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それから、またたく間に一ヶ月が過ぎた。
安西にとって、理数科以外にもう一つ気にかけているのが部活だ。安西が顧問をしている陸上部は、三年生が引退を前に、大事な大会や記録会を控えていた。それに比べ二年生は落ち着いた日々を送り、部活や補習に追われる安西にとって手のかからない優秀な生徒とは授業以外で接する機会がめっきり減っていた。坂田も、じっくり関わることができないでいる生徒の一人だった。
「先生、今日の放課後は空いてますか」
「放課後は――ごめん、三年生の生物選択者向けの補習が入ってるんだ」
いつもは聞き分けのいい坂田も、がっくりと肩を落とした。
「ごめんね。前は授業の質問に来る時間に当ててたのに」
「三年生にとって大事な時期だから。俺は大丈夫です」
坂田なら塾に行っても質問ができるし、自身で調べて勉強する能力も高いから学習の面では大丈夫だろう。けれどそうではない部分が気にかかる。
「勉強よりも、その……大丈夫? 色々、無理してない?」
二年生になってから、母親の期待や干渉がますます強くなっている気がしていた。陸上部での活動についても、母親はあまりいい反応を示さない。
これまで坂田の教育に理解を示していた父親の結城が、勤務先の病院で新しく設立された救命センターのセンター長になり、多忙になったことも原因の一つだろう。
「親父が家に帰ってこなくなって、母さんがイライラしてることが増えたのがちょっとしんどいかな」
「そっか。お母さんが不安定なのに、お父さんも家にいないんじゃ心細いよね」
「別に。あいつが家にいないことなんて珍しくないから」
何かあったら相談して――そう言いかけたとき、今度は職員室前に鈴原が現れ、安西を呼ぶ。
「鈴原、どうかした? 体調でも悪い?」
緘黙症の鈴原には、「はい」か「いいえ」で答えられるよう問いかけてやらなければ会話ができない。それを思い出し、なんとなく元気がないのでそう問いかけた。
鈴原はこくんと頷く。体調が悪いようだ。
「ちょっと顔が赤い気がする。熱があるのかもしれないね。一緒に保健室行こっか」
すると横で二人のやり取りを見ていた坂田が「俺が一緒に行くよ」と、安西と鈴原の間に入る。
「先生、忙しそうだから」
「いいの? 助かるけど……」
坂田もこのあと英単語のテストなのに。そう言うと、「単語の勉強は完璧です」と非の打ち所のない返事をくれる。ここは優等生に甘えることにした。
その後、やはり熱があり早退することになった鈴原を迎えに来た保護者に引き渡し、英単語テストとショートホームルーム、掃除を終えて午後の授業に向かう。
ここのところ、本当にまったくと言っていいほど坂田の話を聞く時間がなかった。
坂田以外の理数科の生徒たちは何かあればすぐに安西を頼ってくる。しかし坂田は、提出物の回収や教室の掃除をして安西を助けようとするものの、何かを相談に来ることはなかった。
何もないならそれでいい。けれど、その静けさがかえって不穏な感じを与える。母親のストレスの捌け口になっているうえに父親の不在。それはまるで、嵐の前の静けさのような気がしてしまう。
「大雨来そうだね。台風の影響かなあ」
「来週の修学旅行も心配ですね」
そんな声を耳にしながら午後の授業の準備をする。職員室の窓から見上げた空はどんよりと曇っていて不気味な感じがした。
その日の夜、市内に大雨警報発令が予測されていたため、安西も早めに退勤し自宅にいた。
予想通り雨は激しさを増し、注意報は警報に切り替わった。ざあざあと雨水がベランダに降り注ぐのに加え、風も勢力を増している。外は暴風雨だった。
停電に備えていつもより早く入浴を済ませ、部屋着兼寝間着にしているTシャツとスウェットで寛いでいるときだった。
リビングのテーブルの上に置いていたスマートフォンから、着信を知らせる電子音が鳴り響く。
――こんな時間に、誰だろう。
画面には知らない番号。生徒だろうか。
わずかに嫌な予感を覚えながら電話に出ると、聞き覚えのある声が安西を呼んだ。
「夜分にすみません。安西先生ですか」
「そうですが――」
この声、誰だっけ。
考えていると、声の主が言った。
「綾野高校でお世話になっております、坂田蓮の父です」
「さ、坂田さん!?」
驚きで声が裏返る。坂田の父親が、こんな時間に何の用事があってかけてきたのだろう。
とりあえず挨拶をしようとしたが、焦りを含んだ声がそれをかき消した。
「先生、蓮が……いなくなったんです」
「え――」
頭が真っ白になる。
滝のように流れる雨水が暗闇と混ざり合って窓ガラスを漆黒に染めていた。
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