優等生

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優等生

 安西拓海(あんざいたくみ)は新採用の理科教師として、綾野高等学校に赴任した。県内でトップを争う進学校だ。  綾野高校は、その年に初めてスーパーサイエンスハイスクールの指定を受けた。文科省から指定を受けた高校は、優秀な理系の人材を育成するため、独自のカリキュラムに基づく授業や研究に取り組まなければならない。  その第一歩となる新一年生で、安西は理数科の担任になった。その通達を受けたのは、安西が初めて綾野高校に来た時だ。  まだ慣れないスーツに身を包み、腕には品よく光る腕時計。その初々しさを恥ずかしいと思ったのは、分掌を通告された瞬間だった。 「安西先生には、新一年生の理数科担任をお願いします」 「え――」  すぐに「はい」と言えなかった。ようやく返事をした直後に、新調したばかりのスーツや腕時計が気恥ずかしくなった。採用試験に受かって、浮かれている場合ではない。 「本校は、今年度初めてスーパーサイエンスハイスクールの指定を受け、それゆえ保護者からの期待も高まっております」  校長の話を聞きながら、校長室の革張りの椅子に体が沈み込む気がした。 「中には有名私立に行くつもりだった生徒が進路変更をしてうちに入学してくるという話ですよ」  プレッシャーだけが重く圧し掛かかる。 ――えっと……普通なら初任一年目はわりとラクな分掌に配置されるはずだよな? それがどういうわけか新一年生の担任で、おまけに理数科ってことは三年間クラス替えなし。最悪だ。どうして僕がそんな大役を……。 「真木先生は生徒指導部をお願いします」 「よろしくお願いします」  隣に座っていた、同期の国語教師が爽やかな笑顔で返事をするのを遠くに聞きながら、安西はぼんやりと自身のクラスについて考えていた。 「歳いくつ?」  校長室での着任の挨拶を終え、気付くと人けのない廊下で、先ほどの国語教師と二人きりになっていた。 「俺、真木。今年二十四」 「安西拓海です。僕は二十三だから、真木先生の後輩ですね」  真木は端正な顔いっぱいに笑みを浮かべると、ネクタイを緩めながら言った。 「先輩って、同期じゃん。敬語はナシな」  思わず安西の顔にも笑顔が浮かぶ。 「わかった。じゃあ、よろしく」  これが真木との最初の出会いだった。  出会いは決して悪くない。真木は、長身で美形で、ハーフのような顔立ちをしていた。職員室で着任の挨拶をしたときも、女性の教諭から「真木先生、ハーフなの?」と聞かれているのを耳にした。真木はそれを、珍しそうにもせず否定していた。  地毛だという髪は赤みがかった茶色で、肌の色は抜けるように白く、近くで見ると頬に細かい雀斑が見える。それが欧米風の顔に見せるのに一役買っていた。つんと通った鼻筋と、はっきりした二重が印象的な美青年だった。  その日から、真木は何かと安西のそばにいることが多かった。  県庁での辞令交付式の際も、真木は安西にぴったりくっついていた。赴任校に関係なく同期が集合する会ではたいてい教科ごとに分かれるものだが、真木は安西にべったりだった。  その時はまだ、身内意識が強いのだろうと思っていた。  そして迎えた新年度。赴任校での最初の仕事は、各分掌の打ち合わせだった。安西は新一年生の学年会議が始まろうとしていた。  綾野高校は各学年とも5クラス編成になっている。  会議で使う部屋は視聴覚教室だった。部屋の廊下側は窓がない分、中庭に面した壁は一面ガラス張りになっていて明るく、見晴らしがいい。安西はすぐにその教室が気に入った。 「さてと。じゃあ、始めましょうか」  学年主任の丸市(まるいち)の一言を合図のように、隣に座っていた女性教諭が司会を始める。 「では、これより第一回目の学年会議を始めます」  安西を含め、八人の教師が長机をロの字に向かい合わせて座っていた。 「最初に丸市先生、一言お願いします」 「えっと……なんか緊張しちゃうな」  丸市はおどけた表情で「へへっ」と笑うと、わざとその場をリラックスさせるような口調で言った。 「新一年生の学年主任、丸市です。学年主任は初めてなんですが、この学年は若い先生が大変多く期待を寄せているところです。この学年はスーパーサイエンスハイスクールの指定を受けた最初の学年です。