わなかった。  しばらく手元を見つめていたが、すぐに思い立って腰を上げる。静かすぎる実験室は、賑やかすぎる思い出を呼び起こしてしまう危険性があったからだ。  今はまだ、思い出に浸るときではない。  実験室の扉に鍵を掛けると、薄暗い廊下を明るい方に向かって歩いていった。徐々に人の気配が濃くなっていく。  職員室に入ると、ちょうど三年生の学年団のエリアで会話が盛り上がっているところだった。 「あ、安西先生」  学年付で講師の神埼(かんざき)が、安西の姿を捕えるなり談笑を打ち切ってA4のコピー用紙を差し出した。 「これ、今夜の学年会の詳細です」  神崎は安西と同い年で講師経験も浅いが、飲み会の幹事は本業よりも得意だ。 「へぇ、結構いいとこ予約したんだ」  居酒屋を全部屋個室にし、少し格調高い雰囲気を持つ料理屋だった。 「最後の学年会で生徒とその家族にバッタリ遭遇なんてことになったらシャレになりませんから」  神崎の発言に、そこにいた学年主任と担任も笑った。  安西はコピー用紙に印刷された文字を見つめていた。 ――最後の学年会……。 「本当にこれで最後なんですね、学年会」 「まだ解散旅行があるけどね」  椅子の肘置きを擦りながら、学年主任が穏やかに笑った。 「解散旅行かあ」  スカートの中身が見えるのではないかと、ひやりとするような角度で足を組み替え、神崎が空中を仰ぐ。 「私、沖縄に行きたいです」 「沖縄?」  驚きの安西の声に、学年主任の声が重なった。 「なんでまた沖縄に?」 「だって、修学旅行が人生初の沖縄だったんですよ。リベンジしたいじゃないですか。あそこは仕事で行くようなところじゃないですよ」 ――沖縄かぁ。  安西の中で、またも何かが溢れだしそうな感覚が甦った。温もりと安堵と、そして焦がれるような熱い思いが胸の中に湧き起こる。 「先生はどこに行きたい?」  覗き込まれて我に返った。 「あ、えっと……淡路島、とか」 「いいねぇ。卒業式後だとちょうど桜が見られるかもしれないよ」 「淡路島は桜の開花早いですもんねー」  提案者の安西をよそに、主任と神崎は盛り上がっている。  安西は微笑みを浮かべたまま自身のデスクに着いた。  週明けには受験指導が始まる。それまでに個別指導用の教材を準備しなくてはならない。  パソコンを開いて個別指導の時間割表を作っていく。授業が入っている時間や出張でいない日を洗い出し、自身の予定と照らし合わせながら受験指導のタイムテーブルを作成する。  ファイルができたところで学年主任がパソコンを覗き込んだ。 「丁寧だね。個別指導の時間割?」  おっとりとした雰囲気に、肩の力が抜ける。 「はい。理科は対象者が多くて。非常勤の先生も応援に入ってくれるみたいなんですけど、授業がない先生はそのために来てもらうのも悪いですし」 「でも、それだと安西先生が大変じゃない?」 「いえ、あとちょっとですから」  あとちょっと。  何気ないその言葉が妙に重く響く。長く険しい道のりだと思っていた三年間も、過ぎて見ればこんなにもあっという間なのかと思う。  個別指導該当者に宛てた案内を担任のデスクに置き、問題用紙をプリントアウトしたところで勤務時間が終了した。  一、二年生の部活を見に行こうかと思ったが、安西が顧問をしている陸上部は校外を走りに出ていることを思い出す。 ――邪魔しちゃ悪いかな……。  今から着替えても間に合わないかもしれない……などと考えていると、神崎がダウンジャケットを右腕に掛け、左手に鞄を持って立ち上がるのが見えた。 「さてと――お先に行きます。六時の予約なんで、みなさんはゆっくり来てください」  幹事として何かやることがあるのだろう。ぺこりとお辞儀して、神崎は職員室を出た。 「僕もそろそろ出ようかな」  ぽつりと呟くと、意外にも近くにいた主任と若手の担任が同調した。  結局、学年団全員が勤務を終了し、そのまま神崎が予約したいつもよりワンランク上の居酒屋に向かうことにした。車は安西が出すと言ったが、酒は飲まないからと言い切る主任の車に安西を含めて四人が乗る形になった。  珍しく、年末年始に飲み会で多忙ということがなかった。三年生の中でも安西が担任を務める理数コース、そして同じ若手の岸が担任を務める国公立文系を目指す2組はまだ受験を控えた生徒も多く、学年での飲み会ができなかった。  久々の和気藹々とした雰囲気に、幾分気持ちも和らいでいた。  居酒屋に着くと、すでに店の空気は温まっていて、オレンジ色の光が品の良い格子戸から漏れ出ていた。 暖簾を潜るとすぐ向こうに神崎がいた。一度帰宅したのか、服装が先ほどと違ってラフになっている。濃い色のスキニーパンツを穿いた彼女は、前に修学旅行が何かで見たことのあるプライベートな顔を含んでいた。 「皆さんお揃いですか」  肩より少し短いショートヘアの裾をくるんとカールさせた容姿は、率直に可愛いと思う。