月と蝉

1/1
前へ
/1ページ
次へ
稲穂が頭を垂れる頃、祖母が死んだ。 「この前、米寿のお祝いをしたばっかりだったのにね」 葬儀場に掲げられた案内看板の名を見て、祖母の名前が「ナツ」であったと知った。夏生まれだったからだろうか。そういう私も、秋生まれで、紅葉をもじって「紅羽(くれは)」と名付けられたらしいから、こういう思考回路の一族であるのかもしれない、なんて思うと、ちょっと可笑しい。 「ちょっと、散歩してくる」 「あんまり遠くに行っちゃ駄目よ」 「はぁい」 祖母の死を淡々と流してゆくような空気が嫌で、フラリと家を出た。知人など当然いない、田舎の道を当てもなく歩く。 祖母の夫、私にとっては祖父である人は、早くに死んでいる。と言っても、祖父が死んだのは50代だったというし、祖母は20歳になるかならないか、の歳で嫁入りしたそうだから、30年くらいは一緒に過ごしている。 (30年かぁ……) 元々は他人の、一人の異性と、30年も一緒に暮らす、その想像が全く出来ないな、と思う。それともいつか、その想像が出来る誰かと、結婚をする事になるのだろうか。 葬儀への参列者は、親戚、近所の人、それから祖父の知人ばかり。祖母の知人として訪れたのは、訪問ヘルパーの会社の人くらいだった。友人という人は、いない。 (それでも、お祖母ちゃんは) 祖母は、いつ訪れても笑顔だった。孤独も、不満も、悲嘆も、見た事がない。 (幸せだったのかな) 一緒に暮らしていなかった私達が知るのは、祖母の一面だけ。月の裏側が見えないのと同じように、祖母は、私達に綺麗な面だけを見せてくれていたのかもしれない。そういうそれも、もはや推測でしかないけれど。 「…………」 道の脇、草葉の陰で、その命を精一杯、使い果たした蝉が力尽きていた。 20230912 鳥鳴コヱス
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加