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14 太陽
同性愛者だと自覚したのは、今にして思えば小学生の時だった。年頃なのか好きな子の話が出始めた。特にそういうことに興味のあったクラスメイトが、「誰が好き?」とみんなに聞く。聞かれるたびにいないと答える子もいれば、正直に回答する子もいる。僕はその時、近所のお兄さんの名前を答えた。何歳か年上で、近くの公園で遊ぶことがあった人。聞いてきたクラスメイトの彼は当然その人を知らず、ただ、「えー男じゃん」と言われた。好きな人と聞かれてお兄さんのことしか浮かばなかったから、何が悪いのかと疑問だった。でもきっと違うんだろうと、次に聞かれた時には「いない」と答えたことを覚えている。仲のいいクラスメイトの女の子を出してもよかったけれど、からかいも発生していたし、めんどくさくて、何も言わないのが一番いいと思ったんだ。
恋人はずっといなかった。恋自体曖昧だった。”違う”のが無意識に引っかかっていたんだろうか。素敵だなと思う人がいて、目は自然にそれを追って、脳は当たり前のようにそれを繰り返し再生するのに、それこそ画面の向こうのようだった。いつか僕にもと思い願っていたけれど、それはやはり、映画の中の恋人たちを見て思っていたこと。すぐ近くの誰かに思いをはせることはなかった。それでも体は成長し、欲は湧き、いつかの誰かに触れられる慰めをした。
バロウ・ストーンに対する恋心が偽物なのかどうか、僕に判断するすべはない。ただあるのは、こうして彼に会いに行こうとする道中すらドキドキと楽しいという事実。
電車を降り、時計塔の下を目指す。
彼の家に呼ばれた。今日はもう朝から――正確に言えば昨晩から――頭の中と心臓はあれやこれや期待と不安で騒がしい。
駅のサイズに見合わず”塔”の名を冠するにふさわしい時計塔は、まさしく目印として存在している。灰色のレンガ積み、見上げる視認性のいい文字盤。そんな塔の下で待っていてくれた彼は、目立つから一目でわかった。自然と小走りになる足。近くまで行くと、気付いた彼は数歩進んで迎えてくれた。そうして横に並んで、初めの日のように少し速足で彼の家に向かったのだ。
道を行く途中、獣人が多く目についた。僕がバロウを好きになったからそれに気付くようになったのだろうか。
「なんか、獣人の方が多いような」
「そうですね。この地域は多いと思いますよ」
気のせいではなかったらしい。意識しすぎ、なんてことじゃなくてよかった。
『おれの住んでいるアパート』に行くのだ。危機感が無さすぎだろうか。もっと段階を踏んだ方がいいだろうか。結婚相談所に金を払って参加しているからといって、絶対にまともな人間である保証はない。彼からしても、そうだけど。
うまく物事が運びすぎていて、不安がある。浮かれすぎている自分を突き落とす何かがきっとあると思ってしまう。この三十年間何もなかったのに、短期間で事が急速に進展するだなんて信じられない。けれど僕はそれを望んでいる。引っかかってもいいと思っている。どんな物語も何かが起こる時は急で、コロコロと転がっていくものだ。
以前意地悪をして速足で歩いたのに、彼は悠々とついてきた。見上げるほど背が高く、僕は彼の肩ほどにしか届かない。だから僕の速足は彼にとっての普通だった。今、僕は、普段通りに歩いている。彼からしたらゆっくりであるそれに、やはり合わせてくれている。
「ここです」
外から見ればいたって普通のアパートだ。横とピタリとくっついているような、どこまでが一棟かわからない二階建ての建物。茶色いレンガの建物に並ぶ白い上げ下げ窓。
「どうぞ。散らかっていますが」
「お邪魔します」
白い玄関ドアを開け案内された部屋は、綺麗に片づけられていた。不快ではない、何とも言えない匂いがする。花だろうか。あまり人の家を嗅ぎまわるのも良くないけれど、匂いというのは勝手に意識に入ってくる。
「今日は話したいと思って、来ていただいたんです。外だとやっぱり人目が気になるのもありますよね?」
今もってそれを否定することは難しい。彼が獣人だから? 僕が恋人仕草を知らないから? きっと二つとも正解だ。
