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プロローグ
放課後の校舎の長い廊下を歩いていた安西は、ふと足を止めた。どこからか風が吹いてくる。
――教室の窓が開いているのだろうか。
注意深く教室の中を見渡しながら、教室棟三階の廊下を東から西へ向かって歩いた。
どこも異常はない。最後に廊下の端の、自身が担任する教室まで来て再び足が止まった。
――窓が開いている。
覗かなくても気配で分かった。
――誰かが残っている。誰だろう。
その「誰か」は、名前を呼ばれることもなく、そこにいることを期待されてもいない。
窓側の列の、前から三番目。その場所を、安西は教室の出入り口から一歩入ったところで凝視した。
だれもいない。ただ一番後ろの窓が開き、カーテンが風に靡いていた。
昼間は生徒たちの熱気と騒音でごった返している教室も、放課後になると閑散として淋しい。安西にとっては静寂に支配された時間も好きではあるのだけれど。今はただ、淋しいとうより感慨深い。
静寂の波をかき分けるように教室を斜めに通って、開いている窓に近付いた。
窓の外を見ると、視界の半分がグランドで半分が実習棟になっている。遠くで陸上のスターターピストルの音が響いた。
安西は窓から身を乗り出した。そこからぎりぎり見える位置に短距離走のレーンがある。二年生と一年生の陸上部員がゴールしたところだった。50メートルを駆け抜けた彼らは、楽しそうにタイムを競い合っている。目の前のゴールに向かって全力疾走している彼らには分からないだろう。この先彼らを待ち受けている未来が、平坦なものでないことなど。
学校とは不思議な場所だ。毎日色々なことが起こるのに、過ぎてみればすべてが「懐かしい思い出」に変わる。楽しいこともつらいことも、過去のことになって忘れてしまう。一日たりとも同じ日なんてないはずなのに。
そしてその日々は延々と続いていくかのように思われるのだが、ある日ぱたりと終わりを迎える。終わってしまえば、なんともあっけない。
静寂に包まれた教室が安西の淋しさを物語っていた。
ふと、視界の隅に映るホワイトボードに目線を送る。教室の後ろ側に設置されたホワイトボードは、授業ではなく主に連絡用に使われていた。その、カーテンがかかりそうなほど隅っこに、青のホワイトボードマーカーで小さく
「アンちゃん、3年間ありがとう くるみ」
という文字が残されていた。
胸が苦しい。この三年間、この空間で、生徒たちに何かを残せたのだろうか。慕われれば慕われるほど、疑問が湧いてくる。
目標の進路を実現した者もそうでない者もいるが、どちらも努力し尽したのだと言い聞かせて卒業という分岐点に立たされている。ではその分岐点にすら立てずに、努力するチャンスさえも奪われた者はどうなるのだろう。そのチャンスを奪ったのが自分だとしたら、どうだろう。
今はただ、見えないものを信じているしかなかった。
冷たい風に身震いした。咄嗟に窓の枠に手を掛ける。急いで窓を閉めてから、ふと我に返った。
――これでもう、この教室の窓を閉めに来ることもないんだ。
窓ガラスから手を離すと、そっと錠を下ろした。
今日は三年生の最終登校日だった。
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