それは安西に限らず誰もが胸中に抱いているのではないかと思うほど、普段見ることのない同僚のラフな姿というのは目を奪われるものだ。 「普通、飲み放題のメニューにお酒は含まれてないんですけど、」  神崎は店の店員のようにメニューが周りに見えるように説明した。 「今日は特別に、アルコールも飲み放題に入れてもらってます」 「ほんと!? やったぁ!」  いかにも酒が好きそうな若者たちは飛び上がって喜ぶ。安西も酒は好きな方だ。  さっそく座敷に座ると、それぞれにメニューを凝視して飲み物を選んだ。たいてい一杯目はみんなビールで、安西もそれに倣う。 「乾杯!!」  ビールが注がれ、照明を浴びてキラキラ光るグラスがカチンと音を立てた。 「やっぱ無事に最終登校日を迎えた後のビールは美味いな!」  それを言うのはやはり担任だ。 「まだ国公立と後期日程がありますけど、取り敢えず前期はこれで心配なくなったわけですよね」 「ああ、3組の福井は危なかった」  学年主任と神崎は、クラスを跨いで生徒の名前を挙げる。安西も、他のクラスの生徒を思い浮かべようとしたが、これと言って印象深い生徒の顔が出てこない。  三年間ずっと同じクラスを担任したせいか、三年生になって化学の授業が自身のクラスと選択クラス一つだけになったせいか。選択クラスの方も、三年生で化学を選択するのは優秀な生徒ばかりだ。学力や出席人数に問題のない優秀な生徒ばかりのクラスで、これと言って手を焼いた記憶はなかった。 「安西先生はいいですよね」  就職・専門学校を目指す4組担任の平瀬が、隣でビールを飲みながら肩を叩く。 「1組は優秀な子ばっかりで、それはそれはやりやすかったでしょう」  文字列にすると嫌味だが、現三年生でそれは褒め言葉だ。 「そうですね。おかげさまで」 「いや、安西先生は大変だったと思うよ」  主任が掌を縦に振って話を割る。 「初任で、しかもスーパーサイエンスに認定された最初の年に理数科担任でしょ。しかも理科主任もして――いや、担任もしてない僕からすると頭が下がるねぇ」 「そんな褒められるようなことしてないですから」  慌てて否定する。褒められるのは嫌いではないが、学年で安西は年少組だ。本当に褒められるようなことができていたのかと、振り返ると気恥ずかしくなるのだ。 「あ、もしかして優等生ばかりで物足りなかった?」 「そんなワケないだろ」  岸の節操のないからかい文句に、思わず普段の若者同士の接し方が出てしまう。 「とか言って、週末の小テストの平均がいつもトップなの自慢してたくせに」 「自慢じゃなくて、ホッとしてたんですよ」 「理系科目以外でも一番とっちゃうなんて、さすが安西クラス」 「進学率もきっと一番だなー」 「そんなプレッシャーかけないでください」  それは本心ではあったものの、幾ばくかの自信があったのも確かだ。彼らならきっと、寸暇を惜しまず努力をして、希望の進路を叶えるだろう。結果、それが進学率を上げる要因になっている。  優秀な生徒が多いだけにレベルも高く、時にはついていけずに学校をやめる生徒もいるくらいだ。 「理数科は数年に一人は原級留置生が出るけど、安西先生のクラスからは一人も出てないなんてさすがだな」 「原級留置なんて論外! 安西先生はもっと上を狙ってるんだから!」 「上を狙ってるのは生徒と保護者ですよ。僕はたまたまそのクラスに担任として入れてもらっただけで……」 「またまたぁ。デキる人はちゃんと謙遜もするんだから」  べた褒めという名の公開処刑は終わりそうにない。だいぶ酔いが回っているせいもあるのだろう。否定するのはやめて、酔いに身を任せることにした。  最終登校日を終えたとはいえ、国公立の入試や後期日程を控えている。この日はまだ夜も更けない時間帯におひらきになった。  学年主任の車に同乗した四人だったが、主任の自宅は学校にほど近い。再び学校まで送ってもらい、そこで解散しようということになった。  学校に着くと、教員住宅に住む二人が歩いて帰ると行って群れを離れて行った。しかしながら、向かう先は教員住宅とは逆の方向だ。自宅までの連れがいるのをいいことに、二人だけの二次会が開催されるのだろう。  もう一人は新婚で、新妻が迎えに来てくれるのだという。残ったのは安西だけだった。  安西の自宅アパートも、学校から20分あれば着く距離だ。送っていくという申し出があったが、それを丁重に断った。  なぜその誘いを断ったのか、はっきりとした理由は自分でもよくわからない。もう少しだけ酔いに任せて、夜空の下にいたかったのかもしれない。  だれもいない夜の学校に引き寄せられるように、安西は一人校舎の外を歩いた
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