理系の先生はもちろん、文系の先生方も忙しくなると思われますが、これからの三年間どうぞよろしくお願いします」  丸市は五十代の国語教師だった。教科柄か、言葉の選び方が的確で話の内容が分かりやすく丁寧だ。  続いて副主任の女性教諭が挨拶した。彼女の名は栗原(くりはら)。年齢は彼女も五十代くらいで、生徒教師問わず面倒を見るのが好きなお母さんタイプだ。  その他のメンバーは、担任が五名。一組が安西。二組が(きし)という英語教師で、安西と同期の新採用。三組が瀬川(せがわ)という三十代半ばの数学教師で、四組が保健体育の橋本(はしもと)、五組は熊谷(くまがい)という年配の社会科教師。そして学年付は横内(よこうち)という女性の臨時講師だった。  自己紹介が終わったところで雑談のようにクラスの話が始まった。 「安西先生と岸先生は中学校訪問に行ってないから、どんな生徒がいるか気になるでしょ」  栗原の言葉に、安西と岸は同時に頷いた。 「スーパーサイエンスの指定を受けて、優秀な子が入ってきてると聞いてます」 「そうそう、優秀な子は多いんだけどね。ひとり「この子は」っていうのがいるんだよ、1組に」 「へえ、なんていう生徒ですか?」  丸市は手元のファイルに綴じられていた名簿を広げ、そこにある名前を指差した。 「坂田蓮(さかたれん)――かなり優秀な生徒みたいでね、中学では学年トップ。医者の家系で、お父さんは綾野総合病院の外科医なんだって。彼も医学部志望なんじゃないかな。部活はテニス部で熱心に活動していたらしい。文武両道タイプだね」 「部活も熱心なら、人間関係も良さそうですね」 「そうだねぇ。面倒見が良くてクラスの人気者だったって聞いてる」 「非の打ちどころがねえじゃん」  岸が横からファイルを覗き込んで言う。 「ええ。まあ、でも……色々とね」  栗原が苦笑いを浮かべながら言った。 「お母さんがかなりのモンスターなのよ」  誰かが「出た」と呟いたのが聞こえた。安西も心の中で同じことを呟いていた。 「モンスターって、どれくらいひどいんですか」 「うーん……この方の場合は、学校に対しても息子に対してもかなり厳しいみたいよ。中学の先生も坂田を褒める一方で、お母さんの厳しさが度を越してるって漏らしてたわ。お父さんは仕事が忙しいせいか放任主義だし、家庭に居場所あるのかしらねぇって」 「そうですか」  その時の不思議な感覚は忘れられない。優等生として名前が挙がったその子が、実は最も気にかかる生徒になるような気がした。そういうことは直感で分かるものだ。 「有名私立も受かってたんだけどね、スーパーサイエンスに指定されたからウチに入学を決めたんだって。だから期待してるそうですよ」  思わずため息が漏れた。親はモンスターペアレントで息子は優等生、担任は初任――こんなめちゃくちゃな組み合わせがあっていいのだろうか。  主任の何気ない一言が安西をさらに追い立てた。 「まあ、安西先生はサラブレッドだから心配ないんじゃない?」 「そうよね。安西校長のご子息だし、期待の星だもの」  栗原の相槌もあって、担任たちの視線が安西に集中する。 「そ、そんなことないですよ」  間の抜けた謙遜に「またまたぁ」と主任が笑った。 「安西先生のお父様は大徳高校の校長で、お母様は新海高校の教頭なさってるでしょ。バリバリの管理職一家じゃないですか」 「へえ、そうなんだ」  若手の視線に、安西は俯く。安西の実家は教員の家系だ。姉は大学で講師をしながら児童心理の研究をしている。ゆくゆくは大学教授になるのだろう。  そのことがいつか話題に上がるかもしれないと思ってはいたが、やはりその場に居合わせると居心地が悪い。両親や姉と比べられ、査定されている気分だ。  なんとか話題を変えようとした。 「中学からの申し送りを見せてもらってもいいですか」 「もちろん。どうぞ」  手渡された分厚いフラットファイルを受け取ると、すでに何度か捲られた跡があった。    安西のクラスは1組。表紙を捲ったところに、自身のクラス名簿があった。  坂田蓮――成績優秀、部活動に熱心、人望も厚い、一・二年生で学級委員長、三年生で生徒会長、父親は放任主義、母親は学業に厳しい……。  先ほど聞いた情報となんら変わりない。特に新しい情報などないのに、何度も坂田の欄を目で追っていた。  放任主義の父親と、学業に厳しい母親。その文字から、自身の育ってきた環境と坂田を重ねていた。 ――坂田蓮。どんな生徒なんだろう。  僅かに胸に残る緊張を掻き消し、初任研のノートを開いた。  入学式説明会の日になった。新一年生と学年団はこの日に初めて対面する。  午前八時――一つの学年がまるまる収容できる広さの講義棟に新入生たちがぞくぞくと集まってくる。 「みんな真面目そうですね」 「ま、最初だけですけどね」  生徒たちが揃うのを待っていると、隣に立っていた栗原が呟く。 「この学校のカラーっていうのかな。賢い子が多いから、最初はちょっとした様子見をしてるのよ。じきに緩んでくるから要注意よ」  栗原はここへ来て長いらしく、校風も生徒の特長もよく知っている。 「あの子、申し送りで名前が挙がってた鈴原太一(すずはらたいち)だわ。場面緘黙だから、気を付けて見てあげて」 「わかりました」  安西はそれとなく鈴原を見た。おとなしそうな男子生徒だ。よく見ると何か探している。 「ペンを落とした人、いませんかー?」  突然、主任が大声を張り上げた。 「入り口付近で黒のペンを拾ってまーす! 落とした人は取りに来てくださーい!」  主任のアナウンスに耳を傾けながら、安西には鈴原の動向が気になっていた。何やら言いたそうにそわそわしているが、じっと足は床を踏みしめたまま動こうとしない。 ――自分から言えないんじゃないかな……。 「すみません、心当たりがあるんでお借りしてもいいですか?」  主任からペンを受け取り、鈴原の元へ向かった。 「これ、もしかして君の?」 「…………」  返事はない。しかし明らかに表情が変わっている。 「あ、違った?」  黙ったまま、ふいっと首を左右に振った。 「やっぱり、君の?」  すると今度はこくんと頷き、安西の手からペンを受け取った。 「よかった、持ち主が見つかって。僕は一組担任の安西。よろしく」  鈴原はぺこりと会釈をし、自分の席に向かって去っていった。 ――そっか、イエスかノーで答えられるようにしてあげると意思表示しやすいんだ。  少しホッとした。けれど、大変なのはそれからだった。鈴原のような静かな生徒ばかりではない。 「静かにしろ! 資料を受け取った奴から順に席につけ!」  四組担任の体育教師・橋本が大声を張り上げ、若さと統率力を発揮している。先ほど栗原が呟いた「様子見」がだいぶ軌道に乗ったらしく、講義棟はざわついていた。 「一組、全員そろってる!? 点呼とるから着席して!」  声を張り上げても、広い講義棟の一角では吸収されて消えてしまう。気付かずに席を立っている生徒もいる。 「ちょっと静かに……」 「先生、俺が点呼取りましょうか?」  額にじっとりと浮かぶ汗を拭い、声のする方に顔を向けた。 「君は……」  すり鉢状の階段型になっている講義棟で、安西よりやや高い位置に立っているものの、長身であることが分かる人物が立っていた。その声は落ち着いていて、鋭い眼光が向けられている。 「一組の坂田です。先生の声小さくて聞こえないんで、点呼なら俺が取りますけど?」  主任や栗原が言った通り、「この子は」と言わしめるだけのオーラが感じられる。 ――この子が坂田……。  その容姿はあまりに整っていて、つい言葉を失って見惚れてしまう。黒色の学生服をすとんと着こなす無駄のない体つき。耳より短い髪は、部活で日に焼けたのだろう明るい色をしていて、小さな顔をより小顔に見せている。まだ発展途上ではあるものの、とにかく整っている。 ――成績優秀でリーダーシップがあって、おまけに容姿端麗。恵まれすぎだろ。  そこではたと我に返る。 「でも、それじゃあ……」  担任としての立場が、とつい本音を漏らしそうになって黙った。そんな情けないことは言えない。ここは素直に生徒に任せてしまうのが得策かもしれないと気づく。 「じゃあ、任せていいかな?」 「はい。中学から知ってる奴多いんで任せてください」  直後に「名簿ありますか?」と先に言い出され、名簿を渡すことすら忘れていたことでますます立場をなくしてしまう。 「ああ、ごめん。これ名簿」  バインダーに挟んだ名簿を渡すと、新一年生とは思えないほどの落ち着きと統率力で点呼を取り始めた。その後ろ姿を無様に見つめながら、安西は頼もしい気持ちと情けない気持ちの狭間に立たされていた。
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