「あの夏」の終わり

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 その年の夏は、連日35度を超える異常気象だった。そんな天候に倣うかのように、我が家でも異変が起こった。 「拓己、夏休みの宿題は、ちゃんとやっているのか?」 「大丈夫だよ! ほら、見て! 今年は、毎日ちゃあんと書いているんだ!」  ビールを飲んでいた父は、きちんと更新されている絵日記を見て、目を白黒させた。 「どう? ホントでしょ!」 「ああ、凄いな! 偉いぞう、拓己」  父は弟の頭をグリグリと撫でた。 「ようし、それじゃ、ご褒美だ。今度の日曜日、みんなで海水浴に行こう!」 「わぁい、やったぁ!」  よほど嬉しかったのだろう。滅多に長距離運転をしない父が、片道4時間もかかる隣県の海水浴場に行くことを宣言した。もちろん僕達兄弟は大はしゃぎだった。  海水浴の日も朝から暑く、海水浴場が近づくにつれ車が増えた。浜に着いたとき、父はかなり疲れた顔をしていた。  芋の子を洗うように混雑する浅瀬を抜けて、僕と拓己はギリギリ足が海底に着く辺りを泳いだ。しばらくして浜に戻ると、父はパラソルの日陰でウトウトしている。 「ちょうど良かったわ。お母さん、お手洗いに行きたいの。お父さんを見ていてくれる?」 「僕、冷たいもの買ってきていい?」 「それじゃ、一緒に行きましょ。拓己は、お父さんとここにいてね?」 「うん! 僕、焼きそば食べたい!」 「はいはい」  浜に2人を残して、僕は母と海の家に向かった。仮設トイレは長い行列が出来ていて、僕は先に海の家で注文を済ませ、母を待った。空は真っ青で、遠くに小さな雲が幾つか浮かんでいる。拓己の今日の絵日記は、きっとこの風景なんだろうな。そんなことをぼんやり考えていると、母が来た。2人でビニール袋をぶら下げて、パラソルに戻る。 「あれ、拓己は?」  相変わらず父が眠りこけている。弟の姿は近くの浅瀬にも見当たらない。 「お父さん、起きてください。拓己がいないんです」 「僕、トイレと車を見てくる!」  もしかしたら、行き違いになったのかも。それとも迷子に――不安はやけに素早く膨らんでいく。  1時間後、海の家を通して迷子放送を流してもらった。それでも弟は見つからない。  結局、海の底から拓己の遺体が見つかったのは、翌日の午後だった。  あの日から、父は――両親は、いや、僕も、みんながそれぞれ悔いていた。どうして目を離してしまったんだろうと。  進学を理由に、僕はこの家から逃げた。逃げ続けてきたけれど、やっぱり逃げられないことを痛感する。家に残された両親は、もっと苦しんできたに違いない。僕達は、「あの夏」に囚われたままなんだ。父の中から僕が消えても、それは自業自得というものか――。  プルルルル……  ポケットの中でスマホが震えた。  なぜか、確信めいた予感がよぎる。着信は、ホスピスからだ。  父の長い夏が終わった。 【了】
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