キッチンが見えるリビングで、灰色の二人掛けソファに腰掛ける。彼は僕の斜め向かいに、オットマンを移動させて座った。
ぱちりと目が合う。彼は口を開け、嬉しそうに目を細めて笑った。
「目が合いましたね。最初お会いしたときは目が合わなかったんですよ。責めてるわけじゃないです。それほどおれを避けたがっているのに、ソーマさんは二回目の約束も受けてくれたんですよ。――結構、顔合わせに来ない方がいて……。待ち合わせ場所でしっかりとお会いする前に、おれの存在を見つけてから帰られる方もいたんです」
彼がこちらに背を向けて座っていた理由が分かった。自分を見つけた上で逃げ帰る人たちを見ないためだったのだ。
胸がずきりと痛む。僕がしでかしていたことが、いかに彼を傷つけたのか。
バロウは少し足を広げ、組んだ手を太ももに乗せた。少しゆったりと緊張の解けた姿と表情。
「でもソーマさんは来てくれたから、もしかしたらいけるかもって思って。だから、友達になりたいと言ったのは9割くらい嘘でした。最初からあなたに好意を持って、それが積み重なっていて、でもあなたは獣人であるおれを怖がっているようだったからすぐに誘うのは良くないと思って……。時間をかければって望みがあったから先延ばしにしたんです。――怖いですか?」
「……いいえ。僕が獣人の方を避けていたのはご存じの通り事実です。今日だって来る途中見かけた方たちを『バロウさんと同じ獣人だ』って珍しいものを見る目で見ていました。多分そんな見方を無くすのは時間がかかると思います」
「おれのことならじろじろ見ても良いんですよ。耳を引っ張ってみますか? 尻尾はないですけど確認しますか?」
彼の体に触れる許可のような誘いを、ただ魅力的だと思ってしまう。
「引っ張ったりはしないですけど……。あの、一つだけ聞きたいんです。カフェで口元を隠されてた気がして」
「あー……」
バロウはまさに、気にするようにその大きな手のひらで口を隠した。そのまま彼は話す。
「牙というほどではないんですが、獣人の歯はちょっと……怖がられるかもしれないと思って。もちろんソーマさんを噛むつもりはないですが」
「見せてください」
先ほどは口元を隠さずに笑ってくれたというのに、彼は少し困った顔をして、それからそっと手を外した。「い」と口を横に広げ、それから「あ」と大きく開く。そうして見えた歯は人間よりも尖っていた。僕は歯医者ではないし歯について学んだこともないが、犬歯が目立つのは確かだし、他の歯も山型であるように思う。
じっと口を見ていた視線を上げると、バロウの耳は悲しそうに力なくしおれているように見えた。いつものピンと立った、僕の声を聞くための耳とは違う。それが何とも可愛らしい。
「怖くないですよ。全然、怖くないです」
嘘ではない気持ちがあった。彼が獣人でなくなったわけではないし、むしろ僕との違いを見せられたというのに、ずっと薄っすら感じ続けていた何かがなくなったように思う。すると、電話で話したあの気分が一気に湧き上がってくるのが分かった。心臓が戸を叩いている。お尻が半分ソファから浮き上がる。手が開いたり閉じたり落ち着かない。
「バロウさんのことをすっかり好きになってしまいました。それで、あの、電話でお話した通り、その……」
「――隣に行ってもいいですか?」
「はい」
ソファが沈む。スペースを空けたのに、このソファは彼にとってゆとりのある一人掛けみたいなものなんだろう。布が擦れる。熱を感じる。
緊張で半開きのまま固まった左手に、バロウの手が重なった。その大きな手は僕を包み、高い体温が肌を焼くように伝わってくる。
まるで手に全神経が集中しているかのようなのに、音が遠くなるくらい心臓も騒がしい。血流量が増しているんだろうか。このままだと僕は、風船のように膨れ弾けてしまう。
ロボットのようにどうにか顔を上げ彼を見た。首が軋む。
「ソーマさん。好きです」
彼の目はビー玉のように澄んだ薄茶色。瞳孔から広がる模様は太陽のよう。それに吸い込まれるように、初めて恋人のキスをした。
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